おぼろ月

春想亭 桜木春緒

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第三章

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 鳥越が縷々と述べるところの、藤崎による藩士からの詐取を止めたいという言葉には賛同するものの、それがどうした、とも思うのだ。その後、鳥越がかつての彼の父親のように筆頭家老として執政になったとして、藤崎のような詐取をやめたとしても、それで藩の皆が救われるほどの何かになるとは思えない。

 もっと、世の中は変わってきている。
 江戸での暮らしで町の人々の物事を見聞きしたり、戸沢領内の庄屋たちに触れ合うごとに、そんな気がしてならない。
 異国船が常陸に現れたと言う話も、夏ごろに湯屋の二階で聞いた。幕府はひた隠しにしていることだろうが、庶人は存外敏感なものだ。
 武家だけが世の中の何かを考えて動かしていると思っているのは、もはや武家の者だけではあるまいか。
 年齢を重ねるごとに、本来の役目や己の立場に対して醒めた目を持つようになっている。
 この正月に源治は三十になった。

 ところどころに白い痣のように残雪がある。
 斜面の南側に桑の低木がある。畑野家の人々が内職のために養う蚕の餌を取るための木だ。その桑畑の少し上のほうに、傾いだような家がある。傾斜のきつい萱葺きの屋根の上に既に雪はないが、氷柱は軒先に下がっていた。黒ずんだような家の柱や木の壁には拙い修復の痕跡がいくつか見える。
 家の周りの日の当たる辺りには、溝の縁に敷き並べた丸い石が黒い土の上に露出している。北側の陰にはまだ雪が残っていた。
 雪の山の傍らに覗く土の上に源治に背を向けてしゃがみこんでいる小さな人影が二つあった。少女が二人。笊に蕗を摘んでいた。少し笑い声など聞こえていた。(月子の妹達だろうか……)そんなことを思いながら、源治は畑野家に訪いを告げた。
 やつれた様子の畑野の妻の幸枝が現れ、何面の縁側に回るようにと戸口の先で言った。

「ひどい泥だな」
「季節柄、仕方がありません」
 源治の草鞋は泥だらけだった。泥濘に何度も足を取られた。その結果がそんな姿だ。
 渡すべきものを荷物から出して渡す。
「酷いことだな……」
 畑野が言った。
「鳳雛様も同じようなことをおっしゃっていましたね」
「これが正しく藩士に還元されぬとは、腹の立つことだ。その上、半知借上げの延期だと? 何のために藩の上に立ったのだ。皆を苦しめぬくことだけが目的か、あの男は……」
「いつ、正されましょうか?」
 縁に腰を下ろした源治が、ふと顔を上げて畑野を見た。敷居の中の暗い部屋を背にした畑野は腕組みをして眉間に皺を寄せている。
「そこが、難しいところだ……。訴えを退けられぬだけの材料がまだ足りぬ。詐取していることは確かなのだが、それだけでは」」
しかし、と畑野は続けた。
「こちらは限界だ。いっそ斬り込む腕があればと願うこともあるよ……」
 硬く握った拳が膝に落ちる。関節が白く見え、震えているのが解った。
 白く翳った眼差しが落ちた。その肩ががくりと下がっている。華奢な外見より畑野の中身は剛毅であるとは、鳥越も笹生もよく彼を語る言葉に出しているが、その辛苦を彼の友人達は本当には知っていないのでは有るまいか。
 それでも、源治がもし懐に持った金子を差し出したとしたら、畑野は断るだろう。施しは受けぬと言うか、それとも旧知の者を頼って援助を得るのは、現在の貧しい朋輩たちに申し訳がないと言うだろうか。
(何の矜持だ)うなだれた畑野の細い肩を見て、源治は苛立ちを覚えた。
 強いて、置いていくことも考えたが、それによって畑野の矜持を打ち砕くのは、心苦しいものがある。
(俺は、ずるいか……?)
 そんなことを思う。
 畑野の家に立ち寄るのは役目のためだ。
 その役目を、今は他人に譲る気などない。しかし、もし畑野との間に奇妙ないきさつが出来たとしたら、この役目から外されてしまうかもしれない。
 それは、嫌なのである。
 何故か、などとは自問するのも愚かしい。

 月子は、居ないようだった。
 もし月子に会うことがあれば、源治は持っている限りのものを差し出したい気持ちでいる。
 期待ではない、と源治は川口の渡しに向かって歩を進めながら思う。
「ちゃんと、買ってください」
 そんなことを、月子は言っていた。もうあのときから半年近くが過ぎている。
 源治がただ無心で差し出しすつもりの援助であっても、それを受け取るときにまた月子は同じ事を言うだろうか。そういうことを自分が期待しているのであれば、それは違うと思いたい。
 挑むように、乙女の月子は源治を見上げて言った。果敢な眼差しに怯むものを覚えた。凛として、自ら為せることをすると決めた月子の意志は、汚らわしいものではない。行う事は穢れた仕業なのかもしれないが、その志は家族を思う心そのものだ。
 だが、その意志のために、月子はどうしているのだろう。
 会わなかったこの半年の間に、月子はどうしていたのだろう。
 見も知らぬ男の腕に絡め取られる華奢な身体を思い浮かべて、脳裏で源治は打ち消した。

 このところはいつもさ、と口元に引き攣れのある男は言った。
 夜。まもなく五つ刻になろうかという頃。
 城下に着いた源治は、栄町から港町に掛けての界隈で、かつて月子に遭遇した船宿の路地に居る。あのときにこの男に源治は金を払った。
「気に入られてるんだろうさ。こっちに居る間、二晩は買い切られてる。」
「何処の家だ?」
「何処のお家か知らねぇ……。だがな、金払いは良いし、言ったとおりの日限には女を帰して寄越す。文句なんざ出す謂れもねえ」
あのときに源治が横取りした武家の用人風の男が、月子が辻に立つとすぐに見つけ出し、そのまま駕籠に乗せて行く。無論、相応の金額を男は受け取っている。
「ま、どうしてもあの娘が良いってんなら、仕方ねえ。マメに通うこったな」
 彼の受け持ちの他の女が、男と向き合っているのを目の端で見つけて、すい、と彼は源治から去った。

 吐き気がする。
 胃の辺りを強く抑えて、深く息を吸ってゆっくりと吐いた。
 ふと源治が思い浮かべた想像は、打ち消すことの出来ない事実として、今まさに月子の身の上に降りかかっているのだろう。堪らない。
 滅茶苦茶に、剣を振り回してそこら中を斬りつけてしまいたいような、凶暴なものが腹の底から沸き上がる。
 
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