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第四章
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しおりを挟む広い庭である。
奥の方が少し小高い築山になっており、その麓に広がる池に巨岩でしつらえられた橋が見えた。躑躅かなにかの植え込みが丸い緑の饅頭のようにもこもこと連なっている。池に向かって枝を下ろす松も見事な佇まいだった。
その松の向こう側に、屋敷から渡り廊下で繋がる離れがあり、池に張り出すようにした欄干のある腰高の窓の障子が開いていた。その裏側が、濡れ縁になっており、その下で待てと告げられて源治は跪いた。
(藤崎鎮目……)
江戸の鳥越も、驚くだろう。否、出掛ける前に藤崎家で受けた枕絵の注文については話した。もしかしたらこの事態も彼ならば予想しているだろうか。
せめて今の敵の印象くらいは伝えられるように観ておいてやろうと思った。
離れより塀沿いに、小屋のようなものがあるが、其処に侍が二・三人ほど詰めているようだ。物陰になる辺りは、あのような警戒が他にも在るのかもしれない。
(無駄なことか)
そういえば藤崎を見張る手合いは他にもいると聞いた。既に、入り込んでいる者も居るはずだ。それが誰かは、当然ながら源治にはわからない。が、解らなくていいと思ってもいる。下手に知って、互いの挙動がおかしくなるのも困ることだろう。
渡り廊下を金田の土気色の顔が通ったのが見えた。源治が渡した品を恭しく持っている。彼の持つ物の内容が内容であるだけに、そのうやうやしさがどこか滑稽に見えて地面を見ながら源治は唇の端で少し笑った。
離れの建物の周囲の縁を回り込んで、金田は源治の控える側の障子の前に跪く。
もとより其処は開いていた。見てはならぬものだろうと、源治はずっと目を伏せていた。遠目に、鎮目らしい人影と、その身体に隠されるように緋色の小さな姿が見えていた。
(女と居るのか……)
この老執政が好色であるという話は、全く間違いの無い事実らしいな、と胸の中でその淫靡な光景に胸のうちで唾棄したものだ。
「見せてみよ」
金田がかぼそいような声であれこれと説明するのを半ばでさえぎって、重い響きを持った声が言った。
ぎし、と縁が鳴る。
鎮目は室内に戻ったようだ。女に見せるのかもしれない。
(あんなものを……)
喜ぶような女ならば、彼に相応しかろう。
捉えた音色を、源治は耳でしか認識が出来なかった。
「見たくはありませぬ」
そんなもの。鎮目の低い笑い声の下で、抗いの言葉が聞こえる。
遠目に観た、生絹をざっと纏った大柄で旺盛な老人の影に、ちらりと見えた襦袢と思しい緋色のものを纏った細い影。髷の解けた、背に落ちた長い黒髪。敷かれた褥。何をして、どういうことをする離れの間であるのか一目で解った。だから源治はずっと目を落としていたのだ。
見てはならぬと思ったから。
この声は、このようなところで聞こえる声であっただろうか?
夜も白むまで、老人の腕が身体に絡みついていたのを、日が昇っても覚えている。
日が昇って、湯殿に連れ込まれて、戯れかかるのを受け流しつつ、身体を綺麗に清めた。それからまた、温度の上がる部屋の中で、とても言葉に出来ない猥雑な仕草を老人は月子に施した。
暑いために障子を開けている。
風を感じなければ蒸し暑さに耐えかねるのだろう。だから、唇をかみ締め、時折自らの口を掌でふさいだ。
わずかに老人が月子から手を離した隙に、
「旦那様……」
部屋の外からおとなう声がした。
忙しない血流が耳の奥に響き、話し声の内容まではわからない。
「庭先へ通せ」
そう告げた後に、老人は傍らから着物を拾って纏った。仕方無しに介添えをする。
この場で身を隠すために与えられているのは、卑猥なような緋の襦袢だけだ。夏のことで、絽縮緬であった。贅沢な品だが、その価値は月子には縁の遠いものだ。
老人の大きな影で、そっと肩からそれを纏う。
庭先とはどの方向かと思った。そちら側から身を隠さねばなるまい。そう思った。首をめぐらせて老人の肩越しにその方向を見た。
門の在る方角から、歩む人影が見える。老人が、通せ、と言った者が彼なのか。
彼なのか。
(……!)
月子はただ唇を両手で押さえた。驚愕の声を飲み下した。驚いたことを、老人に悟られたくない。あれは何者かと、そなたの何かと、訊かれる恐れを抱いた。
見間違えるはずが無い。
一目、わずかに眼差しを交わすことが出来ればそれで良い。
そう思っている相手だ。忘れるはずも無い。いかに遠目でも、解らないはずが無い。
旅慣れたしなやかな足取りで、すらりと身体を前に運んでいる。浅黒い引き締まった顔に、戸惑いが少し見え、眼差しを落としていた。
彼が、その離れの縁側の下に跪くまでを、月子は見ていない。障子の影に入り、ただ身を隠した。
一目、わずかに眼差しを交わすだけで良い。いつもそう思っている。
だが、それはこの場ではない。
見せてみよ、と金田と応対していた鎮目が言った。
「これは面白い……」
月子の傍らで、数葉の紙を広げて見せた。淫靡な、いやらしい絵だった。あからさまに男女の秘所が交わる姿が描かれている。詞書の文言も、淫らで読むに耐えない。
「これはどうじゃ、ん?」
涎でも垂らしそうな声で、月子にその絵を突きつける。嫌悪のあまり、顔を背けて、つい言った。
「見たくありませぬ、そんなもの……」
「見よ。これを見るそなたのその顔が見たい」
「お止めくださいませ」
掠れた声で月子は抗い、唇をかみ締めた。
鎮目の大きな手が月子の項を掴む。顔を背けることを許さず、彼の思うほうへと導く。
「これ、目を開けぬか」
(いや)
月子は声に出さずに抗った。袂で顔を覆う。
聞こえた、と思う。多分、縁の沓脱ぎ石の傍らに首をたれて跪く源治に、その声が。
触れなくても良い、言葉を交わさなくても良い。
ただ一目、眼差しを交わすことが出来れば良い。ただ、それだけを望んでいた。
だがそれは、この場所ではない。
源治は、耳朶に触れた声が信じられなかった。違うのだと、思いたかった。
見てはならぬと、目を上げてはならないと。
月子は、
源治は、
項を掴んで華奢な身体を揺さぶる老人の手に抗いながら、
地面の上に拝跪して、わずかに上げた眼差しの中に、
互いの姿を、見た。
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