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第四章:かりそめの婚約。その終わり
31:舞踏会
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帝都に夕闇が訪れつつある中、日比谷迎賓館の大階段を、夜会服で着飾った人々が次々に昇っていく。階段の両脇には、この日のために大小の菊の花が敷き詰められ、それらが淡いガス燈の灯りに照らされてきらびやかに輝き、管弦楽団が奏でる音色が華やかな雰囲気を演出していた。
一方、階段上で行われている検査は極めて厳重なものであり、衣服の下になにか隠し持っていないかを検めるため、警官が来賓の衣装に触れるほどだった。当然、招待客の多くは華族や他国の将校、外交官等の貴人であり、中には失礼ではないか、と怒り出す者もいた。だが、燕尾服の侍従が、鋭い眼差しで国賓に万一のことがあってはならぬという大君のご意向である、また、西蘭共和国からの強い要請でもある、と諭すと、全員、渋々といった感じで検査に応じた。
睡蓮も、この場では得物を隠し持つことはなかった。如月少佐の婚約者という身分であるとはいえ、万一、誰かに武器が見つかれば面倒なことになるし、なによりも三郎が反対した。
とはいえ、彼女としては丸腰でも一向に構わない。龍進に命じられた自分の役割は、怪しい動きをしている者がいないか見張ることと、その鼻で火薬の匂いがしないか嗅ぎ分けるというものであり、異常があれば龍進か三郎に伝えればいいからだ。
ただ、一つ困ったことがあった。
今、彼女は迎賓館の一階東側に設けられた控え室におり、そこにはすでに百人近くの招待客が集まっているのだが、それぞれが皆、異なる香水をつけている上、またその匂いがあまりにも強いため、火薬のわずかな匂いを嗅ぎ分けることは相当難しいと思われるからだ。
かと言って、燕尾服の胸に数多の勲章をぶら下げた男性達や、色とりどりのドレスを纏い、扇を手にして談笑する女性達の間を縫って立ち歩くことはさすがにためらわれた。三郎から、如月少佐の婚約者として周りから注目を集める以上、極力、動き回らず静かにしているように、と言われていたこともあるが、なによりも、居心地が悪かったからだ。
慣れない場所であるのに加え、今、己が着ている衣装があまりにも自分には不釣り合いだからだ。彼女のために誂えられた衣装は、春の海を思わせる鮮やかな青色のドレスで、胸元や袖口、スカートには数多の半透明のフリルがあしらわれている。首元にあしらわれた空色のリボンの真ん中には水色に光る大きなブローチがとめられ、艶やかな黒髪には一輪の白い薔薇が挿されている。
それ故、極力目立たぬよう部屋の隅に控えているのだが、何故か己の前を通り過ぎる人々は、皆、自分に注目しているように思えるし、特に男性の中には、ハッと立ち止まり、呆けたような顔でこちらを見つめてくる者すらいる。
やはり、このような社交場において、明らかに自分は垢抜けておらず、悪目立ちをしてしまっているからだろう。
睡蓮は、一瞬、視線を足下の赤絨毯へ落とす。だが、すぐにそれでは己の仕事が全う出来ないと思い直し、しかと視線を室内の人々に向け直した。
自分は、龍進の婚約者として、周りからどのような視線に晒されようと、なにを言われようと、静かに微笑んでいなければならないし、同時にテロリストの脅威をいち早く見つけ出さなければならない。
そう思って、微笑みを崩さずに、視線を注意深く巡らせる。
そのときだった。燕尾服を着た若い男と目が合った。
やや軽薄さを感じさせる男が、ワイングラス片手に睡蓮に向かって近づいてくる。
「美しいお嬢様、本日は、お一人でしょうか」
「…………」
困ってしまった。龍進には、舞踏会の場ではしゃべらないように言われているし、そもそも睡蓮もそつなく会話をこなす自信など全く無い。
この場で相手の首を掻ききってしまえれば楽なのだろうが、流石にそういうわけにもいかない。
「もしよろしければ、本日の舞踏会、私にエスコートさせていただくというのはいかがでしょうか。こう見えて、昨年まで欧州の大学に国費留学をしていた身、ご令嬢にはなんらご負担を感じさせることなく、楽しいひとときを過ごしていただけることをお約束いたします」
目の前に相手の手が差し出されてきた。手をとってほしい、ということだろうか。
どうしたものだろうか。戸惑っていると、ふと、睡蓮は、手持ちの鞄の中に龍進から渡されていた紙片があったことを思い出した。なにか困ったことがあったら相手に見せるように、と、渡されていたものだった。
それを取り出して目の前の男に手渡すと、相手の顔から、みるみる血の気が引いていくのがわかった。
『私は帝国陸軍第一師団、如月龍進少佐の婚約者です。
身体の事情で、声を出せない非礼をお詫びいたしますとともに、
本日は何卒よろしくお願い申し上げます』
顔面蒼白になった男が、数歩、後ろによろめくと、腰が折れんばかりに頭を下げ、半ば悲鳴混じりの声で言った。
「た、大変なご無礼をいたしました! どうかお許しください!」
相手のあまりのうろたえぶりに、睡蓮も困惑の色を隠せない。
「いや……、しかし……、如月少佐のご婚約者様が、こんなにお美しいお方だったとは……」
そして、半ば呆然としたような男のつぶやき声に、周囲にざわめきが広がっていく。
「あの方が如月少佐の……?」
「まるでお人形さんのように可愛らしい……」
「ひときわ美しい方がいらっしゃるとは思ったが、それならば納得出来るというもの」
「一体、どこのお生まれなんでしょう」
睡蓮は柳眉を寄せる。容姿を褒める言葉が自分に向けられているのも理解しがたいが、それ以上に、周囲の注目を集めている状況は、警戒の任のことを考えれば全くよくない状況だ。
そのときだった。
控え室の扉から、一人の男性が現れ、招待客に向かって言った。
「みなさま、まもなく大君中宮両殿下、そして、連合国の女王陛下がご到着されますので、お二階、舞踏会会場へとお移り願います」
係員の案内に従い、人々が移動を始める。
睡蓮は、内心、安堵する一方で、来賓が来たということは龍進も一緒に到着したのではないかと思い、他の人々に続いてロビーに出たところで、玄関のそばに軍服姿の見慣れた顔を見つけた。
同時に相手も睡蓮に気づいたらしく、顔をこちらに向けた。
だが、その途端、龍進は微かに目を見開いたまま固まってしまう。
「どうかなさいましたか?」
近づいた睡蓮が小首を傾げて問いかけると、なぜか彼は頬を微かに赤らめ、軽く咳払いをして言った。
「……なんでもない。それよりも一人で待たせてすまなかった」
「大丈夫です」
と、少し離れた場所にいた二階堂軍曹が、どこか呆けたような表情でこちらに近づいてきた。
「少佐、もしかして、そのお方が……」
「ああ、紹介しよう。今度、私の妻になってくれる睡蓮だ」
口を半開きにしていた二階堂軍曹に、睡蓮は膝を軽く曲げて中腰になり、両手でスカートの裾を持ち上げてお辞儀をする。
二階堂はハッと我に返り、敬礼をすると早口で言った。
「第一師団の二階堂であります! 少佐には日頃よりご指導ご鞭撻を賜っております。本日はお目にかかれて光栄でございます」
緊張で早口になっている相手に対して、睡蓮は微笑みを浮かべてみせる。もちろん、偽りの笑顔だ。
「事情があって、彼女は声が出せないんだ。非礼を許して欲しい」
「い、いえ……! 滅相もございません!」
そう言いながら、二階堂は視線をあちこちにさまよわせる一方、手も前に組んだり後ろに回したりとせわしない。
「どうした? 落ち着きが無いようだが」
「そ、その……、お相手様があまりにもお美しく……、特に少佐と並んでいらっしゃると、とてもまぶしく感じられると申しますか……」
睡蓮と龍進が、戸惑いに顔を見合わせる。
「世辞はいらないぞ」
「いえ、そんなつもりは毛頭無く、本心からの言葉でございまして……! 過去、私がお会いしたどのご夫婦よりも……、いえ、ご結婚はまだでしたね……、とにかく……!」
二階堂が慌てたように首を横にふって弁解をはじめたとき、丸眼鏡の将校――小野少佐がひょいと顔を出して言った。
「あのう、ご歓談中のところ申し訳ないんだけど、そろそろ中に入っていただけますかね? まもなく開会の時間ですので」
「ああ、すまない」
「申し訳ありません! 自分はすみやかに持ち場に戻ります!」
上官二人を前に、顔色を変えた二階堂が慌てて玄関へと走って行く。
「悪いね。……あ、如月少佐、そちらがもしかして……?」
「ああ、僕の婚約相手の睡蓮だ」
小野が右足を引き、左腕を身体の前で水平に差し出して頭を下げる。
「如月少佐のフィアンセ殿。お初にお目にかかります。歩兵連隊中隊長の任を仰せつかっている小野でございます。どうかお見知りおきを」
睡蓮も中腰になって返礼する。
と、そのとき、小野の睡蓮を見る目が微かに細められた。瞳の中に、なにかを見定めるような冷たい色が浮かび、表情から一切の笑みが消える。
だが、それも一瞬のことだった。彼はすぐに朗らかな表情に戻ると、「それでは、また後ほど」と言って再び頭を下げると、足早に会場へと向かっていく。
「おっとぉ」
「申し訳ない」
向こうから来た三郎とすれ違う際に軽くぶつかったらしく、戯けた声が聞こえた。
「おまえさんたち、急いでくれ」
三郎も、見かけた二人に催促をして別の部屋に向かっていった。
ロビーには睡蓮たちの他には、数名の招待客が残っているだけで、彼らも係員に促されて舞踏会会場に続く、ビリヤード室脇の階段を登っていた。
「僕たちも行こうか」
「……はい」
不意に右側から龍進の左手が伸びてきて、睡蓮の小さな手をしっかりと握った。思っていたよりも大きく、そして温かい手。
「…………っ」
驚きに息をのんで傍らの婚約者を見上げるが、彼は前を向いたまま、表情一つ変えることなく歩き始める。
「慣れない場だろうが、我慢してほしい」
「…………」
しっかりと握られた右手から、龍進の熱がじんわりと伝ってくる。
睡蓮は自分の胸の鼓動がやや早くなったような気がした。
どうしてだろう。
なんで自分はこんなに緊張しているんだろう。
これは単なる仕事だというのに。
会場に足を踏み入れると、管弦楽団の演奏とともに、周囲の喧噪が飛び込んできた。貴賓の隣席を控え、室内の熱気が徐々に上がってきている。
睡蓮は小さく息を吐く。
落ち着かなければ。自分がやるべきことは、彼に命じられた任務を粛々と遂行すること。龍進の婚約者としてふるまいつつ、彼に仇なす者を排除すること。
睡蓮はそう自分に言い聞かせると、龍進とともに会場全体が見渡せる右後方へと向かう。
一方、階段上で行われている検査は極めて厳重なものであり、衣服の下になにか隠し持っていないかを検めるため、警官が来賓の衣装に触れるほどだった。当然、招待客の多くは華族や他国の将校、外交官等の貴人であり、中には失礼ではないか、と怒り出す者もいた。だが、燕尾服の侍従が、鋭い眼差しで国賓に万一のことがあってはならぬという大君のご意向である、また、西蘭共和国からの強い要請でもある、と諭すと、全員、渋々といった感じで検査に応じた。
睡蓮も、この場では得物を隠し持つことはなかった。如月少佐の婚約者という身分であるとはいえ、万一、誰かに武器が見つかれば面倒なことになるし、なによりも三郎が反対した。
とはいえ、彼女としては丸腰でも一向に構わない。龍進に命じられた自分の役割は、怪しい動きをしている者がいないか見張ることと、その鼻で火薬の匂いがしないか嗅ぎ分けるというものであり、異常があれば龍進か三郎に伝えればいいからだ。
ただ、一つ困ったことがあった。
今、彼女は迎賓館の一階東側に設けられた控え室におり、そこにはすでに百人近くの招待客が集まっているのだが、それぞれが皆、異なる香水をつけている上、またその匂いがあまりにも強いため、火薬のわずかな匂いを嗅ぎ分けることは相当難しいと思われるからだ。
かと言って、燕尾服の胸に数多の勲章をぶら下げた男性達や、色とりどりのドレスを纏い、扇を手にして談笑する女性達の間を縫って立ち歩くことはさすがにためらわれた。三郎から、如月少佐の婚約者として周りから注目を集める以上、極力、動き回らず静かにしているように、と言われていたこともあるが、なによりも、居心地が悪かったからだ。
慣れない場所であるのに加え、今、己が着ている衣装があまりにも自分には不釣り合いだからだ。彼女のために誂えられた衣装は、春の海を思わせる鮮やかな青色のドレスで、胸元や袖口、スカートには数多の半透明のフリルがあしらわれている。首元にあしらわれた空色のリボンの真ん中には水色に光る大きなブローチがとめられ、艶やかな黒髪には一輪の白い薔薇が挿されている。
それ故、極力目立たぬよう部屋の隅に控えているのだが、何故か己の前を通り過ぎる人々は、皆、自分に注目しているように思えるし、特に男性の中には、ハッと立ち止まり、呆けたような顔でこちらを見つめてくる者すらいる。
やはり、このような社交場において、明らかに自分は垢抜けておらず、悪目立ちをしてしまっているからだろう。
睡蓮は、一瞬、視線を足下の赤絨毯へ落とす。だが、すぐにそれでは己の仕事が全う出来ないと思い直し、しかと視線を室内の人々に向け直した。
自分は、龍進の婚約者として、周りからどのような視線に晒されようと、なにを言われようと、静かに微笑んでいなければならないし、同時にテロリストの脅威をいち早く見つけ出さなければならない。
そう思って、微笑みを崩さずに、視線を注意深く巡らせる。
そのときだった。燕尾服を着た若い男と目が合った。
やや軽薄さを感じさせる男が、ワイングラス片手に睡蓮に向かって近づいてくる。
「美しいお嬢様、本日は、お一人でしょうか」
「…………」
困ってしまった。龍進には、舞踏会の場ではしゃべらないように言われているし、そもそも睡蓮もそつなく会話をこなす自信など全く無い。
この場で相手の首を掻ききってしまえれば楽なのだろうが、流石にそういうわけにもいかない。
「もしよろしければ、本日の舞踏会、私にエスコートさせていただくというのはいかがでしょうか。こう見えて、昨年まで欧州の大学に国費留学をしていた身、ご令嬢にはなんらご負担を感じさせることなく、楽しいひとときを過ごしていただけることをお約束いたします」
目の前に相手の手が差し出されてきた。手をとってほしい、ということだろうか。
どうしたものだろうか。戸惑っていると、ふと、睡蓮は、手持ちの鞄の中に龍進から渡されていた紙片があったことを思い出した。なにか困ったことがあったら相手に見せるように、と、渡されていたものだった。
それを取り出して目の前の男に手渡すと、相手の顔から、みるみる血の気が引いていくのがわかった。
『私は帝国陸軍第一師団、如月龍進少佐の婚約者です。
身体の事情で、声を出せない非礼をお詫びいたしますとともに、
本日は何卒よろしくお願い申し上げます』
顔面蒼白になった男が、数歩、後ろによろめくと、腰が折れんばかりに頭を下げ、半ば悲鳴混じりの声で言った。
「た、大変なご無礼をいたしました! どうかお許しください!」
相手のあまりのうろたえぶりに、睡蓮も困惑の色を隠せない。
「いや……、しかし……、如月少佐のご婚約者様が、こんなにお美しいお方だったとは……」
そして、半ば呆然としたような男のつぶやき声に、周囲にざわめきが広がっていく。
「あの方が如月少佐の……?」
「まるでお人形さんのように可愛らしい……」
「ひときわ美しい方がいらっしゃるとは思ったが、それならば納得出来るというもの」
「一体、どこのお生まれなんでしょう」
睡蓮は柳眉を寄せる。容姿を褒める言葉が自分に向けられているのも理解しがたいが、それ以上に、周囲の注目を集めている状況は、警戒の任のことを考えれば全くよくない状況だ。
そのときだった。
控え室の扉から、一人の男性が現れ、招待客に向かって言った。
「みなさま、まもなく大君中宮両殿下、そして、連合国の女王陛下がご到着されますので、お二階、舞踏会会場へとお移り願います」
係員の案内に従い、人々が移動を始める。
睡蓮は、内心、安堵する一方で、来賓が来たということは龍進も一緒に到着したのではないかと思い、他の人々に続いてロビーに出たところで、玄関のそばに軍服姿の見慣れた顔を見つけた。
同時に相手も睡蓮に気づいたらしく、顔をこちらに向けた。
だが、その途端、龍進は微かに目を見開いたまま固まってしまう。
「どうかなさいましたか?」
近づいた睡蓮が小首を傾げて問いかけると、なぜか彼は頬を微かに赤らめ、軽く咳払いをして言った。
「……なんでもない。それよりも一人で待たせてすまなかった」
「大丈夫です」
と、少し離れた場所にいた二階堂軍曹が、どこか呆けたような表情でこちらに近づいてきた。
「少佐、もしかして、そのお方が……」
「ああ、紹介しよう。今度、私の妻になってくれる睡蓮だ」
口を半開きにしていた二階堂軍曹に、睡蓮は膝を軽く曲げて中腰になり、両手でスカートの裾を持ち上げてお辞儀をする。
二階堂はハッと我に返り、敬礼をすると早口で言った。
「第一師団の二階堂であります! 少佐には日頃よりご指導ご鞭撻を賜っております。本日はお目にかかれて光栄でございます」
緊張で早口になっている相手に対して、睡蓮は微笑みを浮かべてみせる。もちろん、偽りの笑顔だ。
「事情があって、彼女は声が出せないんだ。非礼を許して欲しい」
「い、いえ……! 滅相もございません!」
そう言いながら、二階堂は視線をあちこちにさまよわせる一方、手も前に組んだり後ろに回したりとせわしない。
「どうした? 落ち着きが無いようだが」
「そ、その……、お相手様があまりにもお美しく……、特に少佐と並んでいらっしゃると、とてもまぶしく感じられると申しますか……」
睡蓮と龍進が、戸惑いに顔を見合わせる。
「世辞はいらないぞ」
「いえ、そんなつもりは毛頭無く、本心からの言葉でございまして……! 過去、私がお会いしたどのご夫婦よりも……、いえ、ご結婚はまだでしたね……、とにかく……!」
二階堂が慌てたように首を横にふって弁解をはじめたとき、丸眼鏡の将校――小野少佐がひょいと顔を出して言った。
「あのう、ご歓談中のところ申し訳ないんだけど、そろそろ中に入っていただけますかね? まもなく開会の時間ですので」
「ああ、すまない」
「申し訳ありません! 自分はすみやかに持ち場に戻ります!」
上官二人を前に、顔色を変えた二階堂が慌てて玄関へと走って行く。
「悪いね。……あ、如月少佐、そちらがもしかして……?」
「ああ、僕の婚約相手の睡蓮だ」
小野が右足を引き、左腕を身体の前で水平に差し出して頭を下げる。
「如月少佐のフィアンセ殿。お初にお目にかかります。歩兵連隊中隊長の任を仰せつかっている小野でございます。どうかお見知りおきを」
睡蓮も中腰になって返礼する。
と、そのとき、小野の睡蓮を見る目が微かに細められた。瞳の中に、なにかを見定めるような冷たい色が浮かび、表情から一切の笑みが消える。
だが、それも一瞬のことだった。彼はすぐに朗らかな表情に戻ると、「それでは、また後ほど」と言って再び頭を下げると、足早に会場へと向かっていく。
「おっとぉ」
「申し訳ない」
向こうから来た三郎とすれ違う際に軽くぶつかったらしく、戯けた声が聞こえた。
「おまえさんたち、急いでくれ」
三郎も、見かけた二人に催促をして別の部屋に向かっていった。
ロビーには睡蓮たちの他には、数名の招待客が残っているだけで、彼らも係員に促されて舞踏会会場に続く、ビリヤード室脇の階段を登っていた。
「僕たちも行こうか」
「……はい」
不意に右側から龍進の左手が伸びてきて、睡蓮の小さな手をしっかりと握った。思っていたよりも大きく、そして温かい手。
「…………っ」
驚きに息をのんで傍らの婚約者を見上げるが、彼は前を向いたまま、表情一つ変えることなく歩き始める。
「慣れない場だろうが、我慢してほしい」
「…………」
しっかりと握られた右手から、龍進の熱がじんわりと伝ってくる。
睡蓮は自分の胸の鼓動がやや早くなったような気がした。
どうしてだろう。
なんで自分はこんなに緊張しているんだろう。
これは単なる仕事だというのに。
会場に足を踏み入れると、管弦楽団の演奏とともに、周囲の喧噪が飛び込んできた。貴賓の隣席を控え、室内の熱気が徐々に上がってきている。
睡蓮は小さく息を吐く。
落ち着かなければ。自分がやるべきことは、彼に命じられた任務を粛々と遂行すること。龍進の婚約者としてふるまいつつ、彼に仇なす者を排除すること。
睡蓮はそう自分に言い聞かせると、龍進とともに会場全体が見渡せる右後方へと向かう。
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