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城下を出てから四日目に三国峠を越えた。
山肌の吹き溜まりに積もったらしい雪が、少し残っていた。そこにだけ、冷気があった。
街道から彼方に見えた高い山の頂は、卯月の晴天にもいまだ白銀の色を見せている。
逸は、須川という宿で、鳥越と約束をした手紙を書くためにようやく筆を取った。
銅(あかがね)に金や銀で桜の花を掘り出してある美しい細工の矢立は、鳥越から逸への餞別だった。これがあれば道中でも手紙が書けるだろう、そんなことを期待されているように感じた。
……一筆啓上仕り候、と書き出したものの、どのように文をつなげればよいか、逸は戸惑った。
「手紙かね?」
湯から上がった父の畑野辰之助と、兄の志郎が、明るい窓辺で巻紙を手にした逸を囲むように座した。
その傍らで月子が微笑みながら男たちの袴を畳んでいる。
「ずっと悩んでしまっているのですよ」
「そうなんです。何と書いたものなのでしょう?」
「お前が見たものを有りのままに書けばよかろうよ」
「私が荷を持ってやったことも書いて欲しいな」
志郎がおどけて笑う。
峠の険しい道で、逸と月子の携えていた荷物を志郎が担いでくれた。そのことを手柄を誇るように言うのが、笑みを誘う。
「猿ヶ京のことでもずいぶん姉上が笑っていたじゃないか。あれは?」
「でも嘘のようでしょう?」
くすくすと月子が笑う。
猿ヶ京という関所を通ったとき、その地名の由来が「今日は申か」と謙信公が言ったからだと聞いて、月子は笑っていた。そんなことで土地の名前がつくなんて、と笑った。
「鳥越様はご存知かしら?」
「ご存知じゃないかもしれない。逸、それは書いておこうよ」
きょうだいの楽しげな語らいを、畑野は柔らかい顔で見ている。
食膳に出た蕗の煮物を見て、そろそろ立夏であろうかと新兵衛は知った。
日中は、自室で端然と座している。そうすることが、咎人という立場での勤めであると示しているようだ。
夜明け前の闇の中でだけ、ひっそりと庭に出て木刀を振るう。雨の日も、外に出た。
いつの間にか、家の中の刀や槍などがなくなっている。先祖伝来の家宝まで無い。用人の松尾はそれについて何か知っているようだが、新兵衛は問い質すことはしなかった。
門の外には、無論、一歩たりとも出るわけには行かない。
夜明け近くに庭を掃除していた喜八に、
「辛いことは無いか?」
と訊いた。
新兵衛に声をかけられた途端に、喜八は唇を震わせて拳で目元を拭った。
「申し訳ありません、旦那様。……辛いことなんて、俺たちには何にもありはしません」
新兵衛の半知召上げ及び永蟄居が言い渡された後、用人の松尾は喜八一家を郷里に戻すか、他の働き口を世話するか、どちらかにするつもりだった。咎人の家の使用人など、世間に肩身が狭いものだ。子供達もいる喜八には気の毒だろうという配慮だった。
しかし、喜八も妻のお咲も、新兵衛がそのようになったいきさつを聞き、
「旦那様にお仕えしていたい」
と申し出た。
夫婦共に、新兵衛は悪くないと思っている。
罰を言い渡されたとしても、新兵衛は人としての過ちを何も犯したわけではない。むしろ悲しく苦しい思いをさせられ続けたのではないか、と新兵衛を罰した藩の殿様や城の役人に対して憤りさえ覚えている。
喜八は、自分達さえ理不尽だと悔しくなるような事を、当人である新兵衛が穏やかに受け流している姿を、まるで高僧を仰ぐように、尊い姿に見ていた。
そんな新兵衛から、辛いことはないか、と訊かれた。
辛いのは、旦那様だろう。その思いがこみ上げた。それなのにどうして、そのように優しく喜八に問いかけることが出来るのだろう。
少し青くなってきた空を見上げ、新兵衛は俯いて嗚咽する喜八の肩をそっと叩いてから、居室に戻っていった。
涙を収め、ふう、と溜め息をついて喜八は掃除を続けた。
門の外は留吉老人が掃き清めている。
その留吉が、怪訝な顔をしながら、通用門をくぐって帰ってきた。
「門の下に、差し込まれていたんだよ」
留吉が携えているそれは、夜明けの光にほの白く見えた。
手紙だった。
手紙を包んでいる紙に、「雛」と小さく書かれている。
(鳥越様か?)
鳳雛、の雛であろう。蟄居の身に、何の用事があるというのだろう。
厚みを感じる。長い手紙であるようだ。
包みを開き、畳まれた紙をぱらりと広げる。目の端に映った文字が、新兵衛の驚愕を誘った。
文末に、逸子、とある。
あの、逸なのだろうか。何故、そのような物が新兵衛の元に届けられたのだろうか。
新兵衛は呆然と、また食い入るようにしてその手紙を読んだ。道中の記録であるようだ。逸は、父と兄と姉とともに江戸へ向かっているらしい。
手が震える。さわさわと紙が音を立ててゆれるほど、新兵衛の手が震えている。
何度も、その文に、その文字に目を走らせた後、派手な音を立てて新兵衛は手紙を握り締めた。
ぐしゃぐしゃに押し潰した手紙に顔を埋め、背中を丸めてうずくまる。
包みに「雛」とあるのは、鳳雛と徒名される鳥越の署名に違いないだろう。
何故このようなものを見せるのか。新兵衛は罵倒するような心地で胸の中で叫びあげた。実際に声を出さぬために非常の努力を要している。
希望とは、それが許されぬ状況にあるときに与えられると、苦痛になるのではあるまいか。
いまや生ける屍のようなもの、と諦観に身を置いて、新兵衛は全ての事に背を向け、遠ざかるようにして静穏を保ってきていた。
だが、本当は死んでいるわけでもない。生きている。その自覚が、新兵衛を動揺させている。
そうしている彼を置き去りにして、世の中は、逸は、彼女の時を過ごしている。そんな当たり前のことを不意に、刺すほどに痛烈に目の前に突きつけられた。そんな気がしている。
何もかも忘れてしまえば、心は平らになれる。思い出すことは、耐え難いほど苦しい。
努めてそれまでのことを何も思い出さないようにし、ぎりぎりの平静を装い、蟄居という罰を辛うじて受け入れているのに、何故わざわざ強いて思い出させるようなことをするのだろう。
何よりも、逸。
自分の知らないところでも、幸せになれば良い、新兵衛はそう思うようにしている。逸が新兵衛を忘れてしまっても、幸せでありさえすれば、それで良い。そんな風に、ずっと考えるようにしていた。
だが、この手紙は、新兵衛の胸の底を抉り出すようにして、逸を思い出させた。
本当に、逸に忘れられて良いと思っているのか。その自問への答えは否である。目を背け続けていたその感情を、痛いほど思い知らされている。
そして同時に、逸を脳裏に甦らせた瞬間の雷鳴のような渇望に、新兵衛はひどく狼狽している。
しばらく経って、新兵衛はまた静かに背筋を伸ばして座りなおした。
膝の上に逸の手紙を置いている。指先で、丸めたそれを丁寧に伸ばし始めた。
本庄の宿で、逸はまた筆を執った。
末尾に「水城様事、お知らせ願いたく」と、思いあまって書き添えた。
江戸への道中も、逸は宿場付近に寺社を見つけると、必ず参拝している。早朝の出立であったとしても、その時刻より前に祈りに行く。
そのことを、畑野は無論、月子も志郎も気付いている。
その朝、月子は逸が出かけた後、畑野を起こした。
「父上、お伺いしたいことがあります」
「何であろうか」
「……もう、ご存じなのでございましょう。何故、逸に教えてやらぬのです?」
寝起きのべたべたした顔を、畑野は手で撫でながら、月子から顔を背けた。
話をしている気配で、志郎も目を覚ましたようだ。
何のことだ、などと、言い逃れを許さない月子の眼差しが畑野を見据えている。
「忘れさせた方が良い…。違うか?」
寂寥をにじませた父の顔を、月子は驚いたような目をして見た。
志郎は、父と姉の双方の顔を見ながら、状況のわからない会話を、寝起きのぼんやりとした感覚で聞き流している。
山肌の吹き溜まりに積もったらしい雪が、少し残っていた。そこにだけ、冷気があった。
街道から彼方に見えた高い山の頂は、卯月の晴天にもいまだ白銀の色を見せている。
逸は、須川という宿で、鳥越と約束をした手紙を書くためにようやく筆を取った。
銅(あかがね)に金や銀で桜の花を掘り出してある美しい細工の矢立は、鳥越から逸への餞別だった。これがあれば道中でも手紙が書けるだろう、そんなことを期待されているように感じた。
……一筆啓上仕り候、と書き出したものの、どのように文をつなげればよいか、逸は戸惑った。
「手紙かね?」
湯から上がった父の畑野辰之助と、兄の志郎が、明るい窓辺で巻紙を手にした逸を囲むように座した。
その傍らで月子が微笑みながら男たちの袴を畳んでいる。
「ずっと悩んでしまっているのですよ」
「そうなんです。何と書いたものなのでしょう?」
「お前が見たものを有りのままに書けばよかろうよ」
「私が荷を持ってやったことも書いて欲しいな」
志郎がおどけて笑う。
峠の険しい道で、逸と月子の携えていた荷物を志郎が担いでくれた。そのことを手柄を誇るように言うのが、笑みを誘う。
「猿ヶ京のことでもずいぶん姉上が笑っていたじゃないか。あれは?」
「でも嘘のようでしょう?」
くすくすと月子が笑う。
猿ヶ京という関所を通ったとき、その地名の由来が「今日は申か」と謙信公が言ったからだと聞いて、月子は笑っていた。そんなことで土地の名前がつくなんて、と笑った。
「鳥越様はご存知かしら?」
「ご存知じゃないかもしれない。逸、それは書いておこうよ」
きょうだいの楽しげな語らいを、畑野は柔らかい顔で見ている。
食膳に出た蕗の煮物を見て、そろそろ立夏であろうかと新兵衛は知った。
日中は、自室で端然と座している。そうすることが、咎人という立場での勤めであると示しているようだ。
夜明け前の闇の中でだけ、ひっそりと庭に出て木刀を振るう。雨の日も、外に出た。
いつの間にか、家の中の刀や槍などがなくなっている。先祖伝来の家宝まで無い。用人の松尾はそれについて何か知っているようだが、新兵衛は問い質すことはしなかった。
門の外には、無論、一歩たりとも出るわけには行かない。
夜明け近くに庭を掃除していた喜八に、
「辛いことは無いか?」
と訊いた。
新兵衛に声をかけられた途端に、喜八は唇を震わせて拳で目元を拭った。
「申し訳ありません、旦那様。……辛いことなんて、俺たちには何にもありはしません」
新兵衛の半知召上げ及び永蟄居が言い渡された後、用人の松尾は喜八一家を郷里に戻すか、他の働き口を世話するか、どちらかにするつもりだった。咎人の家の使用人など、世間に肩身が狭いものだ。子供達もいる喜八には気の毒だろうという配慮だった。
しかし、喜八も妻のお咲も、新兵衛がそのようになったいきさつを聞き、
「旦那様にお仕えしていたい」
と申し出た。
夫婦共に、新兵衛は悪くないと思っている。
罰を言い渡されたとしても、新兵衛は人としての過ちを何も犯したわけではない。むしろ悲しく苦しい思いをさせられ続けたのではないか、と新兵衛を罰した藩の殿様や城の役人に対して憤りさえ覚えている。
喜八は、自分達さえ理不尽だと悔しくなるような事を、当人である新兵衛が穏やかに受け流している姿を、まるで高僧を仰ぐように、尊い姿に見ていた。
そんな新兵衛から、辛いことはないか、と訊かれた。
辛いのは、旦那様だろう。その思いがこみ上げた。それなのにどうして、そのように優しく喜八に問いかけることが出来るのだろう。
少し青くなってきた空を見上げ、新兵衛は俯いて嗚咽する喜八の肩をそっと叩いてから、居室に戻っていった。
涙を収め、ふう、と溜め息をついて喜八は掃除を続けた。
門の外は留吉老人が掃き清めている。
その留吉が、怪訝な顔をしながら、通用門をくぐって帰ってきた。
「門の下に、差し込まれていたんだよ」
留吉が携えているそれは、夜明けの光にほの白く見えた。
手紙だった。
手紙を包んでいる紙に、「雛」と小さく書かれている。
(鳥越様か?)
鳳雛、の雛であろう。蟄居の身に、何の用事があるというのだろう。
厚みを感じる。長い手紙であるようだ。
包みを開き、畳まれた紙をぱらりと広げる。目の端に映った文字が、新兵衛の驚愕を誘った。
文末に、逸子、とある。
あの、逸なのだろうか。何故、そのような物が新兵衛の元に届けられたのだろうか。
新兵衛は呆然と、また食い入るようにしてその手紙を読んだ。道中の記録であるようだ。逸は、父と兄と姉とともに江戸へ向かっているらしい。
手が震える。さわさわと紙が音を立ててゆれるほど、新兵衛の手が震えている。
何度も、その文に、その文字に目を走らせた後、派手な音を立てて新兵衛は手紙を握り締めた。
ぐしゃぐしゃに押し潰した手紙に顔を埋め、背中を丸めてうずくまる。
包みに「雛」とあるのは、鳳雛と徒名される鳥越の署名に違いないだろう。
何故このようなものを見せるのか。新兵衛は罵倒するような心地で胸の中で叫びあげた。実際に声を出さぬために非常の努力を要している。
希望とは、それが許されぬ状況にあるときに与えられると、苦痛になるのではあるまいか。
いまや生ける屍のようなもの、と諦観に身を置いて、新兵衛は全ての事に背を向け、遠ざかるようにして静穏を保ってきていた。
だが、本当は死んでいるわけでもない。生きている。その自覚が、新兵衛を動揺させている。
そうしている彼を置き去りにして、世の中は、逸は、彼女の時を過ごしている。そんな当たり前のことを不意に、刺すほどに痛烈に目の前に突きつけられた。そんな気がしている。
何もかも忘れてしまえば、心は平らになれる。思い出すことは、耐え難いほど苦しい。
努めてそれまでのことを何も思い出さないようにし、ぎりぎりの平静を装い、蟄居という罰を辛うじて受け入れているのに、何故わざわざ強いて思い出させるようなことをするのだろう。
何よりも、逸。
自分の知らないところでも、幸せになれば良い、新兵衛はそう思うようにしている。逸が新兵衛を忘れてしまっても、幸せでありさえすれば、それで良い。そんな風に、ずっと考えるようにしていた。
だが、この手紙は、新兵衛の胸の底を抉り出すようにして、逸を思い出させた。
本当に、逸に忘れられて良いと思っているのか。その自問への答えは否である。目を背け続けていたその感情を、痛いほど思い知らされている。
そして同時に、逸を脳裏に甦らせた瞬間の雷鳴のような渇望に、新兵衛はひどく狼狽している。
しばらく経って、新兵衛はまた静かに背筋を伸ばして座りなおした。
膝の上に逸の手紙を置いている。指先で、丸めたそれを丁寧に伸ばし始めた。
本庄の宿で、逸はまた筆を執った。
末尾に「水城様事、お知らせ願いたく」と、思いあまって書き添えた。
江戸への道中も、逸は宿場付近に寺社を見つけると、必ず参拝している。早朝の出立であったとしても、その時刻より前に祈りに行く。
そのことを、畑野は無論、月子も志郎も気付いている。
その朝、月子は逸が出かけた後、畑野を起こした。
「父上、お伺いしたいことがあります」
「何であろうか」
「……もう、ご存じなのでございましょう。何故、逸に教えてやらぬのです?」
寝起きのべたべたした顔を、畑野は手で撫でながら、月子から顔を背けた。
話をしている気配で、志郎も目を覚ましたようだ。
何のことだ、などと、言い逃れを許さない月子の眼差しが畑野を見据えている。
「忘れさせた方が良い…。違うか?」
寂寥をにじませた父の顔を、月子は驚いたような目をして見た。
志郎は、父と姉の双方の顔を見ながら、状況のわからない会話を、寝起きのぼんやりとした感覚で聞き流している。
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