詐欺る

黒崎伸一郎

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反動の青春時代

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高校を卒業して私は眼鏡からコンタクトレンズに変えた。
当時はコンタクトの出始めでハードレンズとソフトレンズがあり(今もあるか…)ソフトレンズは両眼で四万円以上していた。
親に眼鏡は不自由だからと言って、買って貰ってコンタクトをはめる。
最初はなかなか入らないが慣れるとそんなに痛くはない。
中学時代から眼鏡は黒縁から少しオシャレな眼鏡に変えてはいたが、度がきつい為レンズが厚く渦を巻いたように見える。
それが嫌で外に出ると眼鏡を外すのが多くなるのだがやはりよく見えないのでまた眼鏡をかけるの繰り返しだった。
それがなくなり私のコンプレックスは殆どなくなったのだ。
背は百六十五より少し低いのではっきり言ってチビである。
体重は五十キロほどで太ってはいない。
私は少し自分に自信が持てるようになっていたのだ。
ただ高校時代は友達に教えてもらった麻雀にのめり込み、全く勉強らしい勉強はしたことがなかった。
その為、大学は全て落ちてしまった。
中学高校と家庭教師をやとってもらったり塾にも行ってはいたが、全く集中して勉強できずにいたのだ。
それでもクラスで真ん中くらいの成績だったが、見栄を張り過ぎて全て自分の偏差値以上の大学を受けて滑ってしまったのだった。
受験した大学の数は十三校。それは私の高校では飛び抜けて一番多い数字だった。
十二月から試験はあったが大体は二月に受験日は固まる。
だから二月は殆ど受験みたいな感じだった。
都会に憧れた私は東京の大学に行きたかった。
私にとってありがたかったのは親戚に大学に行っている従兄弟がいて、高円寺にマンションを借りていたのだ。
二月はちょうど地元に帰って家の商売の手伝いをするので、ただで住んでもいいということでとりあえず宿は確保できた。
そのマンションは立地も良くまだ新しい七階建ての二LDKの綺麗な部屋だった。親戚も裕福な環境でそこは親が買って持っていた物件だった。
憧れの東京でいい部屋にいて、しかも一人なのだから羽目を外さないわけがない。
初めて行った新宿の歌舞伎町の賑やかさに驚き、うろうろしている時に声をかけてくる男性がいた。
「このボールペン、ブランド品で一本三万円するんだけど在庫処分で今なら一万円でいいから買わないか?」とキャッチに捕まった。
受験で親から十万円もらってきた私はそれがバッタ商品などと思いもせずに(いいボールペンだな)と感じ、ついにポケットから一万円札を取り出し渡したのだ。
(いいものを買ったな!)と思い歩いていたらフリーの麻雀屋があり、お一人様歓迎の文句が書いてある。
今までなら一人ではそんな場所には入れなかったが今は少し違う。
入ってルールとレートを聞く。
いまいちわからなかったが二万円持っていれば遊べると言うのを聞いて卓に入って麻雀を始めた。
まだ仲間としか打ったことがないので負けるのも当たり前だった。
負けは一万円ほどだったが、やはり仲間とする麻雀とは違い、ギャンブルをしてる感があった。
受験が終わるたびに歌舞伎町に行き、今度はディスコに行ってみる。
すごい熱気で少しうるさいぐらいの音だ。
軽快な曲が流れていた。
皆、自分で好き勝手にリズムを取って踊っていた。
私もステージに入って踊り出す。
爽快感があり何分でも踊っていたい。
すると音楽が変わりステージが薄暗くなる。
これが噂のチークタイムだったのだ。
カップルはすぐに静かに薄暗いステージで抱き合いチークを楽しむ。
男同士で来た人は自分の好みの女性を誘う。
もちろん断られる人もたくさんいる。
ナンパにのって一緒にチークを踊り出す女性もいた。
でも私は可愛いと思う人に声をかけることすらできない。
ナンパを失敗して笑われるのが怖いのだ。
結局その日は声をかけることは一度もなく、終電前に帰ったのだった。
高円寺の駅に着いてトボトボと帰る自分の姿が情けなく、(何で声をかけなかったんだろう?自分より不細工な男がナンパしてチークを踊っていたのになぜ私は声をかけることさえできなかったんだ?)と自分をなじりながらマンションの扉を開けた。
結局、十三の大学の受験は七校しか受ける事はなく、麻雀かディスコの毎日だった。
ただディスコでは何回目かの時に初めて声をかけてチークを踊りマンションに連れて帰ったこともあった。
ただし私は童貞で、どうやってセックスまで持っていけばいいのかわからずに最後まではできなかったのだ。
悲しいかな、十八歳まで女の人と付き合った経験すらなかったのだ。
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