Strain:Cavity

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Chapter 2 The [C]apricious

Act11:天には星がなければならない。大地には花がなければならない。そして、人間には愛がなければならない

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 アルヴァーロは親の愛を知らずに育った。

 唯一の肉親は、父親だった。母親は知らない。物心ついた時には既にいなかった。父も母のことは一度も語らなかった。

 父は、父というよりも単なる教育者だった。彼が敵地で帰らぬ人となるまでの18年間を共に過ごしたが、父から教わったのは殺しの技術と殺し屋としての精神の有り様だけで、普通の家庭での父子関係とは全く異なる間柄だった。────もっとも、アルヴァーロが“普通の家庭”を知ったのは、父が亡くなってからだったが。

 父が死んだと知った時、アルヴァーロは悲しみを感じなかった。代わりに、これからは自分一人で仕事をこなさなければならないのだと、そんなことを考えた。だから、あの後父が死んだ地に赴いて敵を屠ったのは、ただ父が残した依頼を代行しに行っただけのことだった。そこに報復の意はなく────ただ、相手は同じ髪と目の色をした若き殺し屋を見て、報復だと思ったかもしれないが────本当にそれは、ただのアルヴァーロにとっての単騎での初仕事に過ぎなかった。



 寒夜の下、星々を見上げながらアルヴァーロはワイングラスを片手にテラスにいた。妻子たちは寝静まり、屋敷は静かだった。

 コツコツと、足音が近付いてきた。静かな気配に、アルヴァーロは振り向かないで言う。

「────エイダか」

「はい。旦那様」

「いつも世話をかけてすまない」

 アルヴァーロは椅子越しに振り返ると、ワイングラスを揺らす。

「お前もどうだ」

「……えぇ。ではお言葉に甘えて」

 エイダは静かに歩いて来ると、空いている椅子に座った。用意されていた空いているグラスに、アルヴァーロはワインを注ぐ。

「良い夜でございますね」

「そうだな。……帰って来てからお前とロクな話が出来てなかった。何か変わったことはなかったか」

 エイダ・ホーキンスはビアンキ家に仕える使用人である。この家で唯一アルヴァーロの正体を知っている。と言うのも、彼女自身もまたその道の人間だからだ。

「屋敷は至って平和でございました。旦那様が心配されるようなことは何も」

「そうか。それは良かった。……本当は、俺がウィリアムたちのことも見守ってやらないといけないんだけど……」

「旦那様の仕事は簡単に放棄して良いものではございません。裏社会の秩序は旦那様によって保たれております。家のことはどうか私めに」

「……助かるよ」

 とはいえ、父親としての責務を果たせていないのは、アルヴァーロにとって歯痒かった。アルヴァーロ自身、それがどういうものなのかは、よく分かっていないのだが。

「…………俺は良い父親ではいられていない、よな」

 ぼそりとアルヴァーロはそう呟いた。エイダがこちらを向く。

「良い父親というものが……何を指すのかは私にも分かりませんが。少なくとも、旦那様はお子様たちを愛していらっしゃる」

「…………」

「そうでしょう?」

「……そうだ。俺は、メアリーのことも、ウィリアムのことも、ギルバートのことも……愛してる。誰よりも、大好きだ。この手で守りたい」

 妻のメアリーは、アルヴァーロが初めて愛した人だった。たまたま仕事が重なって、長居した町で出会った。たまたま見つけたカフェを気に入って……メアリーもそこの常連客だった。

 初めは彼女からのアプローチだったが、次第にアルヴァーロも心惹かれて行った。初めての経験だった。その時、商社の営業マンだと名乗って、今でもそういうことになっている。家を空けるのは営業の出張だということに……。

 彼女は人のことを深くは詮索しない性分だった。だからアルヴァーロも彼女を気に入ったのかもしれない。それはきっかけに過ぎない。今は、彼女の笑顔を見るだけで幸せな気持ちになる。

(……メアリーのお陰で、俺は人間になれたんだ)

 それまではただの獣だった。彼女と出会ってその感情を見つけた時、アルヴァーロは初めて人間になれたとそう思う。

 それからしばらくして、結婚して、ウィリアムが生まれた。命を奪うばかりだった自分が、命を育むことに感動を覚えた。ウィリアムが生まれてしばらくはずっと家にいた。自分によく似たその幼子が、次第に成長して行く様子はとても愛おしかった。

「ウィリアムたちは……本当に大きくなった」

「ええ。そうですね」

「俺はあの子たちを俺のようには育てなかった」

 殺し屋という家系を断つ。たとえ、それがやがて裏社会に波乱を招くことになったとしても、愛する幼子たちの“普通”の未来を守ることを選んだ。ただその代わりに、アルヴァーロは誠実さを失った。勿論、家族への感情に嘘偽りはないが────自身の正体を、最も身近な人間たちに黙っている。

 今、仕事に連れている二人の青年のことを思う。息子たちをこの道に連れて来ていたら、隣にいたのは彼らではなく────。

「……ウィリアムたちは幸せでいてくれているのだろうか」

 彼らの為に選んだことだ。それなのに、アルヴァーロは悩んでいる。この家に帰って来る度に、ただの人に戻る一方で仕事への緊張も高まる。自分が何かしくじれば、家族に危険が及ぶかもしれない。だから、アルヴァーロはターゲットに報復の隙を与えない。目撃者も一人残らず消す。血生臭い己の生に、愛する家族の前から時折逃げ出したくなる。

「……らしくありませんね旦那様。いえ、“白の冥王”様。あなたほどの強さであれば、何も悩むことなく全てを守れるでしょう」

「…………そういうことじゃないんだ。ただ────」

 殺し屋はやめられない。自分がこの立場だからこそ守られているものがある。裏社会も、そして家族もだ。何より、自分が拾った彼らを捨て置けない。でも、それでも時折、ふと考えてしまうのだ。

「俺は“人間”になるべきじゃなかったんじゃないかって────」

 家族に己の本性を知られることが、とても恐ろしい。愛する家族に拒絶されることが、たまらなく恐ろしい。そんな思いをするくらいなら、いっそ。自分がこの感情を持つことが間違いだったんじゃないかとさえ思うのだ。

「…………旦那様。今夜は酷く感傷的になっておられる」

 エイダの声は静かだった。慰めるでも、責めるでもなく、感情の波のない凪のような声だった。

「私どもは、冷たき獣でございます。しかし、守るべき者のために流す血と涙だけは持っているのです」

「…………」

「旦那様がお帰りになった時の奥様と坊ちゃんたちをご覧になったでしょう。誰も貴方を疎んではおりません」

 アルヴァーロはただ夜空を見ている。幾千幾万もの星々がそこに煌めいていた。

「無論私もです」

「……お前を俺の都合で、この家に縛りつけているのに?」

「私は、先代に拾われなければ今この世には無い命でございます」

 エイダはアルヴァーロの父がいつかどこからか拾って来て、アルヴァーロの相棒となるように育てられた暗殺者だ。その時エイダは12歳だった。彼女のそれまでについてはアルヴァーロもよく知らない。どこかの組織にいたのか、暗殺者としての技能は現れた当時から持っていた。そんな彼女はアルヴァーロよりも4つ歳上だが、アルヴァーロの父に拾われたことを恩義に感じているのか、その息子であるアルヴァーロのことも“旦那様”と呼び慕い、今こうしてビアンキ家の使用人として振る舞っている。

「私は、良かったと思っているのです。貴方様に信頼されて、この家を任されていることを。私の血に塗れた生が、誰かの役に立つことを。ですから、ご心配なさらず」

 その言葉を嘘だとは思わなかった。アルヴァーロはフッと笑う。

「……そうか」

「此度はいつまでおられるのです」

「一週間ほど。待たせてる人たちがいるからね。……彼らのことも放っておけないし」

「外にも大切な人がおられるのですね」

「あぁ。皆んなに会わせられないのが残念だけど」

 彼らは大丈夫だろうか。まだ仲は良くなさそうだったが、ルチアーノのことだ。なんだかんだリアンと上手くやっているだろう。

「……彼らの話を、してもいいかい」

「ええ。聞きましょう」

 本来ならば、父の思惑通りならば。エイダはこの家ではなく殺し屋として己と共に飛び回っていたのだろう。女を連れて来た以上、父はきっとエイダをアルヴァーロの伴侶にするつもりだった。

 でも、エイダもアルヴァーロもその気がなかった。エイダはあくまで従者として付き従ってくれているし、アルヴァーロがメアリーを連れて来た時も何も言わなかった。彼女が裏社会の人間じゃないと知っても、アルヴァーロを咎めなかった。それどころか、その彼女たちを守ってくれているエイダに、アルヴァーロは今、共に旅をしている青年たちの話をした。それを聞いているエイダの顔は相変わらず無表情だったが、どこか嬉しそうにも見えた。



* * *



 翌日。太陽が昇るよりも前に、アルヴァーロは目を覚ます。睡眠時間は短いが、頭はハッキリとしている。これも鍛えられたものだ。体を起こしてベッドから脚を下ろし、うんと伸びをした。



 静かに扉を開けて、静かに廊下に出た。

「……?」

 アルヴァーロは一室の扉が半開きになっているのに気がついた。ウィリアムの部屋だ。中を覗く。

(……いない?)

 部屋の中に気配がない。眉をひそめる。こんな早朝に目覚めるなんて。親を起こしもせずに一人で起きていることが気になる。エイダもまだ起きてはいないはずだ。もう少ししたら起きてくるだろうが……。

 アルヴァーロは怪訝に思ってウィリアムの部屋の扉を閉め、息子の姿を探しに行った。



* * *



「ここにいたのか」

「!」

 広い庭の片隅で、茂みの前にうずくまっていた小さな姿が肩を震わせる。寝巻きのままそこにいたウィリアムは、恐る恐るこちらを振り向いた。

「……父さん」

「こんな朝っぱらから何をしてるんだ、そんなところで」

「…………」

 ウィリアムはふるふると首を振り、こちらを向いて何かを庇うような動作をする。

「……何にもいない……なんでもないよ」

「? 何かいるのか」

 そう言った時に、か細い声がしてウィリアムの足元から何かが出て来た。

「あっ! だめだよ」

 そのふわふわとした毛玉をウィリアムは抱き上げる。彼の両手ほどしかないそれは、薄汚れた白い仔猫だった。

「……猫の世話をしていたのか」

「お、お願い、父さん。捨てないで」

 仔猫はウィリアムの手の中でピャーピャーと鳴いている。よく見ると右目が潰れている。カラスにでも突かれたのか、いずれにせよその怪我が原因で親にも見捨てられたのかもしれない。

「…………おいでウィリアム。その子を病院に連れて行こう」

「えっ」

「大丈夫。捨てたりしないよ」

 アルヴァーロは微笑む。ウィリアムは仔猫を抱えたまま寄ってくる。

「……ほんとに?」

「寒い中外に置いておくのは可哀想だろう。……やぁ、強い子だね。よく耐えた」

 指先でアルヴァーロは仔猫の頭を撫でる。少しの力で壊れてしまいそうなか弱い命だ。ウィリアムは家から魚などを勝手に持ち出してあげていたようだが、それでも痩せている。

「いつからここに?」

「一週間くらい前から……。ねえ、この子元気になるかな」

「なるよ。きっとね。とりあえず体を洗ってあげようか。病院が開くまでにはまだ時間があるし……」

 ウィリアムは心配そうに手の中の仔猫を見ている。白い仔猫はじたばたとその中で暴れている。

「暴れる元気があるなら大丈夫さ。さ、お前も風邪を引くよ」

「うん……」

 安心したようにウィリアムは笑うと、アルヴァーロと身を寄せて歩き出す。心優しい子に育ったものだと、アルヴァーロは嬉しく思った。自分がこの齢の頃は、他の生命への関心などなかった。そういう風に育てられたからだ。だが、そうしなかったこの子はこうして人の心を持っている。だから、アルヴァーロは安堵した。自分は間違っていなかったと。



* * *



 仔猫をタオルを敷いた段ボール箱に入れ、ミルクを温めているとやがてギルバートとメアリーが起きて来た。

 四人で箱の中の仔猫がミルクを舐める様子を見る。ギルバートも甚くその仔猫を気に入ったようだった。

「可愛い猫さんねえ」

 メアリーがそう言って微笑む。

「ねぇ兄さん、なまえは?」

「名前……どうしよう」

 箱を覗きながらウキウキした様子で言う弟に、ウィリアムはうーんと考えた。まだミルクを舐めている仔猫を両手で抱き上げ、鳴きながらじたばたするその顔を見て言う。

「じゃあ……ポラリスだね」

「どうして?」

「おめめが、お星さまみたいできれいだから」

 仔猫の目は、片方は潰れてしまっているが、残っているもう片方は綺麗な金色をしていた。なるほど、と子の感性にアルヴァーロは感心した。

「よろしくポラリス」

 仔猫は一生懸命残っているミルクへ戻ろうとしていた。ウィリアムは笑いながら仔猫を戻した。

「食いしんぼうだなあ」

「この調子なら、獣医に見て貰えばすぐ治って元気になりそうだね」

「食いしんぼうなことと関係あるの?」

「あるさ。よく食べればよく育つし、怪我もすぐ治る」

 小さな頭を、アルヴァーロは指で撫でた。耳が邪魔だというように跳ねる。

「あっという間に大きくなりそうだな。俺はこの子の成長を多分見てやれないけど……お前、大事にしてやるんだぞ」

「うん」

 ウィリアムは大きな笑みを浮かべて頷いた。ギルバートもわくわくしたような目をしていた。

「ぼくたちでお世話しようね、兄さん」

「うん」

 そんな兄弟の様子を、アルヴァーロとメアリーはにこにことしながら眺めていた。



* * *



 あっという間に一週間が経った。帰って来てから七日目の真夜中に、アルヴァーロはいつもの白コートを羽織り玄関に立つ。

「ご出立でございますか」

 エイダが闇の中から現れる。足元にはすっかり元気になってふわふわとしたポラリスがいた。

「おや、お前さんも来たのかい」

 アルヴァーロが笑って屈むと、ポラリスがその指に擦り寄る。

「旦那様に懐いておられますね」

「不思議だね。君は俺が怖くないのかい?」

 この子はすぐに人に馴れた。だが、子どもたちにはまだ大人しく触られない。抱っこの仕方が乱暴なのか、何かが気に食わないらしい。アルヴァーロやメアリー、エイダにはよく懐いている。

「よしよし。ウィリアムとギルバートのことを頼んだよ」

 仔猫はゴロゴロと喉を鳴らす。動物は相手の本質をよく見抜くと言うから、アルヴァーロは嫌われることも覚悟していたのだが。

 アルヴァーロは立ち上がると、エイダに微笑む。

「あまり長くいられなくて悪いね。待たせてる子達がいるから……」

「ええ、分かっています。こちらのことは心配なさらずに」

 一人の時はもう少しのんびりしていた。だけど、今はそういうわけにはいかない。夜に出発するのは前からの習慣だ。家族に見送られると、足が重くなってしまうから。

「それじゃあエイダ、また」

「はい。お気を付けて。お戻りをお待ちしております」

 深々と頭を下げるエイダ。アルヴァーロは踵を返して足音なくエントランスを出て行く。冷たい夜風に白いコートが飜る。そこに在るのは一人の父親ではなく、裏社会で恐れられる“白の冥王”その人だった。





* * *



 朝、目覚めてリビングにやって来たルチアーノは、その姿を見付ける。

「……帰ってたんですか」

「うん。ただいま」

 ソファで新聞を読んでいたアルヴァーロが顔を上げる。ルチアーノが残しておいたこの七日間のローカル新聞だった。

「一言声掛けて下さったらいいのに……」

「起こしちゃいけないと思ってね。リアンは?」

「まだ寝てると思いますけど」

「そっか。……何もなかった? 大丈夫?」

 眉をハの字にするアルヴァーロに、ルチアーノは答える。

「……問題ありません」

「あ、嘘だ。間があったし、目を逸らしたね」

「…………何かはありましたけど、問題はありません」

「そう。ならいいけど」

「……聞かないんですね?」

「お前が大丈夫って言うなら大丈夫だ。俺はお前を信頼出来ないほどガキだとは思ってないよ」

「…………」

 そう言われて、ルチアーノは口を引き結ぶ。緩みそうになった表情筋を縛りつける。

「可愛い奴だね」

「……アルヴァーロさんの方は。ちゃんとご家族と過ごせたんですか」

「うん。そうだ、家族が増えたんだよ」

「え、そうなんですか」

「うん。真っ白な仔猫だ。お前みたいに片目が無いんだ」

 アルヴァーロは嬉しそうにそう言った。ルチアーノは思わず右目を抑える。

「……まさか名前……」

「あぁそれはないよ」

「ですよね」

 はぁ、とため息を吐いてから自意識過剰だったかと恥ずかしくなる。と、その様子を見てかアルヴァーロは膝に頬杖をついて笑う。

「お前を猫と一緒になんかしないよ。それに、名前は俺の息子が付けた」

「なんて?」

「ポラリス。目が星みたいに綺麗だからって言ってた」

 そう言って、アルヴァーロはルチアーノの顔をじっと見る。

「……何です」

「いや。お前の目は何みたいだろうと思って……」

「猫と一緒にしないんでしょう」

「…………うん、そうだな」

 アルヴァーロはそう言って頷いた。

「さてと。腹減ってるだろ。何か作ろう」

「あぁ、はい。リアンの奴も起こして来ますね」

「うん、頼むよ」

 ルチアーノはリアンの寝ている部屋へ向かった。その背中を目で見送り、アルヴァーロはソファから立ち上がってうんと体を伸ばす。また日常に戻る。─────そうだ、日常だ。自分にとっては、嘘偽りないこちらの生活の方が日常だった。愛おしい非日常に別れを告げて。親愛なる継承者たちと共に、冥王はまた歩み始めるのだった。



#11 END
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