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アーリア、女王に訴える
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アーリアは、来た道を全速力でもどりました。
「ごちそう」が落ちていたところまで来ましたが、「ごちそう」が一つも残っていません。もともと運びやすい形と大きさであったので、運びアリたちがあっという間に巣へ運びこんでしまっていたのです。
アーリアは矢のごとく巣に帰り、ホールに向かいました。
ホールはアリたちでごった返していました。みんな「ごちそう」を手に持ってはいましたが、まだ口にしてはいないようでした。アーリアはほっとむねをなでおろしました。
ホールの中央にはまわりより一段高くなった円形のステージがあり、ステージ上には女王アリがいました。女王アリは働きアリの三倍も大きな体をしていますから、ホールのどこにいてもそのすがたはよく見えました。
ステージすぐ横には、大りょうの「ごちそう」がうずだかくつみ上げられていました。
集まったアリたちはみんな「ごちそう」を一つずつむねにかかえ、女王が話しはじめるのを待っていました。中にはとなりのものと話をしているものもいましたが、女王がゆっくりとステージ上を一周すると、ホール全体がしいんと静まり返りました。
女王はおごそかな表情でおもむろに話しはじめました。大きな体から発せられる重々しい声が、ホールいっぱいにひびきわたります。
「娘たちよ、ご苦労さまでした。いまこの部屋はかぐわしいかおりで満ちています。このかおりは言うまでもなく、あなたたちが運びこんだ『ごちそう』のかおりです。これだけのりょうを一日のうちに集められたのは、本当によろこばしいことです。さて、『ごちそう』を見つけたのは誰でしたか」
「わたくし、コリンズでございます」
ステージのすぐ下でひかえていたコリンズが答えました。
「コリンズ、あなたがすぐれた見つけアリであることは聞いていましたよ。あなたはわたしが一人でこの巣を開いてから、最大のこうけんをしてくれました。ほうびとしてあなたには、専用の一人部屋をあたえることにしましょう」
「ありがたきことでございます。つつしんでちょうだいいたします。さあ女王、記念すべき一口目をお召し上がりくださいませ」
そう言うとコリンズは女王にむかってふかぶかとおじぎをし、ステージに上がりました。それから女王の前でひざまずき、両方の手で大事そうに持っていた「ごちそう」をうやうやしく女王の前にさしだしました。
女王はほほえみをうかべて小さくうなずきました。そうして受けとった「ごちそう」を口にしようとしたまさにその時でした。
「女王、それを食べてはなりません」
ホールの入口にいたアーリアがあらんかぎりの声でさけびました。ホール中のアリたちがいっせいに声のした方へ目をやり、場内はざわつきました。
アーリアはひしめく大ぜいのアリたちの間をかきわけながら、ステージのすぐ下までやってきました。
「女王、それを食べてはなりません」
アーリアはもう一度言いました。
「あなたは……運びアリのアーリアですね。食べてはならないとはどういうことです?」
女王はけげんそうな顔をして言いました。
「それには、毒が入っているのです。口にすれば命を落としてしまうほどのもう毒です。決して食べてはなりません」
すかさずコリンズが言いました。
「アーリア、これは『ごちそう』を見つけたわたしへのあてつけか何か? 女王、彼女が言っていることはまったくのでたらめに決まっています。これほどかおり高く食よくをそそるものに、どうして毒などが入っておりましょうか」
「女王、でたらめではございません。わたしはたしかにこの目で見てきたのです」
「何を見たというのですか」
「敵アリの巣でございます。『ごちそう』を食べた敵アリたちは、みんなひん死の状たいになっておりました」
コリンズが言い返します。
「そんな見えすいたうそを誰が信じるのよ。女王、お聞きください。そもそもアーリアの言うことは、信ずるに足るものではございません。今から一月ほど前のことでした。その日はわたしたち見つけアリが大きなジョロウグモの死がいを見つけてきておりました。巣に運びこむのにまる一日かかるほどの大きなクモでございました。運びアリたちはさっそくエサ運ぱんの仕事にとりかかりました。ところがその日、運ぱんの列からぬけ出るものがいたというほうこくがあがっています。それがアーリアだったのです。アーリアはちょうど運ぱんの仕事がおわったころに、何食わぬ顔をしてもどってきました。どこかで昼寝でもして仕事をさぼっていたのでしょう。こんなふとどきものに女王が耳をおかたむけになることはございません」
女王が、アーリアに言いました。
「アーリア、コリンズによるとあなたは運びアリであるにもかかわらず、運ぱんの列からぬけ出たということですが、本当ですか?」
「そ、それは本当でございます。しかしあれはさぼっていたのではなく、エサ探しに行ったのです」
「それは聞きずてなりません。エサ探しに行くのは見つけアリです。見つけアリになるのか運びアリになるのか、それはあなたが決めることではありません。あなたはテストを受けて不合格だった、だから運びアリになった。運びアリとして一生けん命働くことが巣のためになるのです」
「女王、わたしはもうエサ探しには行っておりません。女王、わたしの過去のことは今関係ありません。とにかく『ごちそう』には毒が入っているのです」
「ではいったい誰が毒を入れたというのですか?」
アーリアはためらいがちに言いました。
「それは……きっとにんげんのしわざです」
女王はまゆをひそめました。ホールのアリたちも再びざわつきました。
「にんげんですって。本気でそう言っているのですか。どうしてにんげんが毒を入れるのです。にんげんはクッキーやチョコレートやジュースの残りを時々わたしたちにめぐんでくれるたいへんありがたい存在なのですよ。あなたも知っているでしょう。どうしてにんげんがわたしたちに毒をもるのですか。今日の『ごちそう』だってわたしたちアリが食べやすいようにと、にんげんがちょうどよい大きさにしておいてくれたのだと、わたしは思いますよ」
「女王、お言葉ですが、たしかににんげんはわたしたちアリに、時々めぐみをさずけてくれるありがたい存在かもしれません。ですがにんげんから見てわたしたちはどう映っているのでしょう。わたしたちはにんげんからもらうことはあっても、何一つお返しをしておりません。そんなわたしたちは、にんげんから見れば……」
アーリアは言うのをためらいました。
「にんげんから見れば何だというのです。最後まで言いなさい」
「地べたをきたならしくはいつくばるわずらわしい存在なのかもしれません」
女王は怒りました。
「何ですって? にんげんもアリも侮辱する看過できない発言ですよ。警備アリよ、今すぐアーリアをとらえなさい。そしてろうごくに閉じこめておくのです。自分の言っていたことがまちがっていたと認め、謝るまで決して出してはなりません」
「しかし女王、敵アリたちはこれを食べて死にかけになっていたのです。いえ、ひょっとするとすでに息絶えているものもいるかもしれません」
横で見ていたコリンズがしびれをきらして言いました。
「アーリアいいかげんにして。わたしが『ごちそう』を見つけてきたことがそんなに気に入らないの。あなたは本当ならついほうになっていてもおかしくないのに、お母さまはそのやさしいお心から反省のチャンスをあたえてくださっているというのに」
「では女王、こちらをごらんください」
アーリアは今までこわきにかかえていたものをさしだしました。それはアリの卵でした。
「それはわたしたちの大事な卵じゃない。かってに部屋から持ち出すなんていったい何を考えて……」
コリンズがその先を言う前に女王が言いました。
「それはわたしの産んだ卵ではありません」
「女王、どういうことでしょう」
コリンズは女王の言葉がにわかには信じられませんでした。
「ですから、アーリアのさしだした卵はわたしが産んだものではありません。自分が愛情をもって産んだ卵と、他人が産んだ卵のちがいくらいわかります。アーリア、あなたはその卵をいったいどこで」
「敵アリの巣からとってきたのです。先ほども申しあげましたように、敵アリたちはみんな『ごちそう』を食べてひん死の状たいでした。ですからわたくしたった一人でもたやすく卵をぬすみ出すことができたのです」
「そんな、まさか」
コリンズはおどろきをかくせずに言いました。
「わかりました。ではレベッカ、キャシー、ロザムンド、ジュディ、そしてコリンズあなたたちで敵アリの巣まで行ってたしかめてくるのです」
「ごちそう」が落ちていたところまで来ましたが、「ごちそう」が一つも残っていません。もともと運びやすい形と大きさであったので、運びアリたちがあっという間に巣へ運びこんでしまっていたのです。
アーリアは矢のごとく巣に帰り、ホールに向かいました。
ホールはアリたちでごった返していました。みんな「ごちそう」を手に持ってはいましたが、まだ口にしてはいないようでした。アーリアはほっとむねをなでおろしました。
ホールの中央にはまわりより一段高くなった円形のステージがあり、ステージ上には女王アリがいました。女王アリは働きアリの三倍も大きな体をしていますから、ホールのどこにいてもそのすがたはよく見えました。
ステージすぐ横には、大りょうの「ごちそう」がうずだかくつみ上げられていました。
集まったアリたちはみんな「ごちそう」を一つずつむねにかかえ、女王が話しはじめるのを待っていました。中にはとなりのものと話をしているものもいましたが、女王がゆっくりとステージ上を一周すると、ホール全体がしいんと静まり返りました。
女王はおごそかな表情でおもむろに話しはじめました。大きな体から発せられる重々しい声が、ホールいっぱいにひびきわたります。
「娘たちよ、ご苦労さまでした。いまこの部屋はかぐわしいかおりで満ちています。このかおりは言うまでもなく、あなたたちが運びこんだ『ごちそう』のかおりです。これだけのりょうを一日のうちに集められたのは、本当によろこばしいことです。さて、『ごちそう』を見つけたのは誰でしたか」
「わたくし、コリンズでございます」
ステージのすぐ下でひかえていたコリンズが答えました。
「コリンズ、あなたがすぐれた見つけアリであることは聞いていましたよ。あなたはわたしが一人でこの巣を開いてから、最大のこうけんをしてくれました。ほうびとしてあなたには、専用の一人部屋をあたえることにしましょう」
「ありがたきことでございます。つつしんでちょうだいいたします。さあ女王、記念すべき一口目をお召し上がりくださいませ」
そう言うとコリンズは女王にむかってふかぶかとおじぎをし、ステージに上がりました。それから女王の前でひざまずき、両方の手で大事そうに持っていた「ごちそう」をうやうやしく女王の前にさしだしました。
女王はほほえみをうかべて小さくうなずきました。そうして受けとった「ごちそう」を口にしようとしたまさにその時でした。
「女王、それを食べてはなりません」
ホールの入口にいたアーリアがあらんかぎりの声でさけびました。ホール中のアリたちがいっせいに声のした方へ目をやり、場内はざわつきました。
アーリアはひしめく大ぜいのアリたちの間をかきわけながら、ステージのすぐ下までやってきました。
「女王、それを食べてはなりません」
アーリアはもう一度言いました。
「あなたは……運びアリのアーリアですね。食べてはならないとはどういうことです?」
女王はけげんそうな顔をして言いました。
「それには、毒が入っているのです。口にすれば命を落としてしまうほどのもう毒です。決して食べてはなりません」
すかさずコリンズが言いました。
「アーリア、これは『ごちそう』を見つけたわたしへのあてつけか何か? 女王、彼女が言っていることはまったくのでたらめに決まっています。これほどかおり高く食よくをそそるものに、どうして毒などが入っておりましょうか」
「女王、でたらめではございません。わたしはたしかにこの目で見てきたのです」
「何を見たというのですか」
「敵アリの巣でございます。『ごちそう』を食べた敵アリたちは、みんなひん死の状たいになっておりました」
コリンズが言い返します。
「そんな見えすいたうそを誰が信じるのよ。女王、お聞きください。そもそもアーリアの言うことは、信ずるに足るものではございません。今から一月ほど前のことでした。その日はわたしたち見つけアリが大きなジョロウグモの死がいを見つけてきておりました。巣に運びこむのにまる一日かかるほどの大きなクモでございました。運びアリたちはさっそくエサ運ぱんの仕事にとりかかりました。ところがその日、運ぱんの列からぬけ出るものがいたというほうこくがあがっています。それがアーリアだったのです。アーリアはちょうど運ぱんの仕事がおわったころに、何食わぬ顔をしてもどってきました。どこかで昼寝でもして仕事をさぼっていたのでしょう。こんなふとどきものに女王が耳をおかたむけになることはございません」
女王が、アーリアに言いました。
「アーリア、コリンズによるとあなたは運びアリであるにもかかわらず、運ぱんの列からぬけ出たということですが、本当ですか?」
「そ、それは本当でございます。しかしあれはさぼっていたのではなく、エサ探しに行ったのです」
「それは聞きずてなりません。エサ探しに行くのは見つけアリです。見つけアリになるのか運びアリになるのか、それはあなたが決めることではありません。あなたはテストを受けて不合格だった、だから運びアリになった。運びアリとして一生けん命働くことが巣のためになるのです」
「女王、わたしはもうエサ探しには行っておりません。女王、わたしの過去のことは今関係ありません。とにかく『ごちそう』には毒が入っているのです」
「ではいったい誰が毒を入れたというのですか?」
アーリアはためらいがちに言いました。
「それは……きっとにんげんのしわざです」
女王はまゆをひそめました。ホールのアリたちも再びざわつきました。
「にんげんですって。本気でそう言っているのですか。どうしてにんげんが毒を入れるのです。にんげんはクッキーやチョコレートやジュースの残りを時々わたしたちにめぐんでくれるたいへんありがたい存在なのですよ。あなたも知っているでしょう。どうしてにんげんがわたしたちに毒をもるのですか。今日の『ごちそう』だってわたしたちアリが食べやすいようにと、にんげんがちょうどよい大きさにしておいてくれたのだと、わたしは思いますよ」
「女王、お言葉ですが、たしかににんげんはわたしたちアリに、時々めぐみをさずけてくれるありがたい存在かもしれません。ですがにんげんから見てわたしたちはどう映っているのでしょう。わたしたちはにんげんからもらうことはあっても、何一つお返しをしておりません。そんなわたしたちは、にんげんから見れば……」
アーリアは言うのをためらいました。
「にんげんから見れば何だというのです。最後まで言いなさい」
「地べたをきたならしくはいつくばるわずらわしい存在なのかもしれません」
女王は怒りました。
「何ですって? にんげんもアリも侮辱する看過できない発言ですよ。警備アリよ、今すぐアーリアをとらえなさい。そしてろうごくに閉じこめておくのです。自分の言っていたことがまちがっていたと認め、謝るまで決して出してはなりません」
「しかし女王、敵アリたちはこれを食べて死にかけになっていたのです。いえ、ひょっとするとすでに息絶えているものもいるかもしれません」
横で見ていたコリンズがしびれをきらして言いました。
「アーリアいいかげんにして。わたしが『ごちそう』を見つけてきたことがそんなに気に入らないの。あなたは本当ならついほうになっていてもおかしくないのに、お母さまはそのやさしいお心から反省のチャンスをあたえてくださっているというのに」
「では女王、こちらをごらんください」
アーリアは今までこわきにかかえていたものをさしだしました。それはアリの卵でした。
「それはわたしたちの大事な卵じゃない。かってに部屋から持ち出すなんていったい何を考えて……」
コリンズがその先を言う前に女王が言いました。
「それはわたしの産んだ卵ではありません」
「女王、どういうことでしょう」
コリンズは女王の言葉がにわかには信じられませんでした。
「ですから、アーリアのさしだした卵はわたしが産んだものではありません。自分が愛情をもって産んだ卵と、他人が産んだ卵のちがいくらいわかります。アーリア、あなたはその卵をいったいどこで」
「敵アリの巣からとってきたのです。先ほども申しあげましたように、敵アリたちはみんな『ごちそう』を食べてひん死の状たいでした。ですからわたくしたった一人でもたやすく卵をぬすみ出すことができたのです」
「そんな、まさか」
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