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一話
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……いた!
前から3両目、右側2番目のドア。
人波に押されて電車に乗り込みながら、いつもの場所を確認する。
そして、今日の私のポジションは……、失敗かも?
見えるけどあまり近くないところを狙っているのに、すぐ目の前。
……どうしよう……。
カバンから単語カード取り出す。
もちろん暗記に集中なんてできないけれど、
こんな近くで見ていたらすぐにばれてしまう。
単語カードを見ながら、彼が読んでいる本の背表紙を、ちらちらと盗み見た。
やった! 受験対策用の暗記ブック。同い年だ。
喜んだのも束の間、すぐに淋しさが押し寄せてくる。
つまり、こうして同じ電車に乗れるのも、あと少しなんだ……。
彼のいつもの制服姿を、忘れないように確認していく。
単語カード越しに見える黒のローファー。
制服のズボンはグレーで、上着とカバンは紺色。
手には必ず本を持っていて、それを見つめる瞳はいつだって真剣で……。
心臓がどきんと跳ねた。
いけない。見つめたらだめ。
慌てて視線を単語カードに戻す。
いつも真剣に本を読んでいるから、視線が合いそうになったこともないけれど……。
私が初めて彼に気づいたのは、もう一年近くも前だ。
彼は表紙に黄色い花の写真が使われた本を、熱心に読んでいて、驚いた。
それは、ちょうど私も読んでいる本だったから。
しかも普通の小説などではなくて、がん終末期の方をホスピスの看護師さんが書いた本。
思わず見つめていたことに気がついて、慌てて窓から外を見た。
小さな空き地にびっしりと咲く黄色いたんぽぽを、何故だかよく覚えている。
それからは、電車で時々彼に気づくようになった。
もう一度読む本がかぶることがあって、何だかうれしかった。
猛暑が続くある日、電車に杖をついてよろよろと歩く白髪の男性が乗ってきた。
私はドアの近くで立っていて、何だか危なっかしい感じがした。
彼は長いシートのやや向こう側に座っていたけれど、すぐに立ち上がって席を譲った。
いつも本だけを見ているようなのに、どうして気づけたのか不思議で驚いた。
彼が本を開くときの癖に気づいたのは、いつだったろう。
背表紙から外周りを指先ですっとたどり、最後に表紙を優しく撫で下ろして、開く。
手慣れていてほんの二、三秒で終わる動きだけれど、気がついたら気になった。
自分で真似してみると、本を大事に思ってやっているとわかった気がした。
いつの間にか彼を探すようになっていた。
朝の電車の定位置や帰りに会いやすいタイミングを覚えてしまった。
できれば話してみたいのにきっかけがつかめない。
どうしたらいいのか、私にはわからなかった……。
ふいに、彼が咳払いをした。
少しするとまた軽く咳き込む。
つらそうな咳ではないけれど、途切れながらも続くのが気になった。
彼も私も受験生。入試は目前だ。
彼の体調も気になるし、私自身も今風邪をひくのは困る。
私が行きたいのは国立大学の医学部。学力はぎりぎりで余裕などない。
また少し咳き込む。
腕を口元にあてて周りを気遣ってはいるけれど、良くないなと思った。
マスク、持ってないのかな?
私のをあげるかどうか考えてみた。
おかしくないよね?
咳エチケットは大切。
彼も気にしているみたいだし……。
カバンから予備のマスクを取り出そうとしたら、電車が減速を始めた。
駅に停まってドアが開く。新たな乗客が乗り込んできた。
私と彼の間には、腰の曲がった明らかに高齢の女性が入り込む。
彼との距離が離れた――マスク、渡しにくくなっちゃった。
でも……。
間に入ったのは高齢の方。
風邪をひくのはなおさらまずい。
高齢者は肺炎になりやすいのだから……。
私は肺炎にかかったことがある。
たぶんまだ小学校にあがる前、本当に幼い頃だったけれど、覚えている。
――怖かったのだ。
咳が止まらない。
それなのに、咳をするたびに胸が痛くてつらい。
痰が喉に張り付いて、頑張って咳をしてもとれない。気持ち悪い。
吐き気がして苦しくて……。
寝ても起きても、喉がつまってうまく息ができなかった。
このまま自分は死んでしまうのだと真剣に思った。
つらくて怖くてたまらないとき、看護師さんが背中をずっとさすっていてくれた。
何かをゆっくり話してくれていたと思う。内容は覚えていない。
静かで優しい言葉を聞くうちに、死んでしまうという恐怖が少しずつ遠のき、
絶対治るから大丈夫と思えるようになった。安心できた。
そうしたら少しだけれど、苦しさも減ったのだと思う。
医療系に進みたいと思った一つのきっかけは、この経験だと思う。
私もこんな風に誰かの助けになりたい、そう思ったから……。
少し離れたけれど、まだ手は届く。
彼にどう思われるかなんて、考えている場合ではない。
風邪がうつったりしないように、できることがあるならしたい。
私はカバンから予備のマスクを取り出した。
「これ、良かったら使って下さい」
言おうとした瞬間、おばあさん自身が大きく咳き込み始めた。
突然のことに驚いて固まる。
大丈夫……?
おばあさんは、激しく咳き込み続けている。
私はすぐに対応できなかった。
手にマスクを持ったまま様子を心配したけれど、どうしたらいいのかわからない。
背中をさすってあげたら楽になる? いきなりは失礼かな?
あまりに苦しそうだからと手を伸ばしかけたとき、隣にいた女性がすっと動いた。
「大丈夫ですか? どうぞ寄りかかって」
ためらいなく背中をさすりながら介護する。
咳き込みは少し治まった。
私も、こんな風に自然に助けられるようになりたい……。
そう思いながら伸ばしかけた手を引く一瞬、彼と目が合った。
あ、彼もだ……。
様子から、同じように手を伸ばしかけていたのだとわかった。
彼も気づいたのだろう。ちらっと微笑んでくれた。
「あの、これ。……良かったら」
マスクを差し出す。
差し出してから、自分の行動に驚いた。
彼は驚いた顔でしばらくマスクを見つめる。
「……ありがとう」
もう一度微笑んで受け取り、会釈を返してくれた。
話せたのはたった一言だけ。
あの後、電車ではもう会えなかった。
彼は受験、大丈夫だったのだろうか……。
私は志望大学に無事合格して、もうすぐ入学式を迎える。
満開の桜並木の遠く向こうに小さく彼が見えたような気がして、
束の間あの日のことを思い出していた。
一緒に来た父は、隣で桜を見上げて物想いにふけっている。
私も、うちの山桜とそれを見つめる曽祖父の横顔を思い浮かべた。
「大じいちゃん、これでいい? これからだよね!」
まるで答えるかのように、桜の花びらが舞い降りた。
前から3両目、右側2番目のドア。
人波に押されて電車に乗り込みながら、いつもの場所を確認する。
そして、今日の私のポジションは……、失敗かも?
見えるけどあまり近くないところを狙っているのに、すぐ目の前。
……どうしよう……。
カバンから単語カード取り出す。
もちろん暗記に集中なんてできないけれど、
こんな近くで見ていたらすぐにばれてしまう。
単語カードを見ながら、彼が読んでいる本の背表紙を、ちらちらと盗み見た。
やった! 受験対策用の暗記ブック。同い年だ。
喜んだのも束の間、すぐに淋しさが押し寄せてくる。
つまり、こうして同じ電車に乗れるのも、あと少しなんだ……。
彼のいつもの制服姿を、忘れないように確認していく。
単語カード越しに見える黒のローファー。
制服のズボンはグレーで、上着とカバンは紺色。
手には必ず本を持っていて、それを見つめる瞳はいつだって真剣で……。
心臓がどきんと跳ねた。
いけない。見つめたらだめ。
慌てて視線を単語カードに戻す。
いつも真剣に本を読んでいるから、視線が合いそうになったこともないけれど……。
私が初めて彼に気づいたのは、もう一年近くも前だ。
彼は表紙に黄色い花の写真が使われた本を、熱心に読んでいて、驚いた。
それは、ちょうど私も読んでいる本だったから。
しかも普通の小説などではなくて、がん終末期の方をホスピスの看護師さんが書いた本。
思わず見つめていたことに気がついて、慌てて窓から外を見た。
小さな空き地にびっしりと咲く黄色いたんぽぽを、何故だかよく覚えている。
それからは、電車で時々彼に気づくようになった。
もう一度読む本がかぶることがあって、何だかうれしかった。
猛暑が続くある日、電車に杖をついてよろよろと歩く白髪の男性が乗ってきた。
私はドアの近くで立っていて、何だか危なっかしい感じがした。
彼は長いシートのやや向こう側に座っていたけれど、すぐに立ち上がって席を譲った。
いつも本だけを見ているようなのに、どうして気づけたのか不思議で驚いた。
彼が本を開くときの癖に気づいたのは、いつだったろう。
背表紙から外周りを指先ですっとたどり、最後に表紙を優しく撫で下ろして、開く。
手慣れていてほんの二、三秒で終わる動きだけれど、気がついたら気になった。
自分で真似してみると、本を大事に思ってやっているとわかった気がした。
いつの間にか彼を探すようになっていた。
朝の電車の定位置や帰りに会いやすいタイミングを覚えてしまった。
できれば話してみたいのにきっかけがつかめない。
どうしたらいいのか、私にはわからなかった……。
ふいに、彼が咳払いをした。
少しするとまた軽く咳き込む。
つらそうな咳ではないけれど、途切れながらも続くのが気になった。
彼も私も受験生。入試は目前だ。
彼の体調も気になるし、私自身も今風邪をひくのは困る。
私が行きたいのは国立大学の医学部。学力はぎりぎりで余裕などない。
また少し咳き込む。
腕を口元にあてて周りを気遣ってはいるけれど、良くないなと思った。
マスク、持ってないのかな?
私のをあげるかどうか考えてみた。
おかしくないよね?
咳エチケットは大切。
彼も気にしているみたいだし……。
カバンから予備のマスクを取り出そうとしたら、電車が減速を始めた。
駅に停まってドアが開く。新たな乗客が乗り込んできた。
私と彼の間には、腰の曲がった明らかに高齢の女性が入り込む。
彼との距離が離れた――マスク、渡しにくくなっちゃった。
でも……。
間に入ったのは高齢の方。
風邪をひくのはなおさらまずい。
高齢者は肺炎になりやすいのだから……。
私は肺炎にかかったことがある。
たぶんまだ小学校にあがる前、本当に幼い頃だったけれど、覚えている。
――怖かったのだ。
咳が止まらない。
それなのに、咳をするたびに胸が痛くてつらい。
痰が喉に張り付いて、頑張って咳をしてもとれない。気持ち悪い。
吐き気がして苦しくて……。
寝ても起きても、喉がつまってうまく息ができなかった。
このまま自分は死んでしまうのだと真剣に思った。
つらくて怖くてたまらないとき、看護師さんが背中をずっとさすっていてくれた。
何かをゆっくり話してくれていたと思う。内容は覚えていない。
静かで優しい言葉を聞くうちに、死んでしまうという恐怖が少しずつ遠のき、
絶対治るから大丈夫と思えるようになった。安心できた。
そうしたら少しだけれど、苦しさも減ったのだと思う。
医療系に進みたいと思った一つのきっかけは、この経験だと思う。
私もこんな風に誰かの助けになりたい、そう思ったから……。
少し離れたけれど、まだ手は届く。
彼にどう思われるかなんて、考えている場合ではない。
風邪がうつったりしないように、できることがあるならしたい。
私はカバンから予備のマスクを取り出した。
「これ、良かったら使って下さい」
言おうとした瞬間、おばあさん自身が大きく咳き込み始めた。
突然のことに驚いて固まる。
大丈夫……?
おばあさんは、激しく咳き込み続けている。
私はすぐに対応できなかった。
手にマスクを持ったまま様子を心配したけれど、どうしたらいいのかわからない。
背中をさすってあげたら楽になる? いきなりは失礼かな?
あまりに苦しそうだからと手を伸ばしかけたとき、隣にいた女性がすっと動いた。
「大丈夫ですか? どうぞ寄りかかって」
ためらいなく背中をさすりながら介護する。
咳き込みは少し治まった。
私も、こんな風に自然に助けられるようになりたい……。
そう思いながら伸ばしかけた手を引く一瞬、彼と目が合った。
あ、彼もだ……。
様子から、同じように手を伸ばしかけていたのだとわかった。
彼も気づいたのだろう。ちらっと微笑んでくれた。
「あの、これ。……良かったら」
マスクを差し出す。
差し出してから、自分の行動に驚いた。
彼は驚いた顔でしばらくマスクを見つめる。
「……ありがとう」
もう一度微笑んで受け取り、会釈を返してくれた。
話せたのはたった一言だけ。
あの後、電車ではもう会えなかった。
彼は受験、大丈夫だったのだろうか……。
私は志望大学に無事合格して、もうすぐ入学式を迎える。
満開の桜並木の遠く向こうに小さく彼が見えたような気がして、
束の間あの日のことを思い出していた。
一緒に来た父は、隣で桜を見上げて物想いにふけっている。
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