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譲れない願い
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美術館からのお帰り道、美しい装飾が施された馬車の中はその装飾がかすんで見えるほどどんよりと重く沈んでいた。
フィルと新太がびしょ濡れになっているのを見て、事情を知らないバレットが大いに慌てる。今は二人して大きな布に包まれたまま、向かい合わせになって馬車に揺られていた。
「アラタ、どうしてあんな挑発を真に受けた――!」
たっぷりと間を置いてから、フィルが唸るように呟く。
お嬢様のふりをしなくてはいけない都合、あの場で本心を曝け出すことは控えていたようだが、フィルが新太とランドルフのやりとりをよく思っていないことは容易に想像が付いた。
美人が怒ると怖いと言うがそれは本当だ。
暑い夏の日、輝く太陽に照らされた地面から陽炎が立ち上るように、フィルの全身からもゆらゆらと靄のような怒気が立ち上っている。フィルの眉間にはくっきりと深い皺が刻まれ、今にも掴みかかってきそうな雰囲気があった。
ここが馬車の中でなければ新太は裸足で逃げ出していただろう。せめて御者台に座ると言い張ったバレットを引き留め、客室の方へ一緒に乗って貰えば良かったと思っても後の祭りだ。
「お前の手助けがなくても、俺はあの場を切り抜けることができた!」
「どうやって?」
「――俺の性別を明かすつもりだった。俺が男だと知れば皇太子も結婚を諦めるはずだろ。俺では子孫を残すことができないんだから」
忌々しげな表情で吐き捨てるようにフィルが呟く。新太の腹底が煮え湯を飲んだようにカッと熱を持った。
「恐れながらフィル様、考えが甘いです……!」
新太が男だという理由で側室になることを断っても、それをものともしなかったランドルフのことだ。フィルが男性であることを知っても同じ反応をするかもしれない。
「子孫を残したかったら、側室に女性を迎えれば良いんです」くらいのことを、あのサイコパスなら笑顔で言いそうだ。
「あの場では俺が勝負を受ける以外、良策はありませんでした!」
フィルも本物のオフィリアも、子爵位を取り戻すためなら何を犠牲にしても良いと思っているのかもしれないが、その考えも新太からしてみれば稚拙な考えだと思えた。
仮に計画が上手く行ってフィルが子爵位を取り戻したとしても、オフィリアには汚点が残る。
このウェスティア帝国は、戦前の日本もかくやと思えるほど閉鎖的で古い考え方が横行している国家だ。皇太子との婚約破棄という事実を背負ったままのオフィリアが、そんな旧態的な世界で余生を楽しく過ごせるとは考えられない。
そして妹思いの兄であるフィルが、その状況を心苦しく思わないわけがないと新太は気が付いた。
「だけどな――」
「フィル様はオフィリア様が大事なんですよね?」
「……ああ」
煩悶とした表情を浮かべたフィルが弱々しく肯く。
「でしたら、フィル様の性別を明かすのは最終手段です。本気で子爵位を取り戻したいのなら、失うものは少ないに越したことはない。オフィリア様の名誉を保つことも必要です」
怒りを極力抑えようと思って吐き出された新太の言葉は、小さな子どもに言い聞かせるようにゆっくりとした口調になった。
その思いがフィルに通じたのか、気色ばんでいたフィルの顔が落ち着きを取り戻した。けれどその表情はどこか浮かない。
「そのためにお前が巻き込まれるのは良いと言うのか?」
「はい、これは俺が望むことです。俺が勝てばオフィリア様の婚約は解消される。解消された後でオフィリア様ご本人がフィリメス様の生存を明かせば、誰の名誉も傷つけずに済みます」
フィルは新太に対して「新太のことを守る」と言ってくれたが、その思いは新太だって一緒だ。
好きな人を守りたい――という思いに理屈はいらない。
勝負に勝ってランドルフとの結婚を止めたところで、新太とフィルが良い仲になれるわけではない。埋めようのない身分差がある以上、それは叶わない夢だった。
けれど惚れた相手の幸せを守るためならば、新太は命を捧げても惜しくないと思っている。
どうせ一度は死んでいる。死ぬことはもう怖くなかった。
「アラタ、まさかとは思うがお前――」
晴れやかな表情で頷いた新太を見て、フィルがギラついた視線を向けるのを新太は不思議に思いながら見つめた。
「ランドルフに惚れたのか?」
「はぁぁぁぁぁぁ~!?」
突拍子もないフィルの発言に新太は思わず素の反応を示してしまう。
新太がランドルフに恋をしている!? 先ほどのやりとりのどこをどう捉えたらそのような解釈が生じるのだ――と勢いに任せて怒鳴りそうになるのを、新太は唇の端を嚙むことで必死に堪えた。
フィルの性別を知ったとき以来の新太の大声に、御者台にいるバレットが「フィル様、大丈夫ですか?」と声を掛けてきたのは当たり前と言えば当たり前の反応だ。
フィルは御者台に向けて何でもないと言う風に手を振ると、御者台と客室を繋ぐ窓のカーテンをと締め切ってしまう。
気まずい沈黙を破ったのはフィルだった。相変わらずどこか不審そうな目を新太に向けている。
「チェスの勝ち目はほぼないんだろ?」
「そりゃ、百パーセント勝てるかと問われたら自信はないですけど……」
「それに皇太子に言い寄られているとき、お前はまんざらでもない顔をしていたじゃないか! もしかして、皇太子のハーレムに入っても仕方ないと思ってるんじゃないのか……?」
「機嫌を損ねないように気を遣っただけで他意はありません!」
何やら話がおかしな方向に進み始めている。
フィル様だって殿下にエスコートされてるときは俺と同じ反応でしたよね――と反論したところで、火に油を注ぐ結果になるだけろう。
それに拗ねたような表情で新太を見つめるフィルを見ていたら、その言葉を伝えるのはかわいそうな気がしたのだ。
しかし新太のその優しさが裏目に出た。
「なぜあいつの機嫌を取ってやる必要がある? お前は俺のフットマンだろ……!?」
「それは、ランドルフ様が――」
皇太子殿下で機嫌を損ねないに越したことはない相手だからです――という言葉が新太の口から紡がれることはなかった。
新太が反論するよりも先に彼は客室のソファーの上に押し倒されていたからだ。
後頭部を背もたれに強打したことで新太の頭に鈍い痛みが走る。痛みに顔を顰めたのも束の間、新太はすぐにその表情を強ばらせた。
新太の上では、能面のように凍った顔つきのフィルがじっと新太の瞳を凝視していた。いつもは宝石のように明るい色で輝く青い瞳が、今は暗い海の底に沈んだ黒水晶のように鈍く暗い色を放つ。
捕らえた獲物に噛み付かんとする獣のような獰猛な気配を漂わせるフィル。怖い――と新太は初めて感じた。
「俺はこれまで数々不条理に耐えてきた……。そのどれもが辛い経験だったが、爵位を不当に奪われたときも、命を奪われそうになったときも、今は耐えて起死回生のチャンスを待てと自分へ言い聞かせたて来たんだ――」
囁くように呟かれたフィルの言葉はガタガタと揺れる馬車の騒音にかき消され、新太の耳へすべてが入ることはない。それでも彼が何事か不満を漏らしていることは新太にも分かったので、黙ってその成り行きを見守る。
新太の左肩と右腕を押さえるフィルの手へ徐々に力がこもっていく。骨の軋む音が聞こえそうなほど強い力で押さえつけられ、新太の瞳には図らずも涙が滲んだ。
男が怖くて泣くなんてなんて情けないと思いながらも、自分よりも強者に組み敷かれることはえもいわれぬ恐怖だった。
「フィル様……!」
喉奥が恐怖で痙攣するのを感じながらも、新太は縋るような声でフィルの名前を呼んだ。
フィルの瞼が一瞬痙攣したようにピクリと動いたが、新太を見下ろすフィルの視線はなおも冷たい。
「……アラタ、優しくできなくてすまない。でもお前だけは駄目だ――! お前だけは誰にもやらないっ!」
部屋の隅に追い詰められた獣のような情けない、怯えた目つきをフィルがしていた。
どうしてあなたがそんな瞳をする。追い詰められているのは俺の方なのに――と新太は思ったが、その言葉が口から出ることはない。
新太は金縛りに遭ったように動けななくなる。瞳を閉じたフィルが眼前に迫り、その柔らかく艶やかな唇で新太の少しがさつく薄い唇を覆ってしまったから。
「っ――!!」
新太の喉奥から呻き声が上がるがフィルは動じない。それどころか身を捩ってどうにか逃げようとする新太の体をより一層強い力でソファーに縫い止め、新太が抵抗できないようにしてしまう。
最初は新太の唇の感触を確かめるように、フィルがふにふにと唇を押しつけてきた。だが新太の抵抗が弱まったのを合図に、徐々に動きの大胆さが増す。
薄い歯が優しく新太の下唇を嚙み、驚いた新太が僅かに唇を開いた隙に柔らかな舌を新太の口腔内へと押し込んできた。意思を持った生き物のように蠢く舌は新太の歯列を一つ一つ確かめるように優しく這い回り、ビクビクと怯える新太の舌を柔らかく絡みつき愛撫する。
突然の状況に処理が追いつかない新太の脳みそは、ただただフィルから与えられる刺激を頭の中でなぞることで精一杯だった。
フィルを突き放すことも、それでいてフィルが与える刺激に上手く順応することもできないまま、ひたすらに時間が過ぎるのを待つだけ。
珍しく呼吸を乱したフィルが満足して新太から離れていく頃には、新太はすっかり茹で上がってしまっていた。
新太も短距離走を無呼吸で走り終えた後のように、はぁはぁと肩で大きく息をつく。酸素が脳内にも取り込まれたのか、このときになってようやく新太は物を考えられるようになった。
(フィル様はなんでいきなり俺にキスなんか……! それに誰にもやりたくないなんて、フィル様はもしかして俺のことを――?)
自分に都合良く考えてしまいそうになるのを、新太はなけなしの理性で必死に押しとどめた。
きっとこれは事故だ。
新太のフィルに対する好意と、フィルが新太に向ける独占欲がイコールであるわけがない。フィルは新太という玩具をランドルフに取られることが面白くないだけ。
ランドルフに新太を奪われるかもしれないという恐怖が、フィルに擬似的な恋愛感覚を抱かせているだけだろう。いわゆる吊り橋効果というやつだ。
新太はフィルが男だと知った頃から、いやそれよりも前からずっとこの恋が実るわけないと自分に言い聞かせている。その固い盲信が心眼を曇らせる結果に繋がっていることに本人は気が付いていない。
都合の良い妄想をかき消すことに必死で瞳をきつく閉じていた新太が、もしこのとき小さな愛玩動物を見下ろすような甘い瞳で新太を見つめているフィルの存在に気付いていたら――。
結果は少しばかり違うものになっていたかもしれない。
「フィル様、お屋敷に到着しますよ!」
客室で何が行われているかなどまったく知らないバレットの明るい声が響き、ようやく二人とも我に返った。
ギィッギギッ――という鈍い音と共に車輪の回転が止まり、馬車が完全に停止した次の瞬間。急に恥ずかしくなった新太はフィルの体を全力を込めて跳ね除ける。
「アラタ! 待っ……ちなさい!」
再びお嬢様言葉に戻ったフィルが呼び止める声も無視して、新太は一目散にその場から逃げ出した。
馬車の中から主人よりも先にフットマンが出てきたことで、出迎えに控えていたラーディン侯爵家の従者たちの目がこぼれ落ちそうなくらい見開かれている。
自分が従者にあるまじき行動をしていることを理解しながらも、新太は我武者羅に走り続ける。今はただ、フィルのそばにはいたくなかった。
フィルと新太がびしょ濡れになっているのを見て、事情を知らないバレットが大いに慌てる。今は二人して大きな布に包まれたまま、向かい合わせになって馬車に揺られていた。
「アラタ、どうしてあんな挑発を真に受けた――!」
たっぷりと間を置いてから、フィルが唸るように呟く。
お嬢様のふりをしなくてはいけない都合、あの場で本心を曝け出すことは控えていたようだが、フィルが新太とランドルフのやりとりをよく思っていないことは容易に想像が付いた。
美人が怒ると怖いと言うがそれは本当だ。
暑い夏の日、輝く太陽に照らされた地面から陽炎が立ち上るように、フィルの全身からもゆらゆらと靄のような怒気が立ち上っている。フィルの眉間にはくっきりと深い皺が刻まれ、今にも掴みかかってきそうな雰囲気があった。
ここが馬車の中でなければ新太は裸足で逃げ出していただろう。せめて御者台に座ると言い張ったバレットを引き留め、客室の方へ一緒に乗って貰えば良かったと思っても後の祭りだ。
「お前の手助けがなくても、俺はあの場を切り抜けることができた!」
「どうやって?」
「――俺の性別を明かすつもりだった。俺が男だと知れば皇太子も結婚を諦めるはずだろ。俺では子孫を残すことができないんだから」
忌々しげな表情で吐き捨てるようにフィルが呟く。新太の腹底が煮え湯を飲んだようにカッと熱を持った。
「恐れながらフィル様、考えが甘いです……!」
新太が男だという理由で側室になることを断っても、それをものともしなかったランドルフのことだ。フィルが男性であることを知っても同じ反応をするかもしれない。
「子孫を残したかったら、側室に女性を迎えれば良いんです」くらいのことを、あのサイコパスなら笑顔で言いそうだ。
「あの場では俺が勝負を受ける以外、良策はありませんでした!」
フィルも本物のオフィリアも、子爵位を取り戻すためなら何を犠牲にしても良いと思っているのかもしれないが、その考えも新太からしてみれば稚拙な考えだと思えた。
仮に計画が上手く行ってフィルが子爵位を取り戻したとしても、オフィリアには汚点が残る。
このウェスティア帝国は、戦前の日本もかくやと思えるほど閉鎖的で古い考え方が横行している国家だ。皇太子との婚約破棄という事実を背負ったままのオフィリアが、そんな旧態的な世界で余生を楽しく過ごせるとは考えられない。
そして妹思いの兄であるフィルが、その状況を心苦しく思わないわけがないと新太は気が付いた。
「だけどな――」
「フィル様はオフィリア様が大事なんですよね?」
「……ああ」
煩悶とした表情を浮かべたフィルが弱々しく肯く。
「でしたら、フィル様の性別を明かすのは最終手段です。本気で子爵位を取り戻したいのなら、失うものは少ないに越したことはない。オフィリア様の名誉を保つことも必要です」
怒りを極力抑えようと思って吐き出された新太の言葉は、小さな子どもに言い聞かせるようにゆっくりとした口調になった。
その思いがフィルに通じたのか、気色ばんでいたフィルの顔が落ち着きを取り戻した。けれどその表情はどこか浮かない。
「そのためにお前が巻き込まれるのは良いと言うのか?」
「はい、これは俺が望むことです。俺が勝てばオフィリア様の婚約は解消される。解消された後でオフィリア様ご本人がフィリメス様の生存を明かせば、誰の名誉も傷つけずに済みます」
フィルは新太に対して「新太のことを守る」と言ってくれたが、その思いは新太だって一緒だ。
好きな人を守りたい――という思いに理屈はいらない。
勝負に勝ってランドルフとの結婚を止めたところで、新太とフィルが良い仲になれるわけではない。埋めようのない身分差がある以上、それは叶わない夢だった。
けれど惚れた相手の幸せを守るためならば、新太は命を捧げても惜しくないと思っている。
どうせ一度は死んでいる。死ぬことはもう怖くなかった。
「アラタ、まさかとは思うがお前――」
晴れやかな表情で頷いた新太を見て、フィルがギラついた視線を向けるのを新太は不思議に思いながら見つめた。
「ランドルフに惚れたのか?」
「はぁぁぁぁぁぁ~!?」
突拍子もないフィルの発言に新太は思わず素の反応を示してしまう。
新太がランドルフに恋をしている!? 先ほどのやりとりのどこをどう捉えたらそのような解釈が生じるのだ――と勢いに任せて怒鳴りそうになるのを、新太は唇の端を嚙むことで必死に堪えた。
フィルの性別を知ったとき以来の新太の大声に、御者台にいるバレットが「フィル様、大丈夫ですか?」と声を掛けてきたのは当たり前と言えば当たり前の反応だ。
フィルは御者台に向けて何でもないと言う風に手を振ると、御者台と客室を繋ぐ窓のカーテンをと締め切ってしまう。
気まずい沈黙を破ったのはフィルだった。相変わらずどこか不審そうな目を新太に向けている。
「チェスの勝ち目はほぼないんだろ?」
「そりゃ、百パーセント勝てるかと問われたら自信はないですけど……」
「それに皇太子に言い寄られているとき、お前はまんざらでもない顔をしていたじゃないか! もしかして、皇太子のハーレムに入っても仕方ないと思ってるんじゃないのか……?」
「機嫌を損ねないように気を遣っただけで他意はありません!」
何やら話がおかしな方向に進み始めている。
フィル様だって殿下にエスコートされてるときは俺と同じ反応でしたよね――と反論したところで、火に油を注ぐ結果になるだけろう。
それに拗ねたような表情で新太を見つめるフィルを見ていたら、その言葉を伝えるのはかわいそうな気がしたのだ。
しかし新太のその優しさが裏目に出た。
「なぜあいつの機嫌を取ってやる必要がある? お前は俺のフットマンだろ……!?」
「それは、ランドルフ様が――」
皇太子殿下で機嫌を損ねないに越したことはない相手だからです――という言葉が新太の口から紡がれることはなかった。
新太が反論するよりも先に彼は客室のソファーの上に押し倒されていたからだ。
後頭部を背もたれに強打したことで新太の頭に鈍い痛みが走る。痛みに顔を顰めたのも束の間、新太はすぐにその表情を強ばらせた。
新太の上では、能面のように凍った顔つきのフィルがじっと新太の瞳を凝視していた。いつもは宝石のように明るい色で輝く青い瞳が、今は暗い海の底に沈んだ黒水晶のように鈍く暗い色を放つ。
捕らえた獲物に噛み付かんとする獣のような獰猛な気配を漂わせるフィル。怖い――と新太は初めて感じた。
「俺はこれまで数々不条理に耐えてきた……。そのどれもが辛い経験だったが、爵位を不当に奪われたときも、命を奪われそうになったときも、今は耐えて起死回生のチャンスを待てと自分へ言い聞かせたて来たんだ――」
囁くように呟かれたフィルの言葉はガタガタと揺れる馬車の騒音にかき消され、新太の耳へすべてが入ることはない。それでも彼が何事か不満を漏らしていることは新太にも分かったので、黙ってその成り行きを見守る。
新太の左肩と右腕を押さえるフィルの手へ徐々に力がこもっていく。骨の軋む音が聞こえそうなほど強い力で押さえつけられ、新太の瞳には図らずも涙が滲んだ。
男が怖くて泣くなんてなんて情けないと思いながらも、自分よりも強者に組み敷かれることはえもいわれぬ恐怖だった。
「フィル様……!」
喉奥が恐怖で痙攣するのを感じながらも、新太は縋るような声でフィルの名前を呼んだ。
フィルの瞼が一瞬痙攣したようにピクリと動いたが、新太を見下ろすフィルの視線はなおも冷たい。
「……アラタ、優しくできなくてすまない。でもお前だけは駄目だ――! お前だけは誰にもやらないっ!」
部屋の隅に追い詰められた獣のような情けない、怯えた目つきをフィルがしていた。
どうしてあなたがそんな瞳をする。追い詰められているのは俺の方なのに――と新太は思ったが、その言葉が口から出ることはない。
新太は金縛りに遭ったように動けななくなる。瞳を閉じたフィルが眼前に迫り、その柔らかく艶やかな唇で新太の少しがさつく薄い唇を覆ってしまったから。
「っ――!!」
新太の喉奥から呻き声が上がるがフィルは動じない。それどころか身を捩ってどうにか逃げようとする新太の体をより一層強い力でソファーに縫い止め、新太が抵抗できないようにしてしまう。
最初は新太の唇の感触を確かめるように、フィルがふにふにと唇を押しつけてきた。だが新太の抵抗が弱まったのを合図に、徐々に動きの大胆さが増す。
薄い歯が優しく新太の下唇を嚙み、驚いた新太が僅かに唇を開いた隙に柔らかな舌を新太の口腔内へと押し込んできた。意思を持った生き物のように蠢く舌は新太の歯列を一つ一つ確かめるように優しく這い回り、ビクビクと怯える新太の舌を柔らかく絡みつき愛撫する。
突然の状況に処理が追いつかない新太の脳みそは、ただただフィルから与えられる刺激を頭の中でなぞることで精一杯だった。
フィルを突き放すことも、それでいてフィルが与える刺激に上手く順応することもできないまま、ひたすらに時間が過ぎるのを待つだけ。
珍しく呼吸を乱したフィルが満足して新太から離れていく頃には、新太はすっかり茹で上がってしまっていた。
新太も短距離走を無呼吸で走り終えた後のように、はぁはぁと肩で大きく息をつく。酸素が脳内にも取り込まれたのか、このときになってようやく新太は物を考えられるようになった。
(フィル様はなんでいきなり俺にキスなんか……! それに誰にもやりたくないなんて、フィル様はもしかして俺のことを――?)
自分に都合良く考えてしまいそうになるのを、新太はなけなしの理性で必死に押しとどめた。
きっとこれは事故だ。
新太のフィルに対する好意と、フィルが新太に向ける独占欲がイコールであるわけがない。フィルは新太という玩具をランドルフに取られることが面白くないだけ。
ランドルフに新太を奪われるかもしれないという恐怖が、フィルに擬似的な恋愛感覚を抱かせているだけだろう。いわゆる吊り橋効果というやつだ。
新太はフィルが男だと知った頃から、いやそれよりも前からずっとこの恋が実るわけないと自分に言い聞かせている。その固い盲信が心眼を曇らせる結果に繋がっていることに本人は気が付いていない。
都合の良い妄想をかき消すことに必死で瞳をきつく閉じていた新太が、もしこのとき小さな愛玩動物を見下ろすような甘い瞳で新太を見つめているフィルの存在に気付いていたら――。
結果は少しばかり違うものになっていたかもしれない。
「フィル様、お屋敷に到着しますよ!」
客室で何が行われているかなどまったく知らないバレットの明るい声が響き、ようやく二人とも我に返った。
ギィッギギッ――という鈍い音と共に車輪の回転が止まり、馬車が完全に停止した次の瞬間。急に恥ずかしくなった新太はフィルの体を全力を込めて跳ね除ける。
「アラタ! 待っ……ちなさい!」
再びお嬢様言葉に戻ったフィルが呼び止める声も無視して、新太は一目散にその場から逃げ出した。
馬車の中から主人よりも先にフットマンが出てきたことで、出迎えに控えていたラーディン侯爵家の従者たちの目がこぼれ落ちそうなくらい見開かれている。
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