日照雨

春想亭 桜木春緒

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 やはり、と仙之介は言った。
 そして沈黙する。
 加恵は、肩に置かれた仙之介の手も、新兵衛の鍔鳴りと同様に震えているのが解った。

 話し声は、逸にも聞こえた。
 聞こえて、胸がひどく痛んだ。痛んで、呼吸を忘れそうになる。先ほどから涙が止まらない。口元を手で覆って、歔欷を外に漏らすまいとした。

 儂は、と仙之介が口を開く。
「失いたくないもの、失ってはならぬものが、どういうものなのか知らなんだ」
 溜め息のように言う。
 そして、座ってよいか、と新兵衛に訊いた。無言で頷く。
 仙之助は負傷している。新兵衛が駕籠の外から刺したものだ。手ごたえがあった。浅いものではないはずだ。証拠に、いまだ血が止まっていない。
 その場に座り込んだ仙之介に、寄り添って加恵も膝を落とした。
 新兵衛は構えていた刀を右手一本で持ち、切っ先を地面に向けてだらりと下げた。
「この、娘は、加恵は……」
 ふふ、と仙之介は新兵衛を見上げてすこし笑った。
「俺に自分を殺せと言ったよ。……だが、できなかった。何故だろうか?」
 加恵の嗚咽が湧いた。

「介錯せよ。」
 座した仙之介は、新兵衛に目を向けたまま言った。 
 杉原、と仙之介は用人を呼んだ。脇差を差し出し、懐紙を巻くように命じる。どうやら右腕はもう使えないらしい。
 新兵衛は胸元から懐紙を取り出し、自らの刀を拭う。血と脂の曇りが僅かにある。

 騎馬の影が一つ近づいてくる。
 駕籠の脇に座り込み、身体を血に染めた仙之介、その前で刀を拭う新兵衛、そして仙之介に寄り添う細い女の影と、脇差を捧げ持つ男、その向こうに、泣き咽ぶ逸とそれを支える畑野が、居る。馬上の高い位置から、鳥越はそれを見た。
 既に、事は済んだのか。そう思った。
 おもむろに馬を降り、鳥越は新兵衛に近づく。
「……鳥越か」
 仙之介が言った。まだ、生きているらしい。敵愾心の篭った眼差しである。
「良いところに来たな。検分せい。腹を切る」
 加恵が、仙之介の肩の傷に顔を伏せた。いやいやをするように首を左右にひどく振っている。
「離れよ、加恵」
「いいえ。若君様どうか私を先に……」
 あやめてください、と加恵は言った。
「どうか。若君様がいらっしゃらねば……。元の暮らしになど戻りたくない。お城で何かがあったところで私の辛いことは何も変わらない。何にも。下々の者はずっと辛いままなのです。だからもう、」
 あんな暮らしに戻るくらいなら、ここで死んだほうが良い。…お願い、加恵はそう言って仙之介の袂を掴んで泣いた。
 鳥越は、僅かに視線を上げる。加恵は、彼にとって痛いことを言った。城で何か変わったところで下々の辛いことに変わりはないと。

「杉原、加恵を……」
 首をめぐらせて用人に言う。
 声に力がないわけではない。傷からはいまだ血が滲むものの、それが命に関わるほどでないのは見て解る。
 仙之介の人物では、切腹などするわけがない。鳥越は笹生らとそのように話した覚えがある。粗暴で、悪辣で、獣のように欲望の歯止めの効かぬ愚かな若者だというのが、仙之介に対するこの国の人間の共通の認識だろう。
「どうして」
 加恵は杉原の手で仙之介から引き剥がされながら、悲鳴のように言った。

「お前のおかげだ、加恵。俺はやっと人に成った。それゆえにもう生きておられぬ」
 仙之介は背筋を伸ばして座りなおした。
 鳥越、と声をかけ、
「右の手に握らせてくれ。」
 と左手に持った脇差を鳥越に差し出した。用人の杉原の手で既に懐紙を巻かれている。

 新兵衛は空を仰いだ。
 灰色の雲の間に青い空が見える。雲が走っている。陽光が降り注いだ。

 畑野は鳥越に言われて報国寺に貫主を呼びに向かった。
 逸は、ただそこに呆然と立ち尽くしている。
 抱き首に頚部を落とされた仙之介の身体に、加恵が取りすがって居る。石畳を多量の血が、染めている。
 見事に、喉の皮一枚を残して仙之介を介錯した新兵衛は、抜き身を右手に携えたままで天を仰いでいた。
 また雨が落ちる。
 日の光に照らされて影が黒く落ちている。その上を雨が降る。
 金の針のように雨粒が光っていた。
 
 何の音かと、逸も鳥越も思ったことだろう。
 新兵衛が天を仰いだままで吼えていた。体中の力を集めて雨を押し返すような響きを持って、声を放っていた。気合でもなく絶叫でもない。咆哮というのが相応しいような大音声だった。
 その声に耳を痺れさせるように感じ、逸は先ほどから呪縛されたかのように立ちすくんでいたその場から、震える足でようやく僅かな一歩を踏み出した。
 
 仙之介の従者のうちの無傷の者が、仲間の男たちの手当てをしている。腋下の脈を断ち切られた者が、多量の血を失ったためにすこし危ういらしい。
 鳥越は、仙之介の用人の杉原の許に歩み寄り、呆然とした彼に声を掛けた。
「ご苦労だった」
「……何も。それがしは、何も出来なかった」
 杉原は、鳥越の政敵であった藤崎の縁者である。
 藤崎を追い落とした際に、害になりそうな人物は役を下したり隠居させたりしたものだが、杉原は従前どおりに仙之介付きとして残されていた。無用となる仙之介の傍らに居るだけの役目なので、特に除く必要性もなかったということもあるだろう。

 杉原は仙之介に仕えて、それでも十年近い日々を過ごしてきたらしい。
 何も出来なかった、というのは、思春期を越えて仙之介が異様なほどに凶暴になり、立場に甘えて凶行を繰り返していたことを、止め得なかったことを言っているのだろう。
 結局のところ最期まで仙之介が為したことは人として誤っていると、仕えるべき主に伝えることが出来なかった。ただ彼の言うままに、彼のなしてしまったことの後始末をするばかりになってしまったことを、杉原は忸怩たるものに感じ続けてきていたのだ。
 亡き藤崎にとっては、一族の血をもつ仙之介は都合の良い手駒であった。仙之介を立派な君主となそうと考えては居なかった。ただ、藤崎の言う事を聞いていれば、快い目に合えるとだけ思わせておけば良い。仙之介の機嫌を迎えるものばかりを周囲に配し、彼を教育したり矯めたりするような者を退けてきた。
 結果、できあがったのが仙之介である。人としての道など、彼は誰にも聞いたことがない。そんな人間となってしまった。
 それで良しとは、杉原は思っては居なかった。だが実際には何も出来なかった。
 俯いた杉原の肩を叩き、鳥越はまだ大事な役目が残っているぞ、と言った。仙之介を相応しく弔わねばなるまい。
 もしかすると、と鳥越は思う。
 最期に見せた仙之介の潔さが、少しだけ彼に感慨を催させている。もしかすると、正しい教えを施せば、存外に立派な君主になる素質は、あったのかもしれない。凶行を繰り返すようなことはなかったかもしれない。彼の手に掛かって、哀しみに落ちる者達も居なかったかもしれない。
 全ては手遅れだった。溜め息が出る。

 鳥越の感傷は、高く澄んだ逸の声に破られた。
 嫌、と言ったのか、駄目と言ったのか。
 言葉に聞こえぬような絶叫が、逸の喉を引き裂くような勢いで迸る。

 新兵衛が、袂で刀身を包み、それを逆手に持って自らに突きたてようとした。
 それを見て逸は叫んだ。


 はるか晩年に、逸は語る。
 あの頃は、人を熱く想うことの、太陽の光のように眩しく熱い昂揚の中で幾度も涙を流していた。
 新兵衛と出会ってからの一連の日々は、まるで陽の照りながら雨の降る、日照雨のようだった。

 あの日の、日照雨のようだった、と。

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