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#83 アロンアルファ
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その男は、物言わぬ壁に向かって、日がな一日何事がしゃべりつづけていた。しゃべっているその声は聞こえるのだけれども、何を言っているのかはちょっと理解しがたかった。
それは、言葉の端端しか聞こえてこなかったからだが、ある日、その男に仲間ができた。新人のそいつは、その男が詩人か、偉大なる預言者であるとの認識があるらしく、壁に向かって矢継ぎ早に放たれる男の言葉を、必死になって大学ノートに書き取っていた。
ラジカセにでも録音すれば簡単だろうにと思うのだったが、天才? の御言葉を筆記することに意義があるのかもしれない。
私は高みの見物よろしく彼らを四階の部屋から眺めているわけなのだけれど、きょうもまたふたりは律儀に自分たちの仕事をこなしている。
そんなふたりを眺めている私も相当な暇人であることは確かで、頬杖をつき、あるいはタバコをくゆらせながら、いつもと同じ光景の一部となりきる、そんなアンニュイな午後のひとときがたまらなくいとおしく思えた。
しかし、ある日を境に彼らは、忽然と消えてしまうのだ。
私は、ソファに座りオニツカタイガーの虎の顔が大きくプリントされた唐草模様のバッグを開いて、読み止しの文庫本を三冊取り出す。「赤と黒」に「月と六ペンス」、そして「椿姫」。
大好きなその三冊を交互に読みながら、向かいのキッチンの窓で矩形に切り取られた清掃工場の巨大な煙突やら、水平線に白く霞む石油コンビナートを目を細めてちらちらと窺い見る。
海が青いのは、空が青いからだというけれども、寂しげな東京の灰色の空は、やっぱり鉛色の街が反射しているからなのだろうか。
その日もなんにも変わり映えしない休日だったので、いつもと違う過ごし方をしようと思って、一度も利用したことのない駅で降りてみた。すると駅構内で、コンサートをやっているのか、甘い調べが聞こえてきたので、私はハッとして耳をそばだてた。
私は、いわゆるクラシックが好きで、ことに近代に入ってからのバルトークや、アルバン・ベルクの弦楽四重奏が好きだった。
私は気が遠くなるほどの甘美な旋律に身を焦がす。音楽には、匂い立つような官能性がある。
そのときも、自然に魅惑の調べのする方へと足が向いてしまったのだが、生演奏をしているわけではなかった。
そこでは、絵画展が催されていて、そのBGMとして薄く構内に流されてというわけだった。ちょっぴりがっかりもしたが、なぜか少し緊張しているのは、慣れていない場所を訪れたからだろうか。
アマチュア画家の合同展示会と大きな立て看板が出ていた。無料だし、観ていくことにした。モネのような印象派風の風景画や、幻想的でエロチシズムや迷宮性といったものを感じさせる具象の細密画みたいなものもあった。
個人的には、幽玄といったものを感じさせるものが好きだったが、ことに海北友松の画に触れたときには、深い感銘を覚えたものだった。
そして、私はその画の前で足を止めたのだ。
すると音楽が不意に止まり、構内のさんざめきも聞こえなくなった。私は背中にじっとりと汗をかいていることに気がついた。
なんの変哲もない画だった。
さまざまな色が何度も塗り重ねられて出来たのであろう、深い黒の背景に深紫のワンピースを着た白髪の女性が椅子に座り、両手に大事そうになにか赤黒いものを持ち、それを愛おしそうに眺めている絵画だった。
その女性は、白髪ではあったが、老婆というわけではなかった。『ファルスを抱く女』タイトルは、たしかそうなっていた。知らぬ間に聴覚が戻ってきたようだ。「弦楽のためのレクイエム」が鳴っていた。なんなんだろう、この画は……。
と、仔細に眺めてみると、その女性が大事そうに持っているのは、男根であることがわかった。わかってみると、ちょっと、というか、かなりひいた。
でも、その絵から目が離せない。どうしてもソレに視線がいってしまうのをやめられなかった。
これは、芸術作品なのであり、低劣なポルノグラフィーといった単に卑猥で即物的な類いのものではないのだと自分に言い聞かせ、周りを窺いながらもどうしても視線をペニスから離すことができなくなってしまった自分をどうすればいいのか、わからなくなっていた。
それほどに、その画が力を秘めているというわけでもなさそうなのに、疑問を解決したいがゆえに一生懸命顔を近づけ、これはなんだろうと観察し、それがペニスだとわかった時の衝撃が、ずっと私を捉えて放さないのだった。
それは、ペニスの張り型といったものではなく、生身のペニスそのものだった。女性は、その肉の塊を愛おしそうに見つめていた。
官能的なアトモスフィアといったものは皆無だったため、こちらは完全な無防備状態だった。そこに、すっと魔物が入り込んできた、そんなことなのかもしれない。
それほど美しくもない、どこにでもいそうな女性がさりげなく両の掌で持っていたものは、男性のシンボルである勃起したペニスだった。
全裸の女性であるのならば、状況は、少し変わっていたかもしれない。こちらもそのつもりで見るからだが、そこで、再びある疑問が生じてきた。
それは、ペニスが勃起した状態であるということだ。ペニスを有する男性が、ある種の興奮により勃起することは、ごく当然ななりゆきなのかもしれないが、この絵画には、そのペニスの主たる男性が描かれてはいないのだ。
ただ単に、彼女の両手の中に存在するだけのペニスを、本来のヒトのペニスと同等に見ていいのかわからないが、勃起を保持しているということは、勃起した状態のペニスを切り取ったということとしか理解できない。
勃起のシステムは、ふだん血液を排出する役目である静脈が、ペニスの根元で締まって血液を止めてしまうかららしいが、それは、ペニスが人体の一部としてあるときのことであって、ペニスを根元から切り取ってしまったなら、一気に血液が流れ出し、それもたぶん滝のように流れ出し、空気を抜かれた風船のようにあっというまに萎んでしまうであろうはずなのに、なぜまたこのペニスは勃起を保っているのだろうか。
彼女は、禍々しいほどに怒張した肉と血の塊を掌で皿を作り、そこに捧げ持つようにして睾丸のない勃起した男性性器のペニスのみがのっていた。
画家の見事な筆致から、そこからは、ずっしりとした重量感さえ感得できた。
血液がだらだらと流れ出してはいなことから、なんらかの止血が施してあるのだろうと思った。精巧に作りこまれた蝋細工などではけっしてないという気がした。
それで、不意に思い出したが、もしかしたらこの止血はアロンアルファでやったのではないかと思った。
実は、アロンアルファは、そういったときの用途のために開発されたのだと、なにかの本で読んだことがあった。
正確にいえば、止血のためだけではなく、指などを刃物などで切り落としそうになった際に、くっつける役目も果たしてくれるらしい。歯にも使えるようだ。
そのことに気がついて、自分で驚いた。
そうか、本物の勃起したペニスを切り取って用意しておいたアロンアルファをまんべんなく傷口に塗って止血したのにちがいない。
そんなことを考えながらも私は、もうずい
ぶんと前から、自分の身体の異変に気がついていた。膝頭が合わぬほど脚が震えていた。
このままでは、ほんとうにまずいと思ってこの画から逃れようとするのだけれど、なぜか身体が硬直したように動かなかった。膝を小刻みに震わせながら、私は、その場を動けないのだった。
でも、固く目を瞑り、なんとかやっと身を引き剥がすようにして、その絵画から離れ、次の絵画へと視線を移したものの、眸は、いっさいなにも見てはいなかった。ずっと視床下部には先ほどの画の残像が貼り付いたままなのだ。
私は、もう他の絵画を見る気を失うとともに、どっと疲れが出てソファにへたり込んでしまった。膝頭が合わぬほど脚が震えているという以外にも歩くのに具合が悪いことが起こっていた。
あの画から、離れたら離れたで、今度は、あらぬ妄想が脳裏を駆け巡り、それに抵抗しつつ自分の肉欲とも戦ってほとほと疲れてしまった。
小一時間ほども、そうして座っていたかもしれない。
男の身体や顔は見えないのだけれども、あのペニスが鮮明に蘇り、私を小突きまわすのだった。無数の怒張したペニスが、私のなかに押し入ろうと責め苛んでくる。こんなことははじめてのことだった。
とにかく、あの絵画から離れなくては駄目だと本能的に覚った私は、やっとの思いで表へと出た。
眩しい秋の陽光がピンスポットのように私を照らし出し、なにか生き返ったような気がしたが、痛いほど勃起した私を周りの人たちは笑っているのではないかと思えてならなかった。
それは、言葉の端端しか聞こえてこなかったからだが、ある日、その男に仲間ができた。新人のそいつは、その男が詩人か、偉大なる預言者であるとの認識があるらしく、壁に向かって矢継ぎ早に放たれる男の言葉を、必死になって大学ノートに書き取っていた。
ラジカセにでも録音すれば簡単だろうにと思うのだったが、天才? の御言葉を筆記することに意義があるのかもしれない。
私は高みの見物よろしく彼らを四階の部屋から眺めているわけなのだけれど、きょうもまたふたりは律儀に自分たちの仕事をこなしている。
そんなふたりを眺めている私も相当な暇人であることは確かで、頬杖をつき、あるいはタバコをくゆらせながら、いつもと同じ光景の一部となりきる、そんなアンニュイな午後のひとときがたまらなくいとおしく思えた。
しかし、ある日を境に彼らは、忽然と消えてしまうのだ。
私は、ソファに座りオニツカタイガーの虎の顔が大きくプリントされた唐草模様のバッグを開いて、読み止しの文庫本を三冊取り出す。「赤と黒」に「月と六ペンス」、そして「椿姫」。
大好きなその三冊を交互に読みながら、向かいのキッチンの窓で矩形に切り取られた清掃工場の巨大な煙突やら、水平線に白く霞む石油コンビナートを目を細めてちらちらと窺い見る。
海が青いのは、空が青いからだというけれども、寂しげな東京の灰色の空は、やっぱり鉛色の街が反射しているからなのだろうか。
その日もなんにも変わり映えしない休日だったので、いつもと違う過ごし方をしようと思って、一度も利用したことのない駅で降りてみた。すると駅構内で、コンサートをやっているのか、甘い調べが聞こえてきたので、私はハッとして耳をそばだてた。
私は、いわゆるクラシックが好きで、ことに近代に入ってからのバルトークや、アルバン・ベルクの弦楽四重奏が好きだった。
私は気が遠くなるほどの甘美な旋律に身を焦がす。音楽には、匂い立つような官能性がある。
そのときも、自然に魅惑の調べのする方へと足が向いてしまったのだが、生演奏をしているわけではなかった。
そこでは、絵画展が催されていて、そのBGMとして薄く構内に流されてというわけだった。ちょっぴりがっかりもしたが、なぜか少し緊張しているのは、慣れていない場所を訪れたからだろうか。
アマチュア画家の合同展示会と大きな立て看板が出ていた。無料だし、観ていくことにした。モネのような印象派風の風景画や、幻想的でエロチシズムや迷宮性といったものを感じさせる具象の細密画みたいなものもあった。
個人的には、幽玄といったものを感じさせるものが好きだったが、ことに海北友松の画に触れたときには、深い感銘を覚えたものだった。
そして、私はその画の前で足を止めたのだ。
すると音楽が不意に止まり、構内のさんざめきも聞こえなくなった。私は背中にじっとりと汗をかいていることに気がついた。
なんの変哲もない画だった。
さまざまな色が何度も塗り重ねられて出来たのであろう、深い黒の背景に深紫のワンピースを着た白髪の女性が椅子に座り、両手に大事そうになにか赤黒いものを持ち、それを愛おしそうに眺めている絵画だった。
その女性は、白髪ではあったが、老婆というわけではなかった。『ファルスを抱く女』タイトルは、たしかそうなっていた。知らぬ間に聴覚が戻ってきたようだ。「弦楽のためのレクイエム」が鳴っていた。なんなんだろう、この画は……。
と、仔細に眺めてみると、その女性が大事そうに持っているのは、男根であることがわかった。わかってみると、ちょっと、というか、かなりひいた。
でも、その絵から目が離せない。どうしてもソレに視線がいってしまうのをやめられなかった。
これは、芸術作品なのであり、低劣なポルノグラフィーといった単に卑猥で即物的な類いのものではないのだと自分に言い聞かせ、周りを窺いながらもどうしても視線をペニスから離すことができなくなってしまった自分をどうすればいいのか、わからなくなっていた。
それほどに、その画が力を秘めているというわけでもなさそうなのに、疑問を解決したいがゆえに一生懸命顔を近づけ、これはなんだろうと観察し、それがペニスだとわかった時の衝撃が、ずっと私を捉えて放さないのだった。
それは、ペニスの張り型といったものではなく、生身のペニスそのものだった。女性は、その肉の塊を愛おしそうに見つめていた。
官能的なアトモスフィアといったものは皆無だったため、こちらは完全な無防備状態だった。そこに、すっと魔物が入り込んできた、そんなことなのかもしれない。
それほど美しくもない、どこにでもいそうな女性がさりげなく両の掌で持っていたものは、男性のシンボルである勃起したペニスだった。
全裸の女性であるのならば、状況は、少し変わっていたかもしれない。こちらもそのつもりで見るからだが、そこで、再びある疑問が生じてきた。
それは、ペニスが勃起した状態であるということだ。ペニスを有する男性が、ある種の興奮により勃起することは、ごく当然ななりゆきなのかもしれないが、この絵画には、そのペニスの主たる男性が描かれてはいないのだ。
ただ単に、彼女の両手の中に存在するだけのペニスを、本来のヒトのペニスと同等に見ていいのかわからないが、勃起を保持しているということは、勃起した状態のペニスを切り取ったということとしか理解できない。
勃起のシステムは、ふだん血液を排出する役目である静脈が、ペニスの根元で締まって血液を止めてしまうかららしいが、それは、ペニスが人体の一部としてあるときのことであって、ペニスを根元から切り取ってしまったなら、一気に血液が流れ出し、それもたぶん滝のように流れ出し、空気を抜かれた風船のようにあっというまに萎んでしまうであろうはずなのに、なぜまたこのペニスは勃起を保っているのだろうか。
彼女は、禍々しいほどに怒張した肉と血の塊を掌で皿を作り、そこに捧げ持つようにして睾丸のない勃起した男性性器のペニスのみがのっていた。
画家の見事な筆致から、そこからは、ずっしりとした重量感さえ感得できた。
血液がだらだらと流れ出してはいなことから、なんらかの止血が施してあるのだろうと思った。精巧に作りこまれた蝋細工などではけっしてないという気がした。
それで、不意に思い出したが、もしかしたらこの止血はアロンアルファでやったのではないかと思った。
実は、アロンアルファは、そういったときの用途のために開発されたのだと、なにかの本で読んだことがあった。
正確にいえば、止血のためだけではなく、指などを刃物などで切り落としそうになった際に、くっつける役目も果たしてくれるらしい。歯にも使えるようだ。
そのことに気がついて、自分で驚いた。
そうか、本物の勃起したペニスを切り取って用意しておいたアロンアルファをまんべんなく傷口に塗って止血したのにちがいない。
そんなことを考えながらも私は、もうずい
ぶんと前から、自分の身体の異変に気がついていた。膝頭が合わぬほど脚が震えていた。
このままでは、ほんとうにまずいと思ってこの画から逃れようとするのだけれど、なぜか身体が硬直したように動かなかった。膝を小刻みに震わせながら、私は、その場を動けないのだった。
でも、固く目を瞑り、なんとかやっと身を引き剥がすようにして、その絵画から離れ、次の絵画へと視線を移したものの、眸は、いっさいなにも見てはいなかった。ずっと視床下部には先ほどの画の残像が貼り付いたままなのだ。
私は、もう他の絵画を見る気を失うとともに、どっと疲れが出てソファにへたり込んでしまった。膝頭が合わぬほど脚が震えているという以外にも歩くのに具合が悪いことが起こっていた。
あの画から、離れたら離れたで、今度は、あらぬ妄想が脳裏を駆け巡り、それに抵抗しつつ自分の肉欲とも戦ってほとほと疲れてしまった。
小一時間ほども、そうして座っていたかもしれない。
男の身体や顔は見えないのだけれども、あのペニスが鮮明に蘇り、私を小突きまわすのだった。無数の怒張したペニスが、私のなかに押し入ろうと責め苛んでくる。こんなことははじめてのことだった。
とにかく、あの絵画から離れなくては駄目だと本能的に覚った私は、やっとの思いで表へと出た。
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