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第七章 栄耀栄華
第八十二矢 明日へ
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甲斐国・躑躅ヶ崎館―
「そうか…」
武田晴信は多恵の訃報を聞き、目を伏せる。
その晴信の脳裏にはかつての幼少時代が浮かんでいた。
多恵と晴信は二歳違いの血の繋がった姉弟である。同じ母から生まれ、かつ歳の差もなかった二人はとても仲が良かった。
姉の多恵はおとしやかで優しく、弟の晴信はそんな姉のことが大好きだった。
また、多恵も晴信のことが愛おしくて仕方がなかった。
あの日々が今では懐かしい。
「姉上、どうか安らかに…」
晴信は目を閉じて、哀悼の意を表した。
そして多恵への思いは別として、晴信は今後の今川との関係を考える。
多恵の死、それはすなわち今川と武田の婚姻同盟が解消されるということだ。
現在、北信濃で村上義清と激しい戦を繰り広げている武田としては、大国である今川との関係が切れるのは不利益でしかない。
「さて、どうしたものか…」
晴信が珍しく腕を組んで考え込んでいると、その場にいた晴信の弟・武田信廉が口を開いた。
「兄上、それがしに案がございます。」
晴信が興味深そうに信廉の案について聞く。
「ほう…申してみよ。」
「はっ。」
信廉は自身の案を提示した。
「今川の姫と若君を婚姻させるのはいかがでございましょう。」
若君、それは晴信の嫡男である武田義信のことである。
義信は晴信譲りの才覚があり、今年元服したばかりにも関わらず、武田家内でも後継者として評判が高かった。
「ふむ、なるほど。悪くはないな…」
武田の次期当主と今川の姫の縁談がまとまれば、両家の同盟はより強固かつ末永く続く。
晴信はニヤリと笑って、信廉に命じた。
「よかろう。信廉、使者として直ちに駿府に向かえ。」
「はっ!」
そうして、晴信は信廉を使者として駿府館へと送り出したのだった。
一方、駿府館では未だに重苦しい空気で淀んでいた。侍女たちは多恵の死に悲しみ、子供たちも現実を受け入れることができなかった。
特にひどかったのは武田信虎で、日夜問わず落ち込んでおり、大好きな酒も多恵が亡くなってから一度も飲んでいなかった。
そんな中、俺は普段と変わらない様子で政務を行っていた。
すると、吉田氏好が俺に呼びかけた。
「殿、武田より使者が参られておられます。」
「わかった、今行く。」
俺はそう言って、武田の使者が待つ大広間へと向かった。
大広間に入り、俺は驚く。
「晴信君じゃないですか。」
俺の前に現れた武田の使者は晴信にそっくりだったのだ。
信廉は晴信だと勘違いしている俺に挨拶をした。
「武田の使者として参り申した武田信廉にございます。」
「武田ってことは、もしかして晴信君の兄弟?」
「晴信様は我が兄でございます。」
「あっ、弟さんなんだ。確かによく見ると、お兄さんと比べて穏やかそう。それにしてもお兄さんによく似てるね~」
「はい、よく兄上と間違われまする。」
お互いに軽く雑談をして、俺たちはさっそく本題へと入った。
「で、今回はどんな用で来たの?」
「此度は貴殿の姫君と我が家の若君の縁談を持ちかけたく参りました。」
「縁談!?」
俺は唐突のことに大声を上げてしまった。
「はい。」
信廉がうなずくと、俺は困ったように額に手を当てた。
「ん~…とりあえず、後で返事を出すんで一旦考えさせてって伝えといてください。」
そこで信廉は念を押しといた。
「我が殿は今川とさらなる繁栄を望んでおりまする。それだけはお忘れなきように。」
「うん、それは俺たちも同じだよ。」
「では失礼いたす。」
信廉は俺に座礼して大広間から出ていった。
(反応はまずまずといったところか。)
信廉が手応えを若干感じながら廊下を歩いていると、前方から信虎が姿を現した。
信廉は思わず足を止めた。
信虎も信廉に気づいてピタリと足を止めた。
「おぬしは信廉か。」
「父上、息災にございま…」
「白々しい奴よ。」
信虎はあからさまに不機嫌になった。
それもそのはず。
かつて信虎が甲斐国から追放された時に信廉は晴信の味方をしていたのだ。
信虎がフンッと鼻で笑って皮肉った。
「相変わらず兄に似て、腹黒い顔をしておるのう。」
「我らは父上似でありますからな。」
「何だとっ!」
信虎は信廉を睨みつけた。
それに対して信廉はニコリと笑った。
「息災そうで何よりでございます。」
「チッ、貴様とおると調子が狂うわ…!」
信虎は舌打ちをして、スタスタと歩いて行く。しかし突然信虎は足を止め、信廉に聞いた。
「泉雲は息災か?」
「…はい。母上は息災にございます。」
「そうか。」
そう言うと信虎は一度も振り向くこともなく、信廉の元から去っていった。
俺は大広間でボーッとしていた。
(縁談、か…)
その時、信虎が大広間の入り口付近に現れた。
手には酒器を持っている。
「おぬし、少々面を貸せ。」
「まだ仕事があるんですけど…」
「ならばさぼれ。久しぶりに庭園の見える…あの軒下で酒を酌み交さぬか。」
「えぇー…まあ、いいっすよ。俺もなんかお酒飲みたい気分ですし。」
俺は信虎の誘いに応じて、大広間から出た。
庭園に着くと、多恵と最後に見た風景は最早そこにはなく、桜の花は全て散っていた。
俺たちは軒下に座った。
「先ほど、信廉とすれ違った。」
「それは気まずかったでしょうに。」
「ふん、あやつの態度で余計に腹が立ったわ。」
そんなやり取りをしながらも、信虎は二つの盃に酒を注ぎ始める。
その際に信虎はポツリと言った。
「多恵は最期にどんな顔をしておった。」
俺は少し間を置いてから言った。
「…優しい顔をしてました。」
「そうか…」
酒を注ぎ終え、俺と信虎はそれぞれ盃を手にする。信虎が言う。
「あれからもう立ち直れて、おぬしは強い男じゃの。」
その言葉に俺は顔を曇らせて、首を横に振る。
「立ち直れてませんよ。今でも多恵のことを考えると、辛くて悲しいです。」
信虎が俺の方を見る。
俺は話を続けた。
「でも、どんなに悲しんでも多恵は帰ってこない。だから、俺はこの悲しみを抱えて前へ進んでいきます。いつか、悲しみが癒えるその時までは…」
「おぬし…」
「それにあんまりメソメソと泣いていたら、多恵に怒られちゃいますしね。」
俺の言葉を聞いて、信虎は酒を飲み干した。
そして、誰にも聞かれないような小さな声でつぶやいた。
「そうだな…」
酒はほんのり苦かった。
「そうか…」
武田晴信は多恵の訃報を聞き、目を伏せる。
その晴信の脳裏にはかつての幼少時代が浮かんでいた。
多恵と晴信は二歳違いの血の繋がった姉弟である。同じ母から生まれ、かつ歳の差もなかった二人はとても仲が良かった。
姉の多恵はおとしやかで優しく、弟の晴信はそんな姉のことが大好きだった。
また、多恵も晴信のことが愛おしくて仕方がなかった。
あの日々が今では懐かしい。
「姉上、どうか安らかに…」
晴信は目を閉じて、哀悼の意を表した。
そして多恵への思いは別として、晴信は今後の今川との関係を考える。
多恵の死、それはすなわち今川と武田の婚姻同盟が解消されるということだ。
現在、北信濃で村上義清と激しい戦を繰り広げている武田としては、大国である今川との関係が切れるのは不利益でしかない。
「さて、どうしたものか…」
晴信が珍しく腕を組んで考え込んでいると、その場にいた晴信の弟・武田信廉が口を開いた。
「兄上、それがしに案がございます。」
晴信が興味深そうに信廉の案について聞く。
「ほう…申してみよ。」
「はっ。」
信廉は自身の案を提示した。
「今川の姫と若君を婚姻させるのはいかがでございましょう。」
若君、それは晴信の嫡男である武田義信のことである。
義信は晴信譲りの才覚があり、今年元服したばかりにも関わらず、武田家内でも後継者として評判が高かった。
「ふむ、なるほど。悪くはないな…」
武田の次期当主と今川の姫の縁談がまとまれば、両家の同盟はより強固かつ末永く続く。
晴信はニヤリと笑って、信廉に命じた。
「よかろう。信廉、使者として直ちに駿府に向かえ。」
「はっ!」
そうして、晴信は信廉を使者として駿府館へと送り出したのだった。
一方、駿府館では未だに重苦しい空気で淀んでいた。侍女たちは多恵の死に悲しみ、子供たちも現実を受け入れることができなかった。
特にひどかったのは武田信虎で、日夜問わず落ち込んでおり、大好きな酒も多恵が亡くなってから一度も飲んでいなかった。
そんな中、俺は普段と変わらない様子で政務を行っていた。
すると、吉田氏好が俺に呼びかけた。
「殿、武田より使者が参られておられます。」
「わかった、今行く。」
俺はそう言って、武田の使者が待つ大広間へと向かった。
大広間に入り、俺は驚く。
「晴信君じゃないですか。」
俺の前に現れた武田の使者は晴信にそっくりだったのだ。
信廉は晴信だと勘違いしている俺に挨拶をした。
「武田の使者として参り申した武田信廉にございます。」
「武田ってことは、もしかして晴信君の兄弟?」
「晴信様は我が兄でございます。」
「あっ、弟さんなんだ。確かによく見ると、お兄さんと比べて穏やかそう。それにしてもお兄さんによく似てるね~」
「はい、よく兄上と間違われまする。」
お互いに軽く雑談をして、俺たちはさっそく本題へと入った。
「で、今回はどんな用で来たの?」
「此度は貴殿の姫君と我が家の若君の縁談を持ちかけたく参りました。」
「縁談!?」
俺は唐突のことに大声を上げてしまった。
「はい。」
信廉がうなずくと、俺は困ったように額に手を当てた。
「ん~…とりあえず、後で返事を出すんで一旦考えさせてって伝えといてください。」
そこで信廉は念を押しといた。
「我が殿は今川とさらなる繁栄を望んでおりまする。それだけはお忘れなきように。」
「うん、それは俺たちも同じだよ。」
「では失礼いたす。」
信廉は俺に座礼して大広間から出ていった。
(反応はまずまずといったところか。)
信廉が手応えを若干感じながら廊下を歩いていると、前方から信虎が姿を現した。
信廉は思わず足を止めた。
信虎も信廉に気づいてピタリと足を止めた。
「おぬしは信廉か。」
「父上、息災にございま…」
「白々しい奴よ。」
信虎はあからさまに不機嫌になった。
それもそのはず。
かつて信虎が甲斐国から追放された時に信廉は晴信の味方をしていたのだ。
信虎がフンッと鼻で笑って皮肉った。
「相変わらず兄に似て、腹黒い顔をしておるのう。」
「我らは父上似でありますからな。」
「何だとっ!」
信虎は信廉を睨みつけた。
それに対して信廉はニコリと笑った。
「息災そうで何よりでございます。」
「チッ、貴様とおると調子が狂うわ…!」
信虎は舌打ちをして、スタスタと歩いて行く。しかし突然信虎は足を止め、信廉に聞いた。
「泉雲は息災か?」
「…はい。母上は息災にございます。」
「そうか。」
そう言うと信虎は一度も振り向くこともなく、信廉の元から去っていった。
俺は大広間でボーッとしていた。
(縁談、か…)
その時、信虎が大広間の入り口付近に現れた。
手には酒器を持っている。
「おぬし、少々面を貸せ。」
「まだ仕事があるんですけど…」
「ならばさぼれ。久しぶりに庭園の見える…あの軒下で酒を酌み交さぬか。」
「えぇー…まあ、いいっすよ。俺もなんかお酒飲みたい気分ですし。」
俺は信虎の誘いに応じて、大広間から出た。
庭園に着くと、多恵と最後に見た風景は最早そこにはなく、桜の花は全て散っていた。
俺たちは軒下に座った。
「先ほど、信廉とすれ違った。」
「それは気まずかったでしょうに。」
「ふん、あやつの態度で余計に腹が立ったわ。」
そんなやり取りをしながらも、信虎は二つの盃に酒を注ぎ始める。
その際に信虎はポツリと言った。
「多恵は最期にどんな顔をしておった。」
俺は少し間を置いてから言った。
「…優しい顔をしてました。」
「そうか…」
酒を注ぎ終え、俺と信虎はそれぞれ盃を手にする。信虎が言う。
「あれからもう立ち直れて、おぬしは強い男じゃの。」
その言葉に俺は顔を曇らせて、首を横に振る。
「立ち直れてませんよ。今でも多恵のことを考えると、辛くて悲しいです。」
信虎が俺の方を見る。
俺は話を続けた。
「でも、どんなに悲しんでも多恵は帰ってこない。だから、俺はこの悲しみを抱えて前へ進んでいきます。いつか、悲しみが癒えるその時までは…」
「おぬし…」
「それにあんまりメソメソと泣いていたら、多恵に怒られちゃいますしね。」
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