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その感情の名は嫉妬

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 この国では珍しい黒目黒髪の愛らしい顔立ちの男が、熱に浮かされたようなぽーっとした表情で己のことを見上げている。
 その男に手を伸ばしたのは、ただの気紛れと言うにはあまりにも熱っぽい感情だった――。


 ナヴァル家から爵位を奪っただけでは飽きたらず、可愛い妹を利用して権力を拡大しようとしているラーディン侯爵の元へフィルがやってきてから約半年。
 当時のフィルは正直行き詰まっていた。自分が思った以上に、皇太子との婚約破棄計画が上手くいっていなかったのだ。
 皇太子から婚約破棄を切り出させるため、この婚約に納得がいっていないことを遠回しに伝え続けていたが、その構成要素の大半が純粋と鈍感で出来ている皇太子には何を言っても通用しない。
 フィルの口撃はのらりくらりと交わされ、毎回決まって「それではまた来週」と笑顔で去って行く皇太子を見送ることを繰り返していた。
 そこで次の手段として当て馬を用意することに決めた。
 しかし、ナヴァル家の私怨を晴らすために他の貴族を巻き込むのは忍びないので、フットマン相手に恋したフリをすることを決意する。
 本物のオフィリアから「私の名声に傷が付くのは構わない! 絶対に爵位を取り戻しましょう!」という強い意志表明がなければ、フィルはこの作戦を実行することは出来なかったかもしれない。
 ところがここで問題があった。
 ラーディン侯爵家にいるフットマンは不男ばかりで、どうもフィルのお気に召さなかったのだ。
 フィルに男色の気はないが、常にそばへ置かねばならないなら自分好みの顔の人間が良い。且つ貴族社会の常識に染まっていない、純真無垢な人間であればなおのこと大歓迎だ。
 侯爵令嬢との禁断の恋を演じるなんて、まっとうな常識を持ち合わせている人間なら絶対に引き受けない。バレた後の報復に恐れをなして不自然な演技をされるくらいなら、違う案を考えた方がましなくらいだ。
 頭を悩ますフィルに対して「奴隷商を訪ねてみては?」と悪魔の囁きを吹き込んだのは、彼が誰よりも信頼してやまない執事のバレットだった。
 彼がどこでそんな知識を身につけてきたかは知らないが、奴隷商の中には異世界からの転生者ばかりを集めて売りさばくならず者がいるという。
 異世界からの人間であればこの世界の常識を知らないので、フィルの作戦に加担させるにはぴったりの役者。
 危険な計画に付き合わせることになる。しかし、本来だったら奴隷として苦労をするはずの運命を、貴族の使用人という恵まれた好待遇で拾い上げてやるのだ。感謝されこそすれ恨まれることはないだろう。
 もし文句を言うようなら多少給金を弾んでやっても良いし、それでも駄目なら放逐すると脅して言うことを聞かせる手もあるだろう。
 爵位奪還のために、フィルはなりふり構ってはいられなかった。
 そんな物騒で自己中心的ないかにも貴族らしい考えを胸中に抱きつつ、なるべく人目に付かぬよう身を隠しながら向かった路地裏の倉庫。
 そこで出会ったのが香坂新太だった。

   * * *

「いくら殿下のご意向とは言え、密室で二人きりにするなんてどうかしてる!」

 ランドルフの襲来から三日後。全回復したフィルは自分が床に伏せっていた間に起こった出来事の報告を聞き、顔を真っ赤にして怒っていた。
 特にアラタに対しては口酸っぱく皇太子に気をつけろと言ったはずなのに――と、自分の指示を聞かなかったことに関して腹立たしさを覚えている。
 怒り心頭の様子のフィルを見て、バレットが恐縮しきった表情で深く頭を下げた。

「フィル様、アラタを叱らないでやってください。殿下の思し召しを受け入れたのは私の判断です。アラタは私の命令に従っただけ……、非はございません」
「フィル様、バレットさんも悪くはありません! フィル様の指示がない以上、あの場で事を荒立てないためには俺が行くしかありませんでした……」
「――分かってる!」

 最近になって思うのだが、どうやらランドルフという男はやっかいな人間だ。人が良さそうな笑みを浮かべ、柔和な態度で誰にでも接する人物だが、実際のところその腹底で何を考えているかが分からない。
 ランドルフは幼い頃から帝王学を学びながら育っているだろう。人に自分の本性を見せないのは、次期皇帝としては褒められるべきことなのかもしれないが、フィルからすれば胡散臭くてかなわなかった。
 叱られた子犬のような表情で己のことを見上げる新太に心が痛まないわけではないが、ランドルフが都合の良いように新太を懐柔するのではないかと思うと、フィルは気が気ではない。
 家のため、妹のために致し方なく女性の格好をしているが、フィルだって男だ。自分のお気に入りをやすやすと別の男に奪わせる気は毛頭なかった。
 とは言えあの場で取り得る最善の策は、新太が指摘したとおり「皇太子の機嫌を損ねずその場を丸く収めること」だったから、彼らの行動が何一つ間違っていないことはフィルも十分理解している。
 ではなぜ自分はこんなにも腹立たしさを覚えるのか――。己の感情に整理が付いていないフィルは、顰み面のまま中空を睨み付けるしかなかった。

「とにかくだ! 次にこのような機会が生じた場合は、必ず俺に指示を仰げ。例え俺が病に冒されていようと、死の淵に立っていようとも絶対にだ!」
「承知いたしました」
「はい、フィル様……」

 しゅんとうなだれた新太を見て、フィルの心がちくちくと痛む。同じく彼の隣でうなだれているバレットを見てもそんな気持ちにはならないのに、これはどうしてだろうか――と頭の片隅に過ったが、すぐに別の話題へ舵を切った。

「ところで新太、皇太子とはどんな話をしたんだ?」
「ほとんどは俺が元いた世界に関する話でしたが、最後にオフィリア様との婚約をどう思っているか質問されました」
「どういう表情をしていた?」
「フィル様の寵愛を得ている俺に嫉妬しているようにも見えましたが、不思議とお怒りの様子は見られませんでした」
「なるほど。アラタの目から見て、この作戦は上手く行っているように見えるか?」

 フィルが新太に確認するように尋ねると、新太は奥歯に物が挟まったような微妙な顔色でフィルのことを見つめていた。
 彼自身は気が付いていないのかもしれないが、新太はすぐに感情が顔に出る。
 分かりやすくて可愛いとフィルは好ましく思っているが、今このときに関してだけは胸に苦々しい思いが去来した。

「正直に申しますと、この作戦が効いているのか自信がありません。殿下との対話でそう感じました」
「あまり効果がないと?」
「ええ。最後に殿下は、これからは俺たちに遠慮なくぶつかっていく――と宣言されました。今後の殿下の出方には十分注意する必要があると思います」

 新太の話からすると、ランドルフは障害があるほど燃えるタイプなのかもしれないとフィルは考えた。
 フィルがランドルフに気のないことを露骨に伝えても、新太に執着している様子を見せつけても気が付かない振りを続けるのは、最早そういう癖へきがあるとしか考えられない。
 もしそうであるならば、フィルが今行っている作戦はかえって裏目に出るだろう。これ以上フィル自身に執着されるのも困るが、新太に興味の対象が移られるのはもっと困るし避けたいとフィルは感じていた。

「仕方ない。作戦を少し変えよう」

 己の姿が女装であるということは最後まで切り札として隠しておきたかったので、フィルはなるべく人目に触れないよう心がけ、外に出ることを極力控えている。
 ランドルフはそれを「オフィリア嬢は人が集まるところは好きではない」と勘違いし、逢瀬の場所にラーディン侯爵家を指定してきた。
 だからもし新太以外にフィルが男だと気付く者がいるとすれば、それは侯爵家または皇太子付きの従者たちだろう。
 しかし、どちらの従者たちも皆よくできた者ばかりだから、主人の情報を勝手に外へ漏らすことはしなかった。フィルが新太にみせる尋常ならざる愛情表現も、そっと目をつぶって見ないふりを続けている。
 つまり、「オフィリア嬢がフットマンにご執心である」という醜聞は、どこにも広まっていない。
 フィルはそこに目を付けた。

「バレット、命令だ。貴族のゴシップを扱う新聞社へオフィリアの醜聞を流せ。あることないこと流しても構わない。とにかく周囲の人間、特に皇帝陛下が『オフィリアを皇太子妃にしてはいけない!』と思うように仕向けるんだ」
「よろしいのですか?」
「ああ。皇太子本人への攻撃がかわされ続ける以上、やむを得まい」
「本丸を直接崩せないなら、外堀から攻めていこうということですね」

 不安げな表情を見せて呟く新太に、フィルは力強く頷いた。
 己の手より小さな新太の手を取ると小さく震えていたので、安心させるようにその手をぎゅっと握りしめる。
 僅かに頬を赤く染めた新太と目が合ってフィルは一瞬瞠目したが、すぐに気を取り直すと優しい笑顔をその美しい顔に浮かべた。

「大丈夫だ、アラタ。何があってもお前のことは俺が守ってやるからな!」

 その一言でとうとう新太の顔がゆでだこのように真っ赤になる。そんな彼の態度に、俺の新太はやっぱり愛らしいな――とフィルは思った。
 作戦を実行する前はフットマンの一人や二人使い捨てても構わないと考えていたが、新太を目の前にするとそんな考えを抱いていた過去の自分が恥ずかしくなる。
 この作戦が終わっても、新太は手元に置いておきたい。
 気恥ずかしさからかキョロキョロと視線を動かし続ける新太に気が付かれぬように、フィルはにんまりと欲にまみれた笑みを浮かべた。
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