日照雨

春想亭 桜木春緒

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 早飛脚で藩主に裁可を仰いだが、その返事は予想の日にちをはるかに過ぎても届かない。
 それを待つうちに、参勤交代のために出府していた藩主が戻ってくる時期となった。
 帰国の先触れと共にようやく届いた藩主からの返事には、仙之介の件に就いては、彼が帰国するまでの裁決の留保のみが告げられていた。

 桜の便りを聞く頃に、藩主が行列と共に帰国した。
 主君と共に江戸に赴き、帰ってきた者の家では、久々の団欒を楽しむことだろう。

 水城家の門番兼下男の留吉老人は夜明け前に門の外に出て門前を掃き清める。近所の諏訪神社から漂ってきたらしい桜の花弁を箒で集め、ちりとりに集めて中に持ち帰った。当主が謹慎中の家であるから何事も人目につかぬように済ませなければならない。
 腰をかがめていたのはほんの少しの間だけなのに、なかなか伸びない。そのことに、留吉は大きなため息を吐いた。
 その息が白くない。春だな、と思った。
 邸内の庭の葉や枝などを掃いて集め、その他邸内から出た塵などもまとめて燃やす。燃やすのはもう少し用を済ませてからのことになる。

 新兵衛は謹慎の身であるものの、それを見張る鳥越の家臣たちはひどく好意的で、夜明け前には邸内の道場での鍛錬を許してくれていた。許すどころか、二名ずつ一日交代で訪れる見張り役の者の何人かは、新兵衛と共に木刀を振るうことを希望した。
 そんな彼等の態度は、主の鳥越の感情が移っているものなのだろう。
 事情が許せば、一手所望したいもの、新兵衛の剣技について鳥越が洩らしていたと、そんな話をする者も居た。鳥越は、新兵衛の推測どおり、江戸は本所亀沢町の団野という師の道場で修行し、それはかなりの腕前なのだそうだ。
 新兵衛にとっては、もはや鍛錬をすることにも目的というものはない。それでも習い性というのであろうか。道場で汗を流すと、気持ちが澄明になるのが良くわかる。
 いずれ来るべき時にも見苦しいことにならないように、心身を鍛えることは続けるべきだろうとも思う。

 その日。
 藩主の帰国にあわせての総登城の挨拶があった。
 その夕方に、藩主戸沢大和守の前に、家老、中老、目付の主だった者達が集められた。
 前年の参勤交代前に大和守の前に居た者達とは顔ぶれが明らかに違う。しかしそれについては大和守も驚きなどは無い。彼の意志に概ね従った顔ぶれとなっている。驚きよりはむしろ充実感を覚えていた。
 しかしながら、大和守の眉間の皺は深い。
 半年前の藤崎の失脚の直後に、江戸に居る三男の欣之助を後嗣として幕府に届けた。それによって嫡男の死後の暗闘は終わったものと大和守は思っていた。
 大和守は十八歳で藩主になり、それから五~六年後に藤崎という男が執政になった。若すぎた大和守は、執政の交代に重い意味を感じては居なかった。そして彼がさほどの者であるとは、先代の鳥越から藤崎に執政が代わった当初は考えもしなかったものの、それから三年もすると、藤崎を経由しなければ藩主へは何の事情も耳に入らないことに違和感を覚え始めたものだ。
 また、大和守の学友であり小姓でもあった鳥越や笹生、畑野といった者達が、彼の近くに居なくなり、それもまた藤崎の意向であると知ったときには怒りを覚えた。特に畑野については、如何なる失策であったのか、ひどく身分を落とされていたと知り、それを呼び戻すことを命じる自由もないことに驚いたものだ。藩主とはそれほどにがんじがらめになるものなのか、意志というものを下せないものなのかと、悶々となった。
 確かに、ただ一人の絶対の意志の許に何かが決められていくことは、極めて危険でもある。それを解らないほどに大和守は愚かではなかった。藩主であるとはいえ、家臣の意見を聞き、尊重すべきものであるとは学問の師からも教えられたことであった。
 教えの通りに藩政を行おうと、世子であった少年の頃にはそんな志を持っていたものだ。

 家老等が集められてから、どれほどの沈黙を経た後か、
「もはやこれ以上、わしの目と耳を塞ぐ者は居るまいな」
 大和守は言った。ひどく低く、しわがれたような声になっていた。
「仙之介の為したことは、三年前だと聞いた。何故、三年も前のことが今になってようよう儂の耳に届いたものか……」
 大和守の声は震えている。
「この恥ずかしさをどうしたらよい。親としてそなた等の主として、子の為したことを知らなかったとは、情けないとも何とも言いきれぬ」
「恐れ入りまする」
 筆頭家老である榊が言う。
「恐れ入るな。恐れるな。……儂が不快であろうと、不都合であろうと、儂が知らねばならぬことをこの目と耳から遠ざけようとするでない。そなた等にそれだけは心してもらいたいものだ」
 ため息をつくように言ってから、鳥越、と呼んだ。
「そなたが寄越した書面を見た。したが、畑野」
 末席に居る、畑野に大和守は声をかける。
「昨日、そなたが作って寄越した駕籠の者どもの調書と相違がある。どちらが真実か」
「どちらがと仰せですか」
 鳥越は、畑野を振り返った。
「すなわち、畑野は、水城が仙之介の駕籠を襲ったうえで刺したと申している。鳥越、そなたの書にはそのこと触れておらぬ」
 この場でなければ鳥越は、余計なことを言いやがって、と憤りを畑野にぶつけたかもしれない。
「恐れ入ります」
「その言葉を言うなと申した。では鳥越……」
「畑野の言が真実でございます。しかしながらその折の手傷はお命に関わるものではなく、……恐れながら仙之介さまのご最期は……」
「それも、聞いた。杉原からも書が来ている」
 暗鬱な顔で、大和守は言う。杉原とは、仙之介に付けられていた用人の名である。
 難しいことだ、と黙り込んだ藩主の表情を、畑野は少し辛い思いで見た。
 主君であるということは、思った以上に苦しいものなのかもしれない。そんなことを思う。自らの子の死を悼む前に、公人としてそれに関わる者を裁かねばならない。
 自らの子と自らの家臣、どちらが正であり非であるか、それを平等な目で見なければならない。上に立つものの苦しみは、畑野には計り知れないものだ。
 子の情に引かれれば、家臣の信を失いかねない。なおかつあまりに緩い罪としては、幕府の目が恐ろしい。このたびのことは、そういうことであろう。
 黙り込んだ大和守を、その場の誰もがただ黙って見守った。

 相変わらず、陽が昇る前に逸はお百度参りに行く。
 夜に帰宅する父に、新兵衛の裁きが如何なるものになったのか、何度かそれを訊ねても、明快な答えは無かった。このたびのことは難しい、畑野はそうとしか答えてくれない。
 逸には、畑野以外に、そのことを聞き得る相手は居ない。
 父がそういうのならば、まだ裁可は下りていないものなのだろう、そう思う他に、逸は何も知りようがない。
 ただ、新兵衛の無事を、そして軽い咎を祈るばかりだった。

 そうしているうちに、逸が畑野と月子と共に江戸に発つ日が近づいてきた。
 一目でも、新兵衛に会いたい。逸はそう思わずにはいられなかった。
 父も母も、逸が水城家に行きたがっているのを知ってはいる。しかしながら、訪問は憚りがある。父母とも黙ってはいるが、その希望に決して賛成を表しては居ない。
 同じ城下に有りながら、畑野家は西の端であり、水城家は南東の端にある。往復すれば半刻は優に超えるだろう。こっそり抜け出して行くには、些か距離がある。人目につかぬ時間帯に行くには、途中に木戸があるために道が塞がれている。
 まして、新兵衛は沙汰を待って謹慎している身であるという。屋敷に辿り着いたところで会うことは叶わないだろう。新兵衛は逸に会おうとはしないだろう。
 だから逸は、ただ新兵衛の居る方角を見つめて祈るだけしかなかった。

 江戸に向かう逸のために、幸枝は紫色の上等な縮緬で頭巾を縫っている。いまだ逸の髪は長さが足りずに髷が結えない。せめて奇異なものを見るような人々の視線から娘を庇いたいと思う。
 一針一針丁寧に縫いながら、幸枝はほろりと涙を落とした。
 忘れさせてやるほうが良いかもしれぬ、畑野はそんな風に言っていた。
 逸が本当は江戸に行きたがっていないと、彼も幸枝も良く分かっている。
 新兵衛が許されるようにと祈り、その祈りが成就したならばすぐにでも会いに行きたい、そのような希望を抱いているのを気づいている。
 逸に言い得ぬ、と畑野は頭を抱えて幸枝に言った。静かにその畑野の背を抱いて、ならば黙っていよう、と幸枝のほうから夫に言った。
 江戸の忙しなさに、逸が夢中になるまで黙っていよう、夫婦はそう決めた。

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