苦い記憶とあたたかさ

志月さら

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苦い記憶とあたたかさ

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 柔らかな風が顔を撫でて、頬にかかる髪が肌をくすぐる。ふと人の気配を感じて目を開けると、呆れた顔をした幼馴染――佐久間さくまかなめが目の前で仁王立ちしていた。

「玲、なに寝てるんだ」

 名前を呼ばれた少年――望月玲もちづき れいは、要の姿を見て、薄い灰色の両目をぱちぱちと瞬いた。

「つい、気持ちよくて……あれ、要くん。委員会の仕事終わったの?」
「とっくに終わった。次、生物室だって言っただろ。早く行くぞ」

 膝の上で開きっぱなしになっていたハードカバーの本を閉じてベンチから立ち上がる。すると、生物の教科書とノート、ペンケースをまとめて差し出された。どうやら机の中から持ってきてくれたらしい。

「ありがとう」
「急ぐぞ」

 促されて歩き出した途端に予鈴が鳴り響いた。もうそんな時間になっていたとは。道理で中庭に他の生徒の姿がないわけだ。
 二階の生物室までは距離がある。短い黒髪を靡かせて足早に進んでいく要のあとについていっている途中で、玲は下腹部の重さに気が付いた。思わず、あっ、と声が出てしまう。「どうした?」と要が振り向いた。

「おしっこ……」

 昼休みに行くのを忘れてしまった。欲求を素直に口にすると、要はため息をつきながらも男子トイレに向かってくれた。

「授業遅れちゃうよ」
「終わるまで我慢できないだろ。もうおまえのおもらしの世話なんてごめんだからな」

 彼の言葉に苦い記憶を思い出して思わず苦笑を浮かべる。近くの男子トイレに足を踏み入れると、昼休み終了間際のためか人気がなかった。誰もいないことに少しほっとする。

「早く済ませろよ」

 うんと頷いて教科書類を要に預けると、玲は手前の個室に足を踏み入れた。家では基本的に座って用を足すように躾られていたから、学校でも他の場所でも小便器を使うのはあまり得意ではない。他の理由も、あるけれど。
 スラックスと下着を下ろして便座に腰を下ろす。下腹に僅かに力を込めると、視界の隅で頬にかかる金糸の髪が微かに揺れた。すぐにちょろちょろと排尿が始まり、狭い個室の中で水音が響く。午前中から一度も休み時間にトイレに行かなかったので思っていたよりも溜まっていたらしい。
 膀胱の中が空っぽになってほう、と息をついた途端、授業開始を告げるチャイムの音が鳴り響いた。慌てて水を流して個室から出る。要は不機嫌な顔をすることもなく待っていてくれた。

「ごめん、お待たせ」
「いいから早く行くぞ」

 手を洗ってから荷物を受け取る。ぶっきらぼうに言いつつも、先に行かずにいてくれた彼は優しい。足早に廊下を進む自分より小柄な背中を眺めながら、玲はふと小学生の頃の出来事を思い出した。

***

 二学期の途中という中途半端な時期に転校してきた玲はあらゆる意味で注目の的だった。ひとつは東京から来たということ。もうひとつは、金髪に薄いグレーの色をした瞳という容姿のせいだった。

「玲くんって外国人なの?」
「英語しゃべれるの?」
「えっとね、ひいおばあちゃんがイギリス人だったんだ。ぼくは日本人だし、英語はしゃべれないよ」

 休み時間の度にクラスメイトに囲まれて質問責め。噂を聞きつけた他のクラスの子たちまで教室を覗きにきた。幼い頃から引っ込み思案な性格だったから、注目されるのは苦手だった。


 おしっこがしたい。
 ふとそう思ったのは三時間目が半分を過ぎた頃。お腹の奥がずっしりと重たかった。朝、家を出る前に済ませたきり。学校に来てからは一度もトイレに行っていない。否、次々と話しかけられていたせいで一度も行くタイミングがなかったのだ。
 教卓の後ろに立った若い女性の担任教師は、国語の教科書を開いて文章を読み上げていた。真新しい教科書のページを目で追うけれどまったく頭に入ってこない。おしっこがしたい、トイレに行きたいということで頭の中は埋め尽くされていた。
 手を挙げたら気付いてくれるだろうか。ちらっと先生の方を見るけれど、手を挙げる勇気は出なかった。
 ただでさえ目立つのは嫌なのに、転校初日にトイレで授業を抜けるなんてしたくない。あと二十分、我慢すれば、トイレに行ける。

 でも、また話しかけられたらどうしよう。トイレに行っても、個室に入ったらからかわれるかもしれない。立ってするのも、珍しい髪色のせいかいつも誰かに見られている気がして落ち着かない。でも、なんでもいいから、いまはとにかくおしっこに行きたい。
 廊下側の一番後ろの席は少し肌寒くて、半ズボンから伸びる膝小僧が少し震えた。思わず膝を寄せて擦り合わせる。尿意の波は時間が一秒過ぎるごとに強くなっていく気がした。
 おしっこ、おしっこしたい。はやく。はやく、トイレに行きたい。
 時計を見るけれど、ほんの少ししか針が進んでいない。
 後ろの席だから誰にも見られないはず、と、思わずズボンの前に片手を伸ばして先端をぎゅっと押さえつけた。ほんの少し楽になった気がする。けれど少しして、また強い尿意に襲われた。
 どうしよう。我慢できない。やっぱり先生に言おうかな。机の上に置いていた手をほんの少し浮かした途端、ぞくぞくと背筋が震えた。

「……っ」

 ぱちん、と何かが弾けたように、パンツの中が温かくなった。しゅーっとくぐもった音が自分の耳に届いたような気がした。慌ててズボンの前を握る手に力を込めても無駄だった。温かいおしっこが下着を濡らし、ズボンを突き抜け、お尻の下に広がっていく。敷いていた座布団だけでは吸収しきれなくて、脚を伝い落ちていく。
 ぴちゃぴちゃ、と水音を立てて、椅子の下にうっすらと黄色い水溜まりが広がっていった。押さえていた手も当然びしょびしょ。おしっこはまだ止まらない。

「何の音?」

 誰かが言って、みんなが教室中を見回し始めた。

「あっ、先生、望月くんが……!」

 近くに座っていた女子が声を上げると、先生が慌てた様子で近付いてきた。ようやくおしっこが止まる。じわり、と、泣きたくなんかないのに自然と涙がせり上がってきた。

「大丈夫よ。保健室で着替えましょうね」

 先生は優しい声で告げ、ざわつく教室内には窘める言葉をかける。
 ――四年生にもなって、教室でおもらしをしてしまった。
 その事実を突きつけられて、身体が動かなかった。全然大丈夫なんかじゃない。玲が椅子から立ち上がろうとしないのを見て、先生が困惑している様子が伝わってくる。

「おれが保健室つれていきます」

 ふと、隣の席の男子が立ち上がった。佐久間要、と名乗っていた名前を思い出す。濡れた手を躊躇いなく引かれて、思わずそのまま立ち上がった。

「佐久間くん、お願いできる?」
「はい。保健委員だし。ほら、行こう」

 手を引かれて教室から出ていく。
 授業中の静かな廊下を歩き出した途端、喉の奥から嗚咽が漏れた。ぐすっ、ひっくと洟をすすりながら泣き出した玲を見て、要は呆れたような声で言った。

「なんだよ、そんなに泣くなよ。べつに小便もらしたくらいで死なねえだろ」

 可愛らしい顔とは裏腹に乱暴な言葉遣いをしたので、少し驚く。先ほど先生の前では丁寧な言葉を使っていたのに。

「……悪い」

 少し歩いてから、要は何の脈絡もなく謝罪の言葉を口にした。首をかしげる玲に対して、彼はばつが悪そうな顔をする。

「おまえがトイレ我慢してるの気付いてた。先生呼ぶか迷ってたらもらしたから……ごめん」
「そっか……ありがとう、要くん」

 お礼を言うと、今度は要のほうが不思議そうに首をかしげた。
 気付かれていたこともおもらしを見られたことも恥ずかしいけれど、気にかけてもらったことは嬉しい。こうして、あの教室から連れ出してもらえたことも。
 涙はいつの間にか止まっていた。
 ――要が隣の家に住んでいると知ったのは、その日の帰りのことだった。

***

 転校初日に教室でおもらしをしてしまった玲だけれど、その後からかわれたり、いじめられたりするようなことはなかった。要が何かと声をかけてくれて、他のクラスメイトとの仲も取り持ってくれたからだ。 
 前の小学校よりも居心地がよかったのは要が隣にいてくれたからに違いない。その関係は、中学、高校と進学しても変わらなかった。

 本鈴が鳴ってから三分ほど遅れて生物室に入ると、室内の視線が一斉に玲たちに注がれた。
 黒板の前に立っていた生物教師が、遅刻だぞ、と注意しつつも僅かに首を傾けた。

「おまえたちが遅れるなんて珍しいな、どうした」
「すいません、俺がトイレから出られなくて。望月くんに待ってもらってました」
「仕方ないな……早く席につきなさい」
「はい」

 要がとっさに口にした嘘の言い訳を誰も疑いはしなかった。微かな笑い声がどこかから聞こえたけれど、要は少しも気にした様子を見せず、すました顔をしている。
 本当に、彼には世話になりっぱなしだ。毅然とした横顔を見ていると、胸の内にあたたかいものが広がるのを感じた。
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