おぼろ月

春想亭 桜木春緒

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第一章

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 畑野家の周辺の同輩の士らは、皆同じように貧しかった。
 それでもどうにか畑野家が成り立っていたのは、月子を筆頭に、子供達が賢い働き者であったからだといえる。母はずっと寝たり起きたりの状態が続いていたが、幸いに死病ということではなかった。そして、子供達でそんな母の疲労を補い得るだけの力も育っていた。

 月子はこの年の正月で十六歳を迎えている。
 満腹を知らぬ身体は細く、身の丈にも恵まれていない。それでも、娘らしい艶やかな表情がその目元や、胸元に生じていた。顔立ちはそもそも整っている。働き者で、言葉つきも正しく、近所でも評判が良い。

 秋口に、近所の家で葬儀があった。
 隠居の老人の葬儀であったために、さほどの悲愴さはない。あるいは家族は養うべき口の減ったことを喜んでいたかもしれないというのが、この村の人間の共通の推測だろう。
 その葬儀の手伝いに月子は母の幸枝の代わりに行った。

 葬儀の後片付けをして、井戸端から什器を持って振り返った月子の目の端に、その家の若い嫁と、以前に畑野家にも訪れた事のある代官所の手附という立場の男が話しているのが見えた。嫁が俯きがちに、時折、肩をすくめて手附に頭を下げているようだった。
 見てはならぬ姿であるかと気遣い、彼等の目に留まらないように回り道をして戻ろうとした。その途端に椀がからりころりと音を立てて落ちていった。その音を、月子はひどく高いものに聞いた。
「月子さん……」
 足早に、その嫁が手附らしい男を後にして月子の横に来た。
 落ちた物を拾い、月子の手に重そうな桶を彼女が引き取る。その口元がひどく震えているのを、月子は見逃さない。
「どうか、なさいましたか?」
「いえ、……いえ何でも」
 唇を引き結んで首を左右に振った。
 まだ、二十歳をいくばくか超えたばかりの、娘の面影の濃いひとである。
「美知江さま……」
その人の名は、確かそうであったろうと思い出しながら月子は呼んだ。
「月子様、今日はいろいろとお手数をお掛けして申し訳ありません。お母様のお加減はいかがですの?」
「おかげさまで、良いようでございます」
 社交辞令として答えたが、本当はそうではない。立ち上がると目眩を起こすような状態は変わらない。起きていられるときもあるが、寝付いてしまう時間も多い。これといって名のつく病名はないのに、ただ母は弱っているようだった。
 元は三百石であったという畑野家と同等の家の出身であって、月子の母の幸枝は何不自由なく育った。若い頃には桜色の頬をして、病気など無縁の健康な女性だったはずだ。
 あまりの暮らしぶりの転落に、心身がついていききらないのかもしれない。

 講、という物の存在は、月子は昨年あたりから耳にはしていた。
 その実態を知ったのは、葬儀から一月ほど経ったときである。
 代官所の手代の者が、女達十数人の前後を、まるで見張るようにして居る。頭巾のような物で顔を隠した女達が項垂れて歩いている。方角的に、城下に向かっていると月子は直観した。
 昼過ぎのことだが、彼女達の足取りでは城下に着く頃は黄昏時を越えるだろう。そんな夕刻に辿り着いてどうするのか。
 そんなことを思った。
 ちょうど、その夕刻に訊ねたいことがあって美知江を訪れた。美知江は不在で、彼女の夫の母親に「講」に行っており、四日ほどは戻らないと聞いた。用事は、糸を納めるべき時期のことであったので、その姑にそれを訊ねて答えを得た。
 美知江の外出が講だと応えた姑のやつれた顔の暗さが、月子の胸に刺さる。

 講という名称の持つ意味は、隠微に、公然の秘密であった。が、まだ月子はそれを知らなかった。
 月子の居る村の代官は、時の執政である藤崎家の末端に連なる家であり、そのせいかどこか、かの家の者達は尊大で傲慢だった。
 代官は五十年輩で、その長男以外の息子達も周囲の家に養子として入り、手附として代官所で働いている。働いているというよりは、一族以外の者を虐げ、おのれ等の懐を肥やすために蠢いていると言って良い。
 代官所で働いている下士のほとんどが、代官かその手の者達に借財がある。そして内職をしつつ、その利息を払い続けている。
 主な内職は絹糸または絹布を作ることだが、その引取り値はこの数年に渡り、下がり続けている。それが相場だと言われれば、誰もそこに逆らうだけの論拠を持たない。それにつけ込んでいるとしか思えないような態度で、代官たちはさらに下の者達に借財を負わせ、一層の苦しみを負わせる。
 そして、思いついたらしい。

 彼らは女衒まがいの事を始めた。
 利息の払いに苦しむ家の娘や若い嫁などを、城下に連れて行って、身を売らせるのである。
 それを、講、と称した。表向きは、代官屋敷の一角にある座敷で若い女達だけで何らかの作業に従事したり、物の交換をしたり話をするということにして、彼女等を拘束し、城下に連れて行くのだ。
 女達は城下に四、五日ほど留まり、その間、売り物とされる。
 多くは、月のうちにその四、五日だけとしていたが、あまりに借財の多い家の女は、一旦帰ってから直ぐにまた連れて行かれることもあるようだった。

 その男は、美知江に聞いて来たと言った。
 葬儀のときに通りかかった月子について、あれはどこの娘かと問い詰めたらしい。
「畑野の娘さんか。ほう」
 薪を担いで山から帰ってきた志郎と睦郎に、月子に用があるという人が居ると聞き、家から出た。
 朝から太三郎が発熱していて、母と床を並べている。このところ、太三郎にはそんな具合の日が続いている。長兄に一番懐いている末っ子の奈那子が傍らに付いて、彼の看病をしてくれていた。
「奈那子さん、少しお願いね」
「はい、姉さま」
 言い置いて、家の外へ出る。戸の修繕も必要だ、などと思う。そう思うのは何度目かなのだが、実際にそれをする余裕がなかった。

 蚕の小屋の前に男はいた。見たことはある。代官所の手附だという男だ。三十路のなかばぐらいだろうか。体は肥えているのに、狐のような目つきをして唇が薄く、どこか蛇のような気配があった。それが代官の妾の息子で、手附の家に養子に出たものであるということも、月子は知っていた。
「私に、御用なのですか?」
挨拶をした後に問う。家のことにかかわるならば父親の畑野でなければわからないことが多いのだが、と断りを入れた。
 風がある。
 裾のはためきを右手でそっと押さえ、頬を撫でる後れ毛を左の指で避けた。
 目を上げると、粘々した視線が月子を捉えていることが解った。悪寒のようなものが背中を走る。
「そなたの家の借財のことだ」
「それは、父に……」
「再三申している。」
 畑野は、月子には何も言わない。少なからぬ借財はあるのだろうと予想はしていた。
 しかし、強いて問いかけたことはない。父子であるからこそ、それを尋ねにくいという思いもある。考えてみれば現在のところの畑野家の収入は、父の扶持と母と月子達が行っている内職と、合せてどのくらいになるのかさえ月子は知らなかった。
 金銭に関することを細々と数えるのは武士らしからぬ卑しい行為であろうという風潮もあり、畑野家もその精神を持っている。
 だから、詳しいことを月子は尋ねることをはばかった。
「利息だけで月に一両になる」
「一両?」
 愕然として月子は口元を押さえた。

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