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第4章 春のはざまに、珈琲を
第五夜 冷奴と名前の距離
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週に一度のカフェ通いが、すっかり習慣になっていた。
「今日も本日のコーヒーで?」
顔を覚えられたらしい。名前のないカフェに通い始めて、もう四度目の木曜の夕方。なのに、あれ以来、彼女の姿は見かけない。
「今日は、エチオピア・イルガチェフェです。柑橘っぽい香りが立ってて、アイスでもホットでもおすすめですよ」
マスターの丁寧な説明にうなずき、ホットを頼んだ。ほんの少し酸味があって、スッと立ちのぼる香りが心地よい。器の揺らぎに、なんとなく気持ちが整っていく。
あの人も、確か同じようにコーヒーを香っていた。名刺に書かれた「ゆかり」という文字だけが、なぜかずっと脳裏に残っている。大文字と小文字が整然と並ぶ、あの滑らかな筆跡。柔らかさと几帳面さが共存するような、そんな印象を与える名刺だった。
「ゆかりさん、か……」
名前を知っていても、その人の中身までは分からない。けれど仮説を立てるのは得意だ。職業病みたいなものかもしれない。目線、話し方、ちょっとした手の動き。あのセミナーでの堂々としたプレゼンと、カフェで見せた柔らかな横顔。その対比がずっと引っかかっている。
「たぶん、責任感の強いタイプだな。でも、家では気を抜いて、猫としゃべってたりして——」
いや、こうやって仮説を積み上げれば積み上げるほど、実際の彼女とは違っていくような気がしてくる。紙の上の文字が、現実の彼女の輪郭をぼやかしていく。
⸻
夜風が蒸し始めた。そろそろ梅雨入りの気配だ。帰りに寄ったスーパーで、ひんやりした豆腐とミョウガ、それからカップアイスを手に取った。今夜は冷奴にしよう。
家に着いて、パックを開けて小皿に豆腐を乗せる。切るほどの手間もない。ミョウガを刻んでのせる。冷たい豆腐に、薬味の香りがふわりと立ち上がる。
「ノージンジャー……か」
一人でつぶやいて、少し笑う。生姜がないだけで、ずいぶん味も印象も変わる。名前を知っているだけでは、人の味や本質まではわからない。そんなことを、豆腐に教えられるとは。
豆腐を食べ終えて、皿を手に立ち上がる。
「あっ、アイス……!」
買ったまま、袋に入れっぱなしだった。慌てて袋を開けて、まだかろうじて冷たさが残るカップアイスを手に取る。
「きっとセーフ……。カップアイスでよかった」
冷凍庫の奥に滑り込ませながら、胸をなで下ろす。ミョウガ食べたからかな、とぼんやり思う。
「ミョウガ食べると、物忘れがひどくなるって……誰が言ったっけな」
苦笑しながら、引き出しを閉じた。そういえば昔、祖母がそう言っていた気がする。根拠なんてなくても、こういう話はどこか記憶に残る。
名刺には、メールアドレスもある。でも、送らない。偶然また会えたら、それがいい。
ミョウガの香り、冷奴の冷たさ、そして名前の記憶。ミョウガの香りが初夏の夜にやさしく溶ける。しょうがの代わりに、今日はこれで。
⸻
どこまでが現実で、どこからが想像か。
冷奴の冷たさが、ちょうどいい距離感を教えてくれた気がした。
「今日も本日のコーヒーで?」
顔を覚えられたらしい。名前のないカフェに通い始めて、もう四度目の木曜の夕方。なのに、あれ以来、彼女の姿は見かけない。
「今日は、エチオピア・イルガチェフェです。柑橘っぽい香りが立ってて、アイスでもホットでもおすすめですよ」
マスターの丁寧な説明にうなずき、ホットを頼んだ。ほんの少し酸味があって、スッと立ちのぼる香りが心地よい。器の揺らぎに、なんとなく気持ちが整っていく。
あの人も、確か同じようにコーヒーを香っていた。名刺に書かれた「ゆかり」という文字だけが、なぜかずっと脳裏に残っている。大文字と小文字が整然と並ぶ、あの滑らかな筆跡。柔らかさと几帳面さが共存するような、そんな印象を与える名刺だった。
「ゆかりさん、か……」
名前を知っていても、その人の中身までは分からない。けれど仮説を立てるのは得意だ。職業病みたいなものかもしれない。目線、話し方、ちょっとした手の動き。あのセミナーでの堂々としたプレゼンと、カフェで見せた柔らかな横顔。その対比がずっと引っかかっている。
「たぶん、責任感の強いタイプだな。でも、家では気を抜いて、猫としゃべってたりして——」
いや、こうやって仮説を積み上げれば積み上げるほど、実際の彼女とは違っていくような気がしてくる。紙の上の文字が、現実の彼女の輪郭をぼやかしていく。
⸻
夜風が蒸し始めた。そろそろ梅雨入りの気配だ。帰りに寄ったスーパーで、ひんやりした豆腐とミョウガ、それからカップアイスを手に取った。今夜は冷奴にしよう。
家に着いて、パックを開けて小皿に豆腐を乗せる。切るほどの手間もない。ミョウガを刻んでのせる。冷たい豆腐に、薬味の香りがふわりと立ち上がる。
「ノージンジャー……か」
一人でつぶやいて、少し笑う。生姜がないだけで、ずいぶん味も印象も変わる。名前を知っているだけでは、人の味や本質まではわからない。そんなことを、豆腐に教えられるとは。
豆腐を食べ終えて、皿を手に立ち上がる。
「あっ、アイス……!」
買ったまま、袋に入れっぱなしだった。慌てて袋を開けて、まだかろうじて冷たさが残るカップアイスを手に取る。
「きっとセーフ……。カップアイスでよかった」
冷凍庫の奥に滑り込ませながら、胸をなで下ろす。ミョウガ食べたからかな、とぼんやり思う。
「ミョウガ食べると、物忘れがひどくなるって……誰が言ったっけな」
苦笑しながら、引き出しを閉じた。そういえば昔、祖母がそう言っていた気がする。根拠なんてなくても、こういう話はどこか記憶に残る。
名刺には、メールアドレスもある。でも、送らない。偶然また会えたら、それがいい。
ミョウガの香り、冷奴の冷たさ、そして名前の記憶。ミョウガの香りが初夏の夜にやさしく溶ける。しょうがの代わりに、今日はこれで。
⸻
どこまでが現実で、どこからが想像か。
冷奴の冷たさが、ちょうどいい距離感を教えてくれた気がした。
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