おぼろ月

春想亭 桜木春緒

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第二章

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 美知江が、ひっそりと月子の髪に櫛を入れて、後れ毛を髷の中になじませてくれた。溜息が、痛ましいと告げている。
 溜息は、多分美知江の優しさ故なのだろう。そんなことを、思った。

 あの日、あの男が現れて、太三郎が血を吐いた。
 それからずっと、心がとりのぼせていたようだった。継ぎの当たっていない借り物の着物の袂をつまんで、見る。心が醒めていた。
 ぞくりと、悪寒が走った。
 何をしようとしているのだろうか、自分は。
 視線の先で、障子の残光が消えた。

 めくら縞の着物を着た、口元に引き攣れたような傷のある四十年配の男が、月子と共に他の女を道に連れ出した。男は後ろ暗い何かを抱えているように、目つきが悪い。汚泥に浸されていたかのように、その手がひどく汚いものに月子には思えた。
 美知江はもう、何も言わなかった。美知江のほかの女たちも同じ里の人々だ。互いに見知っている。彼女たちも、ひときわ若い月子を同情に満ちた目で見ながら、すっと視線をはずして辻に散っていった。
 日の落ちたばかりの青い闇の中に、月子は立った。
 視界の片隅に、建物の陰から覗う例の男が見える。悪い客に連れられないように見守るのだと言っているが、女たちが逃げないように見張る役割もあるのだろう。
 着物と同じように貸し与えられた頭巾で顔を半ば隠し、月子は建物の影に立つ。
 月子の居る場所は、繁華な栄町に向かう道すがらであり、帰り道でもある。そこは、身を売る女たちが立っているのだと、通り過ぎる男たちは知っている。それを目当てに歩いている男が多いといっていい。その道を歩く男たちに顔を見せるべきなのだが、月子は壁のほうばかりを見ていた。
 壁の向こうの路地の上に、冴え冴えとした月が昇ってくるのが見えていた。
 満月であった。
 雲が少しかかって、茫洋と光る。
 朧月だった。

 不意に、背後から強い腕が月子を抱きすくめた。
 ひ、と小さな悲鳴を上げる。
「若いのう」
「器量も悪くない」
 どちらの声も若い男のようだ。袴を穿いて、刀が腰にある。二人連れの武士らしい。酒の匂いが漂う。月子の前に立った男が、華奢な顎を掴んで、首を仰向かせて顔を見た。
「これは。なるほど、なかなか美しい」
「嫌……!」
「おお、声も良いな。一晩中鳴かせたいぞ」
 月子を抱きすくめている男の手が、その身体を探った。着物の上からだったが、わずかに膨らんだばかりの乳房を掴まれた。その粗暴な腕を引き剥がそうと掴む。その袂はしなやかな絹の手触りだった。
「なんじゃ、板きれのような身体だな」
つまらん、と男は紙くずを放るように、月子の華奢な身体を突き放す。
「もう少し肥えたら、買ってやろう」
と、二人連れの若い武士は、高笑いをしながら去っていった。

 はぁ、という自分の呼吸の音が耳に付く。月子は口元を押さえて、乱れ続ける息を整えようとした。震えがやまない。怖い、という感情が全身を支配していた。
 逃げ出したい。だがもう逃げることが許されない場所に居る。
 物陰から見張りの男が冷たい視線を月子に送っていた。明らかに懐の豊かそうな、身なりの良い武家の客を捕まえることが出来なかった月子を、とがめているかのようだった。

 なんと馬鹿なことをしているのだろう。このようなところに来る前に、恥も外聞も抜きにして、父親と相談したほうが良かったのではないか。
 そんな後悔が湧く。
 月光に落とされた足元の影が淡い。寂しいような孤影である。
 助けて、と当てもないのに叫びたくなった。
 助けてほしい。
 今この場から、そして帰ってからも月子を待つすべての状況から、救ってほしい。
 誰か。
 誰でも良いから、助けてほしい。
 父の苦労も、母の疲労も、弟の病も、すべては月子の夢なのだと誰かに言ってほしい。目が覚めたら皆が笑顔で、暖かな食事を囲む団欒があるのだと、それが本当のことなのだと思わせてほしい。

 瞬きをすれば涙がこぼれそうだった。見開いたままで、月を見続けた。
 身体の震えが止まらない。

 月の下に、目をやった。
 その人は立ちすくんだように月子を見ている。
 その目に、月子は気づいた。駆け寄りたくなる衝動に駆られ、その一方で逃げ出したくなる気持ちにもなった。この道に立つ女であるということは、どういうことなのか。あの人も知っているだろう。
 恥ずかしいと思った。
 あとずさり、身体を翻した。
「待ちなさい……」
よどみのない江戸の言葉で、彼は追ってきた。

 どうして、と絞り出すような声で、源治は月子の腕を捕らえて言う。
「何てことをしているのです? 何故、貴方がこんなところに」
「離してください!」
「離しません。……帰りましょう。こんなところに居ては駄目だ!」

「おい、兄さん。乱暴はよしなせえ」
 月子を見張っていた男が、彼女と源治のせめぎ合いを見て駆け寄ってきた。
 物陰で、男は別の客と商談をしていたのである。遠目に、空を見上げていた月子を指し示して、初老の武家と、話していたらしい。上等の初物が居る、と彼はその武家に告げていた。
 もう少しで話がまとまりそうなところで、源治が月子の腕を掴んで引っ張るのを見た。

 源治は、背が高くしなやかな体躯のいなせな姿ではあるが、黒いような木綿の袷を着ていて、金を持っているようには見えない。その彼が、今しも商談のまとまりそうな「上等の初物」の月子を連れて行こうとしている。それを見て男は慌てて、月子を引き止めに来たのである。
「その娘の腕を離してくれ。今、そこのご用人さんと話が出来たんだ。」
「何だと?」
 源治は、それまで月子が見たこともないような険しい顔をしていた。
「さあ、その手を離しておくんなさい。その娘はね、良い値がついたんですよ。気に入ったならまた明日にでも来るが良い」
 月子は、源治に腕をつかまれたまま、うなだれて地面を見た。
 誰とも知らぬ男が、月子に値をつけたという。ぞっとした。体幹から震えがあがる。

 うつむいて、顎の先まで震えている月子を、源治は見た。彼が掴んでいる手も、震えている。
 さあ、と促す男を、源治は見下ろした。口元の引き攣れた傷が下卑た表情をいっそう汚らわしく思わせる。
 こんな男に、と思った。月子をゆだねて良いものか。
 掴んだ腕が頼りなく細い。その上、悲しげに震えてさえ居る。(離すものか)源治は思った。
「いくらだ?」
「へえ?」
「この人は、いくらだ」 

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