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 奈恵はきょとんとした顔をしていた。
 大きな潤んだ目が見張られて、少しどきんとするほどに可愛らしい顔で圭介を見上げていた。
 あれは、嬉しかったのか、それともただ驚いただけだったのか。
 何とも、奈恵の口から聞く前に圭介は奈恵の家を出た。あんな顔で、ありがとうなどと言われるのが照れくさくて敵わないと思って、笑いに紛らわせて早々に去った。

 月曜日になった。
 奈恵は、テストの戻りが怖いような気がしてたまらない。結局、勉強など何にも手につかなかった。

 圭介は部活のために朝の六時半には家を出る。
 この季節ではまだ薄暗く、そして白い息が長く消えないほどに寒い。
 未だに本格的な練習には参加できない。軽いランニングやパスの練習程度は一緒に出来るのだが、皆がゲーム形式の練習をするときにはただ一人でリハビリのための動作に励むしかない。
「調子、どうなの?」
「上々」
 ジャージに中綿のウインドブレーカーを羽織ったさおりが、グラウンドの片隅で皆の練習を見ながら一人でリハビリをする圭介に時折声を掛けてくれる。
 冷たい冬の朝の風に、さおりの髪が揺れる。
 シャンプーの良い匂いが圭介の鼻をくすぐる。
「寒くないか?」
 マネージャーであるさおりは、時折サイドラインの脇を移動するくらいしか動かず、多くは寒い中で立っているだけなのだ。
「大丈夫だよ。カイロ持ってるもん」
 圭介に笑顔を返しながら、さおりはポケットからリラックマのカバーに入れたカイロを見せた。
「圭介は?」
「地味に運動してるからあったかいよ」
「そっか……。ねえ、まだお医者さんはダメって言うの?」
「まだ、ね」
「ねえ、週末の練習試合くらいは見に来るでしょ?」
 試合、と口の中で復唱しながら、少しだけ圭介はうつむいた。が、さおりにそうと気づかれないうちに笑顔を作って、彼女の綺麗な目を見返した。
「行くよ。応援する」
「お願いしますよ。J1のユースチームと試合なんだから、気合入れなくっちゃ」
 冬の全国大会の出場権は既に手に入れている。十一月に、県大会で優勝した。高校生程度の年齢で有望な選手は、Jリーグのユースチームに持っていかれているために高校の部活の選手層が薄くなっていると世間では言う。それでも伝統のある「冬の国立」である。緊張感は格別なものがある。

 週末か、と二時間目の授業が始まった頃にふと窓の外を見て奈恵のことを考えた。
 まだわかんない、というメールの後には何も音沙汰が無い。
(週末は、だめか……)
 ほんの少し落胆した。ただ見ているだけのサッカーより、奈恵とするほうが良い。そんな気持ちになっている。
 夏に負傷して一度は復帰しかけたのに、秋口にさらに重傷の怪我を負った。以来リハビリばかりで、部活の時間にもほとんど地道な身体の訓練に費やし、サッカーらしいことをしていない。そのせいだろうか。かつては人生の目標ですらあったはずのサッカーに、すっかり興味をなくしている。そんな自分に、圭介は愕然となった。
 
 圭介の帰宅は八時近くになる。
「腹減った」
 ただいま、の前にその言葉が出るのが常だ。靴を脱ぎながら玄関先に出てきた母親に言った。
「メシ、何?」
「ただいまくらい言いなさいよ」
「ただいま」
「今日はとんかつ。……早く手を洗って着替えて来なさい」
 好物のおかずだと聞いて、急いで着替えて嬉々としてダイニングまで行った。

 チームの皆が、もうすぐ全国大会だと緊張感を持って、ゲーム形式の練習をずっと行っている間、それを横目に見ながら圭介はただ自らの身体を立て直すためだけの動作を続けている。フィジカルの衝突が予想される試合形式の練習などは圭介はまだ医者に止められていて、それが監督にもマネージャーのさおりにも伝えられている。
 集中して、鋭い声を出して、時に激しいぶつかり合いになりながら練習を続ける仲間達の姿を見る。ただ眺めているだけの自分が虚しくなるほど、皆がそれぞれに真剣で、そして生き生きと輝いていた。真剣にボールを追っている仲間の中には、圭介がメンバーで居る間はずっと補欠だった選手も居る。
 本当なら、あそこに居るのはあいつじゃなくて自分だった、そんなことを思ってしまいそうになるのが、どこか恥ずかしい。
 ピッチの傍らで、ボールの動きにあわせて左右に走るさおりも見える。「あと五分」と時間を知らせる声や、動きの悪い選手に叱咤を飛ばす声も聞こえる。
 マネージャーはさおり以外にも一年生が三人居る。
 今日は彼女達は飲み物を出したり備品の片づけをしたり、忙しくしている。彼女達もときどき今のさおりのような仕事もするが、さすがに選手を叱りつけるようなことを言えるのは二年のさおりだけだ。良い動きをした者には激励を飛ばす。
 さおりの声は明るく、良く通る。多く聞こえてきたのはマサへの褒め言葉だ。

 他の連中は、マサとさおりが付き合っている事には、気づいていないのだろうか。
 圭介もあからさまに言葉で聞いたわけではない。
 ただ、二人が手を繋いで歩いている姿を見てしまって、そうなのだろうと思っているだけだ。恐らく二人が付き合っているのは間違いの無いところなのだろうが、隠しているというならそれを言い立てるつもりはない。
 だがそろそろ本当のところを、マサとさおりに聞きたいような気分になっている。
 暗くなってきたグラウンドで、
「マサ! 今の当たり良いよ!」
 そんなさおりの声が響いた。
 マサは良い選手で、実際にチームを引っ張っているのは気分的にも実力の上でもマサであることは誰もが認めるところだろう。だから、さおりの言葉の中にマサという名前が多く含まれても、不自然と思う者もいないのかもしれない。

 馬鹿だなあと、補欠のメンバーと一緒にゴールの後ろのほうで軽いトレーニングをしている圭介は思う。
 さおりがマサを呼ぶ声が、ちくりと胸に痛い。馬鹿みたいに、まだ痛い。
 夏から、もう半年が過ぎている。
 それなのに、まだ痛い。さおりがマサを呼ぶ声も、彼に向ける明るい笑顔も、どこか圭介には辛い。
 未練というのはこういう情けないような気持ちを言うのだろうか。

 夕食を終えて、風呂を終えて、自室に入ると九時半を回っていた。また明日も六時前に起床して、六時半には家を出る。
 英語の宿題らしきものがあるために、ほんの少しだけ机に向かった。テキストをさらってノートを眺めて、まあこんなものかなという程度の答えを記して終える。
 どうせ明日には答えを提示されるものだ。学校の宿題など常にそんなもので、つきつめて考える必要はないと圭介は思っている。
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