日照雨

春想亭 桜木春緒

文字の大きさ
上 下
12 / 52

12

しおりを挟む
 暮れ六つを過ぎた頃、あたりはすっかり暗くなっていた。
 途中を急いだ甲斐もあって、渡し船は日暮れ直前の最後の便に乗ることを得、あたりが薄闇に包まれた頃には新兵衛は既に川口の宿場町に入っていた。
 まだ目が利く。幸い提灯を調達しなければならない事態にはならなかった。

 飯盛女たちが無理に張り上げる黄色い声で客を呼んでいる。
 そのかしましい声の中を通り抜けて、新兵衛は井川に言われたとおりに領内から見れば一番外れの「駒屋」に入った。なかなか大きな宿ではある。
 入口にたむろした女たちは首の周りを白粉で塗りこめて、薄闇にそればかり浮き立って見えて不気味であった。
 新兵衛が入口をくぐると女たちが我先に彼の足を濯ごうと群がる。だが一人、他の女と同様に首を白く塗りこめているのにも関わらず、戸口側の暗がりに外を見て佇んでいる小柄で華奢な女が居た。
 静かな女が良い、と新兵衛は騒々しい女たちの頭上から戸口の女を呼んだ。こういう場所で妙に女を遠ざけては怪しまれることを新兵衛はわきまえている。だがうるさいのはごめんだった。
 二階の端の部屋を、と女将に言うと、幸い空いているとの事だ。
「訪ねて来る者があるが、時刻は構わず上げてくれ」
 多少の心づけを渡しながら依頼した。
 部屋に入ると、既に夜具が敷いてある。それを避けて新兵衛は窓へ向かう。障子を開けると、街道が良く見えた。首を出せば、江戸の方面への道が遠くまで見通せる。
 ふと新兵衛は振り向いた。
 枕の傍らにぽつんと座したその女は、新兵衛が振り向いた途端、膝の前に指を付いて少し頭を下げた。
「ああ、」
 新兵衛は、食べるものと、酒ではない飲み物を調達してくるように女に命じ、一分銀を一枚与えた。
 かしこまりました、と言って上げたつぶし島田の髷の下の顔が、不意に逸に見えて、新兵衛は胸が鳴るのを覚えた。
 懐を押さえる。
 すまない、と心のうちで謝った。着物越しに、亡き妻の戒名の紙に触れる。
 妻の結が非業に亡くなってからまだ三年も経っていない。それなのに、あらぬ所で逸の面影などを見出して胸を鳴らすとは、なんという薄情さだろう。なんと無節操なのだろう。
 結が亡くなってから数ヶ月は、彼女を思い出さない瞬間は無いと言って良いほどだった。だが、いつしか思い出さない時間のほうが一日の大半を占めるようになり、いつの間にか、何日ぶりかにふと思い出す、そんな風になってしまった。
 そこに無い存在をずっと思い続けるほどには、生きている人間の心には余裕が無い。呼吸をせねばならず、食事を取らねばならず、年を取らねばならず、声を出さねばならない。
 哀しみを憶え続けているほどには、人の心は逞しくないのだろう。忘れなければ、立ち上がれなくなってしまうのだろう。
 死んでしまった存在に対して、生きている人間などまったく薄情なものだ。
 許してくれ、と心の中で結に頭を下げる。もうすぐで、仇を討つ。不意に彼女の命を惨たらしく奪った者どもを、ようやく殺すことが出来る時期が来たのだ。もうすぐ、彼奴らの命を道連れに、結の許へ行く。

 窓辺に座って、ぼんやりと暗くなっていく空を見上げながら、新兵衛は崩れるような気持ちで逸を思い浮かべた。
 何と罪なことをしたのだろう。
 愕然となる。既に判りきったことでもあるのに、それでも改めて思うと、胸が痛む。
 昨夜、悪戯半分に「明日の夜も来るか」と新兵衛が言うと、そう望むなら、と逸は含羞を見せつつも頷いた。だからといって逸が好色な娘であるとは新兵衛は思っていない。
 逸が新兵衛に身を許しているのは、明らかに恋情がそこに在ったからだ。それを見過ごすほどに新兵衛は子供ではない。
 つまりはそうした逸の想いにつけこんでいるのだとも、新兵衛は自覚している。

 今、こうして妻の仇を討つために、彼女の戒名を懐に抱いてその時を待っている。怨を雪いだのなら、自らの命は果てる。仇は、公に殺すことを許されるであろう藤崎の長男吉太郎のみではない。藩主の次男仙之介も仇なのだ。彼ら二人を、必ず討ち果たす。主君の子を殺したのならば、新兵衛は死罪になるのは見え透いたことだ。だがそれは疾うに覚悟していたことである。

 それなのに、と眉を顰めて新兵衛は目を閉じた。
 何故、逸を抱いてしまったのだろうか。彼女に対して何の責任も負えないというのに。冷静になればいつもその後悔に襲われる。
 いつの頃から、逸が新兵衛に対して恋情を持ったと気づいたのだろうか。
 あの夜、初めて逸を抱いたときには、恐らく気づいていたのだろう。だから、許されると知ってあのような行為に及んだのだと、今ならわかる。
 その想いに応えてやれる時間も、応える気持ちも、ほぼ無いに等しいのに、逸がそれに気づかないほど幼いのを良いことに、その身に手を伸ばした。
 自らを罵りたくなるような狡知ではないか。
 いつ果たせるかも判らぬ仇討ちに焦りを覚え、変わり映えのない退屈すぎる日常に倦み、その目の端で、日々美しくなる逸の眼差しを感じていた。退屈しのぎだったとまでは新兵衛は思わないが、それに近いものだったのかもしれない。
 健康な男の身である。不意に女を渇望する瞬間が来た。そのとき身近に、甘い想いを帯びた可憐な眼差しがあった。故にそれに向けて手を伸ばし、許され、渇望を満たした。何よりの快楽であり、悲嘆を引きずる新兵衛には、大きな慰めでもあった。乾いてひび割れかけた土に慈雨を浴びたように、心が潤いを得た。
 逸に対して感謝と、同時に謝罪するべき言葉が見つからない。
 今、新兵衛が妻の仇のために命を投げ捨てることを、逸は何と感じるだろう。憤るか、それとも嘆くだろうか。それを思うと、胸が痛む。その痛みの分、逸に対して新兵衛は情を感じてはいる。
 だから、と直に逸に許しを乞うことは、新兵衛には出来そうもなかった。逸の哀しみを、できれば目の当たりしたくない。そういう怯懦を、ひどく情けない物に感じている。

 するり、と空気が動いた。
 先程の女が帰ってきた。湯気の立った土鍋を盆に載せて来た。
 彼女の後ろから、宿の下男らしい者が続き、火鉢に炭団を入れ、五徳を置き、その上に鉄瓶を乗せて去った。
 新兵衛の前に置かれた膳の上に土鍋が置かれ、女が小皿と箸を携えて傍らに座った。開けられたふたの中身は、味噌煮込みうどんであった。柔らかな手つきで女が小皿の上にうどんを盛りつけ、さじで少し汁をかけ、それを新兵衛に寄越した。
 本当に無口な女で、その一切の行動を沈黙のままで行った。かといってぞんざいな態度ではなく、指先をそろえて器を持つ姿など、折り目正しくすらあった。
「もしその鉄瓶の中身が沸いているのなら、茶か何か淹れてもらえるか?」
「焙じ茶でよろしいでしょうか?」
「それで良い」
 新兵衛が答えると、す、と膝をずらして女が立ち上がった。その仕草や横顔が、やはり逸に見えた。
 何のことは無い。冷静に良く見れば、本当にこの女は逸に似ている。新兵衛の心の何かを投影したのでもなんでもなく、ただ単に彼女の面差しが逸に似ていた。
 鍋の中身が半分を少し過ぎたとき、新兵衛はこれ以上は要らぬと言った。腹八分どころか六分にもならなかったが、それ以上に腹を満たしてはこの後万一のことが起こったときに身体の動きが鈍くなる。それを避けたかった。
「そなたが残りを平らげてくれるか?」
「いえ、申し訳ありませんが…」
「遠慮などするな。もう必要が無いのだ」
 淹れられた茶を飲みながら、新兵衛は膳を女の前まで押し出した。
 こういうところで働かされる女など、満足な食餌を与えられているものではない。客の飲み食いを横目で見ながら、粗末な食料で文字通り身を削るようにこき使われている。
 早く食わねばうどんが伸びるぞ、と言って、新兵衛はその座を外し、また窓辺に座って外を見た。背後で、うどんを啜る気配がする。
 ちょうどその時刻、屈強な体躯をした付加編み笠の男達八名ほどが、江戸のほうへと街道を走っていった。その男達の後を、見え隠れするように二・三名、また数名と付けて行く者達がある。
 新兵衛は片頬を歪めるように笑い、それを見送った。

 あの、と女が控えめに窓辺の新兵衛に声をかけた。
「ご馳走になりました。下げて参りますが、よろしいでしょうか」
 本当にこの女はどこか折り目正しい。新兵衛は感心しながら頷いた。ただ茶の道具だけは置いて行けと頼む。
 寝物語で逸が語ったことを少し思い出す。
 逸は、新兵衛の許で働く前に、身を売ろうとした、と言っていた。逸の故郷では、軽輩の子女や妻ならばほとんど公然とそれを行い、彼らの上司である代官と代官所の手代どもが、その斡旋をした上に上前を撥ねているというのである。
 ひどい話ではないか。
 だがその話が真実だとすると、あの女の奇妙な折り目正しさも納得が出来る。そもそもが武家の女なのだろう。
 つまりはそれもまた、藩の現状であると言うことだ。
 今のままではいかん、と憤り、現在の執政を蟄居にまで持っていこうという一連の人々の慷慨はあながち誤ったものでも無いらしい。
 新兵衛もその一派の端くれでありながら、そんなことを初めて考えた。

しおりを挟む

処理中です...