バスキアのドローイング

トリヤマケイ

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あゆみとあゆむ3

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ψ06

 千駄ヶ谷の駅に降り立ったあゆむは、群集を嫌って繁華街からそれると、見知らぬ街角の路地にふらりと迷い込んだ。

 ビルとビルの狭間から覗く空は、あるいは、ビルの稜線によって切り取られた矩形の空などではなく、空の明るさによって、ビルがそのシルエットを持つのかもしれい、などとあゆむは思った。

 右手のビルの上半分ほどは、かろうじて西日を浴びているが、レンガ色した建物じたいが、それをやわらかく反射することによって、道路を隔てた向かいのビルやアスファルトまでもが、紗がかかったような仄かなオレンジに染まっている。

 西日の射さない左手前のビルの一階部分が、いちばん暗いが、ここにはプランターに植えられたヒマワリたちが、小さな太陽のように灯りをともしていた。

 もっとも明るいハイライトの部分は、アスファルトの道路が、左へと折れ曲がっていくそのRの外側に面した建物の屋上で、それはピンクゴールドの宝石のごとくに光り輝いていた。

 雨上がりのように湿った光沢を放っているかに見える、アスファルトのゆるやかな勾配を下っていくと、あゆむには、なぜかこの先に踏み切りがあるような気がしてならなかった。

 それは、地図にも載っていない踏み切りだ。見つけようとすると眼前で消えてしまう、幻の踏み切り。だから忍び足で近づいていかなくてはならない。

 曲がり角でそっと目を瞑り耳を澄ますと、ラジオの周波数を合わせたかのように、ほら、カンカンカンと遮断機の音が聞こえてくる。

 そんな幻覚めいたランドスケープを楽しみながら、あゆむは、病院へとそぞろ歩いた。

 あゆむは、再び診察室で、医師と対座している。空調機のかすかな音が、あゆむには環境音楽のように聴こえてくる。

「それでどうですか、小説のほうはつづけていますか?」

「ええ、まあ」

「そう。そりゃよかった。で。いったい、どんな小説なんですか?」

「いえ。小説といっても、ぼくにはそんな想像力もないものですから、ある程度経験に則したものを書いているんです」

「ほう。それで、どんな?」

「実は、ぼくは今のところ夜働いているという設定で書いているんです。錦糸町にあるルネというゲイバーというか、ニューハーフのお店が舞台となっていますが、あとはまあ、日常的なことなんかを織り交ぜながら……まあ、日記みたいなものです」

「なるほど。なかなか面白そうですね」

「で、話は変わりますが、先生どうなんでしょう。ぼくが不意にこの世から消えてなくなったら、この地球はどうなるんでしょうか?」

「ほほう。それでどうなると思います、ご自身では?」

「昨夜、夢を見たんです」

 医師はちょっぴり肩をすくめ、「それで」と促す。

 ふと見ると、医師の右足が小刻みに揺れていた。

「先生、どうなされたのですか?」

「え?」

「右足」

「あ、これは失礼」といって、医師は貧乏ゆすりをやめた。

 あゆむは、医師が背にした窓の方を眺め、この完全な逆光状態で、ストロボなしで撮影を行なったならば、カメラのTTL露出計の読んだ値に対して、どのくらいの補正を加えたならばよいだろうかなどと、考えていた。

 再び、医師がいった。

「それで?」

 即座にあゆむは答えた。

「ま、+1EVくらいが妥当でしょう」

「え?」

「すいません。何の話でしたっけ?」

「たしか夢の話だったと」

「そうでした。夢。夢といえば先生、『マイプライベート・アイダホ』という映画をご覧になりましたか?」

「いや、あいにく」

「そうですか。ぜひ観ていただきたいものですが、そりゃもうすごい映画なんですよ。先生ならむろんご存知でしょうけれど、ナルコレプシー、つまり発作性睡眠症ですか? 主人公であるマイクをあのリバー・フェニックスが演じているんですが、その彼がナルコレプシーという奇病の持ち主という設定も面白く、エンドまでぐいぐいと押しまくってくれるのですよ。

 アスファルトのそれのような映画のザラザラとした質感を伴った映像が、マイクの内面を顕しているようでもあり、また同様にカラーのどぎつい色あいも、命の炎を鮮やかな原色の花火のように一気に燃え上がらせる、マイクたちの刹那的な生き様そのもののようなのです。

 監督は、ガス・ヴァン・サントという人なのですけれども、日陰者のアウトローたちを好んで描く人のようで、そういった者たちが好きな私にはたまらない映像作家なのです。

 リバー・フェニックス演ずるところのマイクとその仲間たちは、いわゆる街の男娼としと食っていっているのですけれども、まったく汚らしさを感じさせないし、それどころか、キアヌ・リーブスが扮するスコットにマイクが告白するシーンなどは、男女間のそれらよりも、かえって穢れない美しさを感じてしまうのです。

 同姓間の愛も同じ愛に変わりはなく、尊いものなのだなと思いました。同監督作である『カウガール・ブルース』でのジェリー・ビーン、これは、リバー・フェニックスの実の妹であるレイン・フェニックスが演じているのですが、その彼女とヒロインであるシシーの同性愛も、こちらのマイクとスコットと同様、まったく違和感やいやらしさといったものを感じさせないのですけれど、それはひとえにガス・ヴァン・サント監督が、包容力ある優しい眼差しで彼らを見つめているからなのであり、そういった彼の温かい視線の向こうにはいつもマイノリティたちがいるのです。

 で、物語なのですが、どうせ先生はご覧にならないでしょうから、話していまいますけれど、マイクは、この親友を超えた存在であるスコットに、見事に裏切られてしまうんです。

 スコットは、実は市長の子息であり、それまでは放蕩三昧の爛れた生活を送っていたわけなのですけれど、父親に明言していた通り、二十一歳になった日を機に豹変してしまうのです。

 その変わり身の早さ、ずる賢さ、図太さは、政界を泳ぐに足る素質充分なのでしょうけれど、昨日まで親友だといっていたマイクも、いわば師と仰いでいたボブに対しても、ただのクズ同然に扱う義理も人情もないその冷酷さには、ただただ呆れるばかりなのでした。

 たとえ、手のつけられない荒くれ者で、愚にもつかない連中であろうとも、それまでは同胞としてつきあっていたのですから、二十一歳を境に生まれ変わり、一切の交際を絶つにしても、それなりの仁義といったものがあって然るべきだったはずではないのかと思うのですよ。

 その後、ボブはスコットの態度の豹変によるショックによる為か、急死してしまい、同時期に亡くなったスコットの父親と、奇しくも同じ墓地内に埋葬されるのですが、元市長であったスコットの父親は、多くのお偉いさんの関係者と親族に、片やボブの方は、親族もいず、ただ身体を売って日銭を稼ぐジャンキーたちに、それぞれ見守られて死出の帰らぬ旅に出るわけなのですけれども、一体どちらの方が、その死を惜しまれるものなのか。

 哀しみを馬鹿騒ぎすることによって紛らすマイクたちの叫び歌い、飛び跳ねまわる様を、遠くの方から窺うスコットの冷たい眼差し、あるいは、スコットも心のなかでは大好きだったボブのために血の如き涙を流していたのか否か、私にはそれを見抜くことはできませんでしたけれども、頭が良くてスマートに人生を渡ってゆくお金持ちのエリート、スコットよりも、不器用でも、否、不器用であるがゆえに、必死にその日一日一日を生きてゆくマイクたちに、強いシンパシーを覚えたのです。

 お客を取って、カマを掘らせたわずかばかりの金でヤクを買う。それに加えてナルコレプシーという奇病であるマイクの存在は、風前の灯火のような一瞬のかそけき炎のゆらめきのようなものかもしれないけれども、雑草のようにそれでも生きてゆく、その生命の重さ、尊さを誰をも穢すことは出来ないと思うのです。

 後に、実人生に於いても、ドラッグにより彼岸へと翔び去ってしまったリバー・フェニックスを想うと、ラストシーンの画にWって見えてくるかのようなのでした。

 そのラストシーンで、マイクはいつものように発作が起きて道端にくずおれてしまいます。

   やがて、そこに一台のトラックが近寄り、マイクを助け起すのかと思いきや、彼の靴を脱がせ、バッグを奪ってそのまま逃げてゆきます。

 それはまるで、マイクがこの世に生まれ、辿ってきた傷付き奪われるだけの人生のメタファーのようにも見えます。

 それからマイクは、次にやって来た乗用車の男に今度こそ助けられ、後部シートに寝かされます。

  そして、彼を乗せたその車は、まっすぐ地平線の彼方へと走り去ってゆくのですが、このラストショットは、そのまま傷を負い翼の折れたマイクを天使が見守りながら、ひっそりと昇天していく、そのように見えるのです。

 人はそれぞれ様々な生き方があるけれども、明日を信じて力強く生きていこう、悪いこともあれば良いこともあるさ、そういったガス・ヴァン・サント監督の声が聞こえてくるような静かな幕切れでした。

 とまあ、こんな具合なんですけど、先生どうです、観たくなりました?」

「いやあ、なかなかのもののようですね。是非とも観たいものですが……。で、どうなんでしょう、私としては、あなたご自身の夢の方もどんな内容だったのか、聞きたいのですが……」

「そうなんですか。ぼくの夢など映画に比べたらとるに足らない———実に他愛ないただのイメージの氾濫に過ぎず、それを言葉に置き換えることなど到底無理であるばかりか、それはまったくの無意味な作業であるだろうし……。そうだ、先生。そんなことより、ぼくは先日、いやあお恥ずかしい限りなのですが、この歳になってはじめてドストエフスキーを読んだのですよ。

 それは、トーニャとラスコリーニコフの物語でした。

 読み進むにつれて思い出したのは、あのネフリュードフとカチューシャのお話でした。厳しい風土の為か、ロシアには悲惨で絶望的なものが多いような気もしますけれど、そこに惹かれるのでしょうね。

 そのとてつもない絶望は、絶対的なもの故にすべてを無化して、やがて究極の美へと昇華してゆくのですね。

 しかし、なぜまた今になってドストエフスキーを読もうと思い立ったのかというと、まあ、以前から注目している面白い人物がいまして、その人は無類の映画好きで本来はシナリオライターを志していたようなのですが、たまたま? 書いた長編小説の二作目で、ある文学賞を貰ってしまい、作家となった人物で、いわゆる文学的でない新しい世界を創造していて、久々に面白い純文学作家の登場かとはじめから期待していたのですけれど、何ヶ月か前の、ある文芸誌でバロウズと彼との架空の対談があり、そこでドストエフスキーの話がちらっと出てきたんです。それで、ちょっと読んでみようかなと思い立ったわけんなですけれど、いやはや相当なものでした。ぐいぐいと物語のなかに引き込まれてゆくんですよね。偉大なる魂の持ち主ってやつでしょうか。小手先の芸じゃないですね。

 ところで、ここでまた話は変わるんですが、ぼくは性懲りもなくカメラ片手に街を彷徨っているのですけれど、今のところのお気に入りは、品川、大崎方面なのですが、先日はちょっと浮気心を起して、浅草まで足を伸ばしてみたんです。

 浅草といっても電車で一足飛びに行ってしまうのではなく、徒歩で銀座から月島を経ての浅草行であるため、ちょっとした強行軍でしたが、中央区、江東区を抜け、墨田区の向島まで出て、言問橋を渡ったらもうそこは花川戸でした。

 途中何度も立ち止まってはあちらこちらにレンズを向けるため、既に時刻は夕刻となり、光量不足で結局、肝腎な浅草はほとんど撮れずじまいでしたが、はじめて見た浅草は、やけに人が多く、ごみごみしていて———たとえば、浅草寺の公園入り口脇の路上で、いかにも質流れ品といったくすんだ色合いのズボンやら上着やらを、それこそ叩き売りしている場に、数人の中高年の男女が群がっている図や、公園内のゴミ箱を漁って、得々として戦利品の品定めをはじめる輩等、なにやら昭和のはじめ頃の日本にタイムスリップしてしまったような、とても不思議な感覚に襲われたのでした。

 しかし、何よりも感じ入ったのは、時間線を逆戻りしてしまったかのような見知らぬ土地に来た異邦人である自分が、この地で営々と人々が生活を営み、生きつづけているという、そのことを肌で感じることによる圧倒的な存在感なのでした。

 自分がこの地を地下鉄に乗って去った後にも、浅草は存在しつづける———そんなことはいうまでもないことなのですが、自分の認識の外で浅草と彼の地に生きる人々は、ずっと存在しつづけていく。

   そのことに驚きを禁じえなっかたのです。そして、いまや自分の心の中に消し難く存在しはじめたということ。

   地図の上ではその存在を知っていても実際には私のなかで浅草という地とそこに住する人々は存在しなかったも同然であり、そういった意味では世界とは個人の認識ひとつで一変してしまうものであって、むろんそれは、浅草に限ったことではなく、ニューヨークでもブエノスアイレスでも、青島でもサマルカンドでも同様なのですけれども、それでは、それのどちらが現実なのでしょうか。即ち、現実とは、個人の内に在るものなのか、外に存在するものなのか。

 むろん、双方に現実は存在しているからこそ、このような事態を招くのでしょうし、そしてその差異が生じるところにこそリアリティというものを感ずるのかもしれませんね。

 小説にしても映画にしても、そもそもすべてはつくりもので、嘘っぱちであっても、その想像の世界におけるリアリティというものは、むろんなくてはならないのであって、そういったものが欠如していたり、統一されていないと嘘っぽいということになって、その世界へと入ってゆくことが出来なくなる。

 自分の身の回りに実際起こっていることだからリアルだというわけでもなく、極端な話、ドキュメンタリーだからリアルそのものなのだというのでもないはずで、単に生の私生活をそのまま綴ったとしても、逆にリアルではなく、それこそいわゆる物語となってしまう憾みもあるわけで、つまり、自己の現実があるからこそ相対的にものを見ることが出来るわけであって、距離があるからこそのリアリティ、つまり、こういうことでしょうか。客観こそがリアリティであると。

 自分の生きているこの現実と、物語世界の現実との差異を感じ得ることができるのは、事物、事象を客観視でき得る距離が在るからであって、そこに生じる自分の現実、あるいは認識とのズレから、両者の輪郭がくっきりと浮かび上がり、その相違が際立つことによって、逆照射的に自己を見つめ直す機会を得ることになる。

 小説や映画からリアリティを感じ取るのは、自分をとりまく現実と物語世界のある規則性にのっとった現実に、ただ単に差異が生じていればよいというわけでもなく、また、しっかりと世界が構築されていると感心するからでもなく、それらによって自己が逆照射を受け、自分は生きているのだという実感を、自分では意識せずとも得たときではないのか。

 スクリーンを見つめながら、あるいは頁を繰りながら、自己を見つめ直す作業を知らぬ間に———フィルムの駒と駒の間に、あるいはテクストの行間に———行い、自己の存在の認識を新たにするということ、それがリアリティを生むのではないでしょうか。
 いかがですか、先生?」
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