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甘い血3

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街はすっかり昏い夜の色に沈んでいる。空にかかる月は細い。
クロクス王国の西の商業都市の片隅、狭い石畳の道をヴィオラは足取り軽く歩んでいく。
人々はとっくに夢の中なのだろう。物音といえば、ネズミのたてる物音と風の音、それから自分の靴音だけだ。
薄暗闇の中でも、ヴィオラの足取りが乱れることは一切ない。月明かりが優しく照らす夜の間こそ、ヴィオラたち吸血鬼の生きる時間だから。夜歩きは慣れたものだ。

「さて……、どこに行こうかしらね」

ここいらは中流層の住む貸家の住宅街なので、この時間に外をうろうろしている人間はいない。
まず、人を探すことから始めなければだが――。
ヴィオラは思った。血の味を比べるだけなのだから、なるべく暇そうな人間にしようと。
「とすると、選り好みせずに酔っ払いかしら……」


酔っ払い相手になら抵抗される心配も、いちいち記憶の操作をする手間もいらない。
街の中心の広場から伸びる放射状の大通りを結ぶ間の道に、酒場が軒を連ねていた筈だ。その辺りなら、この時間でも千鳥足の男がいくらでも見繕えるだろう。

「うぅーん……、でも、ジェフリーと同じくらいの歳の酔っ払いねぇ……」

考えてみると、それはそれで比較にならないような気もする。不健康でない酔っ払いが果たして丁度よくいるだろうか。
というか、酔っ払いのおっさんの首筋に牙を立てるのは抵抗がある。かといって、家に押し入るのも品がない。淑女として、上品にいきたいものだ。

「うぅ……。せめて、少しでもマシな酔っ払いを選ぶしかないわね……」
 
まったく面倒をかける執事だ。人に心配かけさせて、こんな手間をかけさせるんだから。
 そう、血の甘さを飲み比べるという名目で出てきたが、実はそれだけではない。
ふと、嫌な考えがよぎってしまったのだ。
血がやたらと甘いのは、何か病気のせいなのではないだろうか、と。
ジェフリーだって、もう結構な歳――四十歳なのだから。

他の吸血鬼がこの場にいたなら、さぞかしヴィオラに呆れたことだろう。
ジェフリーの血の味がおかしいのは当然の話だと。


なぜなら、彼、ジェフリー・コッカーもヴィオラと同じく――吸血鬼なのだから。


吸血鬼同士で吸血することは本来意味がない。片方の渇きが癒えたとて、血を吸われた方が渇き、結局のところ人の血を欲するからだ。しかも人間の血と違って、吸血鬼の血は酩酊を引き起こしやすい。だというのに、人間の血を飲むのはジェフリーだけで、ヴィオラは普段は人間の血を飲まない。
理由はいくつかある。
吸血鬼になった十二歳の子供の姿のまま、ヴィオラの成長は止まっている。それでも、人間を餌にすること自体は難しくはない。吸血鬼の身体能力は人間を遥かに超えたものだから。

しかし、吸血鬼専門のハンターに狙われたら話は別だ。元の力が勝る大人の吸血鬼ですら、ハンターに狩られてしまうのだから、子供のヴィオラでは到底かなわない。
ハンター達が吸血鬼を探し出す手がかりにしているのは、吸血鬼の被害者たちだ。だから、人間を餌にせず、ジェフリーの血を吸うことはハンターから身を守ることになる。まず、それが大きな理由。

そしてもう一つの大きな理由は、ヴィオラが人の血を吸うことをジェフリーが嫌がったから――
 淑女が噛り付いて『食事』などはしたないと。

(自分はそうしてるくせに)

吸血鬼になったのは五年前。
成りたての頃はヴィオラも人間の血を飲んだものだ。
実のところ、ヴィオラ自身は、ジェフリーが嫌がるほど人間の血を飲むことに抵抗はない。
それでも、吸血鬼になる前と変わらず心に抱く思いがあるから、ヴィオラはジェフリーからしか血を飲んでこなかった。

――ジェフリーの望むお嬢様でありたい。

「……そうよ」

だからやっぱり、血の飲み比べなんて、はしたない真似をしてでも、ジェフリーがおかしくないか確かめないわけにはいかない。
お嬢様でいるためには執事がいなくては話にならないのだから。

沈んでいきそうになる思考が、唐突な物音で覚めた。
路地に蹲る酔っ払いの呻き声だ。

「やっぱりこんな夜更けに外をうろ付いているなんて、ロクな人間はいないわね……」

自分のことを完全に棚に上げていることには、気づいていないヴィオラだった。

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