願わくは

春想亭 桜木春緒

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兄と妹

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 その朝。
 宿を出た時には、まだ吐息が白いほど、寒かった。
「またおいでくださいまし」
 女将の挨拶を受けながら、真希子は友祐の後に続いて歩き出した。
 友祐の外套を借りて着ている。
 背の高い彼の外套は、真希子にはくるぶしを覆うほど大きい。温かい。
 見送りの人の目も届かない頃、友祐が真希子に手を差し伸べた。
 濃紺の軍装に、白い手袋。
 真希子の手を取る前に、友祐は手袋を外した。柔らかな掌の感触を、直に感じたかったからだ。

 海が見える。
 昼前の光に、水面が輝いている。風はない。凪のさざ波が、きらきら、光と共に穏やかな音色を耳に届ける。
 梅がどこかで咲いている。
 甘い香りが幽かに漂っていた。
 
 友祐の腰のベルトには短剣が吊り下げられている。
 恩賜のものかと、真希子が訊いた。違う、と友祐は答えた。
 普段、友祐が身につけているのは恩賜の短剣ではない。大切なそれは、父親に預けて大切に保管してもらっている。
 友祐が海軍兵学校を卒業するときのハンモックナンバー、つまり成績の席次は上から六番目だった。優秀な卒業者数名には、天皇陛下から短剣が下賜される。
 友祐は、その年に恩賜の短剣を授かった、いわゆる「恩賜組」の一人だった。

「……ああ」
 真希子が不意にため息をついた。
 左の手を友祐に預け、右の手で顔を覆った。
「申し訳ありません」
 松林の中、木々の隙間から太陽が差す。
 早春の光が、涙を流す真希子を、美しく彩っている。
「私は何と愚かなことをしてしまったのでしょう。貴方を、どうして私のわがままに巻き込んでしまったのでしょう。ご両親がどれほど貴方を大切にお育てになったかというのに。貴方は、この先どれほどお国のために役立つ方かというのに……」
「真希子」
 つないでいた手を離し、友祐は真希子の両肩を掴んだ。
「真希子、これは全て私が選んだことだ」
 目を伏せたままの真希子は、正面からのぞき込む友祐を見ようとしない。長い睫毛の下にするりと滴が流れ、陽の光を反射した。
「貴方が見合いをすると聞いたときに、諦めたつもりだったと言った。あれは、嘘だ。私が知らぬところで、真希子が誰か別の男の妻になるなど、私が耐えがたかった。諦められるはずなどなかった。許されぬことだと知っていても」
 友祐は、見合いの最中に、真希子を奪った。親友の思い人と知りながら、真希子を奪った。
「この三日」
 そうだった。たったの三日だった。
「この三日の間、真希子を妻としたことが無上の幸福だと思った。真希子は?」
「私も」
 真希子は、伏せていた目蓋を上げた。濡れた瞳に友祐を映す。
「私も幸せでした。怖いくらいに」
「安心した」
 冷徹なほど整い澄ました友祐の顔が、ふわりとほころんだ。

 互いの心を確かめて、抱き合って、熱を与え合って、歓びを分かち合った。
 無上の幸福と友祐が言った。
 そうだ。
 愛する人に愛されること以上の幸福は、この世にはない。
 満ち足りた心のまま、その瞬間を迎えるのを、真希子は待つばかりだ。
 恐らくあとわずか。
 微笑を刻む友祐の、端整な顔を見つめられるのもあとわずか。
(お父様)
 真希子は降り注ぐ陽の光に、ずっと以前に失った父を感じた。
 早春の日差しと同じように、温かい父の眼差しを、まだ覚えている。
(もうすぐそちらへ参ります)
 友祐の腰に下がる短剣を見た。
 短剣が恩賜のものであれば、己の血で汚すなど恐れ多いと真希子は戦いたが、違うと聞いた。安心した。
 もうすぐ、その刃に貫かれる。
 その後に、友祐は腹を切ると言った。百年前の、武士のように。
 友祐に、身体を刺し貫かれる痛みはきっと、甘美なものに違いない。


「神野! 真希子!」
 怒鳴りながら、一臣はまるで真希子を友祐に既に嫁がせたような心地になった。
 神野真希子、と呼んだような響きを感じる。胸にとげが刺さる。
「馬鹿っ!」
 病み上がりの身体が重い。
 呼吸を弾ませながら、互いを見つめ合っていた二人のほうへ足を向けた。
「早まった真似を、するんじゃない」

 強張った顔で、友祐が真希子を背にかばって一臣と対峙する。
 唇を結び、目を据えて、友祐は一臣を見た。
 激しい光は、その瞳にはない。静かに、ただ少し青ざめた色合いだった。
「何故」
「何故も何も、探したぞ。二人とも……」
「見逃してくれまいか。すぐに俺は、貴様の目の前から消える」
「そんなことを俺が望んでいるとでも? 相変わらず、くそまじめな馬鹿野郎だな、貴様は」
 六尺ほどを置いて、一臣は友祐と向き合った。友祐の背後に、真希子がいる。
 真希子は、友祐と同じように少し青ざめた眼差しで、一臣を見つめていた。瞳に宿る涙が誰のためなのか、一臣は考えることをやめた。

「真希子」
 声を震わせることなく呼べたことに、一臣は安堵した。
(これで良いのだ)
 良いのか、と胸の片隅で問いかける声を、一臣は懸命にこらえた。
 真希子を、かつて許嫁のような存在だった彼女を、友祐から取り戻すことは、心の底で願っていたことではなかったのか。
 いつか、真希子を妻と呼んで、彼女の傍らに添って生きることは、一臣が、友祐より何年も長く、頭に描いてきた夢ではなかったか。
(もう良いのだ)
 一臣は、コートの裏のポケットから、二枚の紙片を取り出した。

「真希子、これを見てくれ」
 一枚目の書類を、開く。
 戸籍謄本だった。右に戸主、それから左へと人の名が連なる。坂巻の家のものだ。
 斜めに容赦のない線が交差しているところに、真希子の実父の名が残されている。
 その二つほど左に。
「もう、真希子はあの家とは縁を切った。解るか」
 真希子の名の上にも、線が交差していた。
 除籍、という意味だ。
 もう一枚の紙も、戸籍謄本だ。
「真希子は小西の家の養女になった。解るか、真希子」
 一臣が差し出した書類が、風に少し煽られた。
 真希子は友祐の後ろから一歩踏み出し、向かい側から歩み寄った一臣に、手を伸ばした。

「お兄さん、これは」
「そうだよ真希子」
 両手で戸籍を持って左右に広げ、真希子はそこに書かれた文字を食い入るように見た。

「真希子は、俺の妹だ。これで、名実共に……」
(妹だ)
 と言葉にすることが、一臣には幽かに苦しい。
 眼下で、肩を震わせながら戸籍に見入る真希子の、じわりとわき上がる喜びの表情を、見ることも苦しい。だが少し嬉しい。
 真希子が、笑った。
 十二年前に真希子と共に暮らし始めたときから、一臣はそれをずっと望んできた。
 願わくは、どんなときでも、真希子が笑っていられるように。
 それは、一臣がずっと祈っていたことだ。

「だから縁談は、無くなった。安心しろよ」
「お兄さん、本当?」
「嘘なんか言うか」
 真希子の頭を、幼女にするように撫でながら、一臣はからりと笑って見せた。
 
 兄妹の姿を見ながら、友祐はまだ戸惑いの中にいる。
「小西」
「神野。真希子を……、俺の妹を、嫁にもらってくれるか?」
「小西、俺は、貴様が」
「相変わらず堅苦しいツラをしやがって。もっと頭を柔らかくしろと言われてきただろう?」
「……相変わらずは貴様の方だ」
 ふと肩を下げながら、友祐が笑った。
 笑みを浮かべるのと同時に、頬に血が通う。青ざめていた顔に、赤みが差した。
 そろそろ正午だろうか。

 中天に昇った太陽が、祝福するように光を注ぎ、悲しみを隠す濃い影を地に縫い付けた。

 
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