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#121 まゆみさん ④
しおりを挟む話は多少前後するけれど、コールセンターの仕事の最終日に、意中の人であるまゆみさんとLINE交換すらしなかった自分は、わざわざゆっくりとトイレで時間を稼ぎ、あらかたみんながビルから蜘蛛の子を散らすように消えていく頃を見計らってエレベーターに乗り込んだ。
しかし、吹き抜けの広々としたロビーからエントランスまで、そこここで名残り惜しげにお別れの挨拶を交わしている大小のグループが散在していて、もうちょっと時間を潰してくればよかったなどと思った。
そして、なぜかオレはこれでまゆみさんからも解放されるのだと思うと、我知らずエヘラエヘラとバカみたいにニヤケしまうのだった。
やっぱりここでの仕事でも何も起こらなかった。いや、自分が働きかけず何も起きないようにしていたのだが。
顔見知りの人たちに、愛想笑いを返しながら、エントランスに向かっていたその時、後ろから声を掛けられた。
七瀬さん。苗字はなんだったか。いつも名前を呼び捨てで呼んでいたわけではないけれど、自分の中では七瀬だった。
実は彼女を避けるために、時間をずらして出てきたというのはあったかもしれない。
誰にも声もかけられず、挨拶もされずただの通りすがりのように涼しい顔してエントランスをすり抜けて行きたかった。
実はいちばん怖れていた人物、それがみゆきさんだった。彼女とも隣同士の席になったこともあるし、帰り道といっても帰りの電車で最寄りの駅まで話し込んでしまったこともあった。
それはかなりレアなケースであり、つまり、七瀬とはものすごく相性が良かったというわけなのだ。
なので、深みにはまりそうで彼女が怖かったのである。この仕事に就いてから見かける女性の中で、どこかで見たことがある、或いは前世とかでなんらかの関係があったとかどうかは知らないが、とにかく知り合いのような見覚えのある女性が3人いたのだが、みゆきさんはその内のひとりだった。
そうだった、彼女の名は深雪七瀬だった。
まゆみさんには、まったくそんな感覚を覚えないのだが、見覚えのある七瀬さんには、はじめから親近感が湧いて何の躊躇もなく会話できたのだった。
男は敷居を跨げば七人の敵がいる、などというが、敵の顔も忘れられないだろうが、親しかった人の顔はどうだろう。死の間際に浮かぶのはやはり親しかった人の面影か。
まあ、とにかく何の抵抗もなく深い関係になりそうである七瀬は、待っていたとばかり、LINEを教えてというのだった。
しかし。それを自分は案の定、拒否してしまうのだった。
「LINE、うざいからやってないんだよね、電話番号でもいいかな? ショートメールできるし」
七瀬は、その瞬間悲しげな目をしたが、仕方なかった。もし彼女のLINEを知ってしまったなら、四六時中まるで恋人にするようにLINEしてしまうのは目に見えていた。
異性の友人というのも確かにいるのだろうが、自分には異性の友人という感覚がよくわからなかった。
七瀬は、もしかしてLINE交換したならば、これから飲みに行こうという流れにもっていこうと考えていたのかもしれない。
七瀬には、もうひとり仲の良い男性がいて、以前にも3人で飲まないかと誘われたことがあった。
しかし、ケータイ番号しか教えない自分に、完璧に白けてしまったのだ。
そういえば、まゆみさんがある時、ハワイに行ったとかで、お土産をいただいたことがあった。
連休と有給を利用しての弾丸ツアー的だったので、まさかハワイだとは思わずに、熱海に行ったんですか? と聞いてしまい、ちょっと嫌な顔をされたことを思い出した。
七瀬とは、そこで別れた切りだった。あちらから電話やメールも来ないし、こちらからもしない。
LINEを交換しない時点で、もう交友はしないと言われているようなものと誰しも思うのだろうか。
七瀬の名前とケータイ番号は、まだ自分のスマホに登録されている。しかし、金輪際七瀬から電話がかかってくることなどないだろう。
そう考えると、少し寂しくもあったがご主人のいる七瀬と恋仲になり、どろどろの愛憎劇を繰り広げたくはなかった。
むろん、享楽は楽しく夢心地だろうが大切な人を裏切ってしまう行為を七瀬にはしてほしくはない。
なんて勝手にそんなアバンチュールを想定している馬鹿な自分は、ほとほと行動力のないただの意気地なしだが、自分たちさえよければ、相手のことなど知らないという、とことん身勝手な略奪愛が長続きするとは思えない。
そんなわけで、まゆみさんとも進展せず、七瀬とも交友しないという自分は、また孤独に帰っていくしかないのだった。
しかし、恋のことよりも次の仕事を一刻も早く見つけなければならなかった。今更ながらだが何か手に職をつけないとこれからは、やっていけないのかもしれない。まったく未知な分野に行こうと思った。
その後、まゆみさんに似たような人を大井町のデパ地下で見かけたが、ほんとうにまゆみさんだったのか、はっきりとはわからなかった。
ただ、すれ違いざまに見た彼女の左手薬指には、あの懐かしいボリュームリングがあの時のまま、確かに輝いていた。
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