江戸の櫛

春想亭 桜木春緒

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 黄昏時、足元の影も長く伸びている。
 建物の前を箒で掃いていた野良着の作男が、仁一郎達の一行を見て慌てて家の中に駆け込んだ。
「お待ち下さい!」
 初老の男の声がした。
 背の高い痩せた侍が、戸口から出てきた。二刀を腰にした羽織袴姿で足元は草鞋である。笠も被らず、端整な顔を朝の日にさらしている。ほんの数日前に会ったときより幾分やつれていた。
「孝輔どの――」
「仁一郎どの、聞いてくれ。誤解があるのだ」
 じゃりっ、と仁一郎の傍らで土を草鞋で擦る音が鳴った。人影が通り過ぎた。
「覚悟せぇっ!」
 黒木が気合い声を迸らせて、大刀を抜いて孝輔に襲いかかる。
 咄嗟に孝輔が、半歩ほど飛びさがって間合いを確保しつつ、刀を抜いた。
「黒木、待て! 刀を引け!」
「引かぬ! ご家老の仇ぞ!」
 黒木が、じりじりと足を擦りながら横へ動く。切っ先を向け合いながら、孝輔も油断なく黒木の動きを追っていた。孝輔は藩の稽古所では仁一郎より強かった。黒木も見る限り孝輔に劣らない。だから叔父は黒木を仁一郎の助太刀に付けた。
 仁一郎は彼らより腕前が一段落ちる。孝輔と黒木の対峙する間に、入り込む余地がない。
「刀を引くんだ、黒木」
 まず孝輔の話を聞きたいのだ。制止を聞かぬ黒木に腹が立つ。
 びりびりとするような殺気を放つ黒木に、孝輔も打ち込む隙を見いだせないようだ。青眼のまま、じりじりと、足下の土を擦るばかりである。
 孝輔が八相に構える。長身の彼の打ち下ろしには伸びがあり、避けるのは難しい。黒木は刀を横たえるように切っ先を回しながら胸の前に柄を引き寄せるように構える。
「やめろというのに」
 刃を向け合う二人に気圧されて、仁一郎の声が弱い。言い終えるのと同時に、二人が動いた。
 打ち下ろした孝輔の刀をかいくぐって黒木が突きを繰り出す。右手を離し左手一つで刀を押し出す。身を反らして突きを避けた孝輔が、振り下ろした刀を引き上げざまに、黒木の刀の鍔元を絡める。左手一本での握りでは耐えきれない。黒木の刀が宙に飛んだ。
 地に落ちた黒木の刀を孝輔の草鞋が踏みしめた。孝輔は落ちた刀を拾おうと身を屈めた黒木の鼻先に切っ先を突きつける。
「儂はご家老を殺していない」
 孝輔は黒木から目を離さない。だが仁一郎は、孝輔の言葉が己に向けられたものであると解った。庭の周囲に、家の者達が十人ほど遠巻きに散らばっている。仁一郎達を案内した二人の子供も、生け垣の側で身を寄せ合ってしゃがんでいた。

 あの夜。下城する途中で孝輔を小者が呼び止めた。家老の奥村半右衛門の使いだという。渡された書状を見ると呼び出しの指示であった。
「奇妙な所へお呼びだが、密かな話だというし、縋る思いでもありました」
 夜五つの少し前に、宿町の山吹屋を訪れたのだ。帳場で離れに用があると言うと、宿の中を通るより外を回ったほうが良いと告げられた。離れに行くと、そこで仁一郎の父が絶命していた。
 その状況は仁一郎も見た。血の中に父の亡骸が横たわっていた。思い出すと息苦しいものが喉の奥にこみ上げてくる。ぐっと奥歯を噛みしめた。
「裏の出入り口に見張りも伴の者も居らず、不審に思いました。そこで急に斬りかかられて、追われて逃げました。あれは、貴様だな?」
 動くな、と孝輔は足元にうずくまった黒木に告げた。
「それがしの話を聞きたいとお思いですか?」
 地面にひれ伏すような形だった黒木が、じわりと身を起こす。仁一郎に似た大きな目が力を帯びて孝輔を見上げていた。唇の右側だけが上がっている。不敵な冷笑を浮かべているように見えた。
「動くな。仁一郎どの、この刀を」
 孝輔が地面に落ちた黒木の刀から足を避けた隙に、仁一郎は急いでそれを拾い上げた。
「脇差もお渡ししましょうか」
 黒木からの申し出に孝輔が頷く。地面に座して頭を垂れたまま、黒木が脇差を鞘ごと抜く。左側に柄を向け、右手に鞘を持って腹の前に横たえている。低い位置に差し出された脇差を受け取ろうと、孝輔が膝を落とした。
「避けろ! 危ない!」
 うわ、と叫び声を上げながら、孝輔がのけぞり仰向けに倒れた。
 黒木は左手に脇差の柄を握っている。右に持った鞘から左手で柄を引き抜きざま、目の前の孝輔に斬りつけた。
「お前が父の仇だ!」
 仁一郎は拾い上げた大刀を握り直し、黒木に向かって構えた。黒木は脇差を左手に持ち、身を斜めにして仁一郎に切っ先を向けた。
 今の黒木の動作で解った。黒木こそが、仇なのだ。
 孝輔を襲った同じ技で、黒木は仁一郎の父を殺した。
 仁一郎の父を襲った刃は左の額を割り右の眉の上へ抜けていた。油断させるように右手に持った鞘から左手で刀を抜き、斬りつけたのだ。
「何故だ? 叔父上の命令か?」
「我が主人のほうが家老に相応しい」
 それだけ聞けば充分だと仁一郎は思った。
 黒木の構えに隙がない。得物が脇差であるのに、大刀を構えた仁一郎に打ち込ませない。
「死ねぬのだ。まだ――」
 じりじりと移動する黒木は、生け垣のほうへと移動した。野次馬に来ていた者達がわらわらと避けていく。
 死ぬわけにいかないと黒木は言うが、仁一郎も彼を逃すことはできない。父の仇である。
 黒木が走る。仁一郎は追った。黒木の前に逃げそびれた男の子が居た。手を伸ばす。身形の良いほうの子を人質に取ろうとした。
 だが、黒木はふと手を止め、足を止めた。仁一郎は隙を逃さず駆け寄る。身体を振り向けた脇腹を突いたが、急所を逸れた。さらに脇差を突き出した左腕を、斬った。胸を蹴り倒して、喉元に切っ先を突きつける。
「待て、仁一郎どの! 殺すな」
 背後で孝輔が仁一郎を制止した。
 落ちた腕の傍らで男の子が泣き叫んでいる。ついさっき、黒木が竹とんぼを直してやった子であった。

 家の中から白髪頭の男が現れ、あれこれと周囲の者達にものを言い付けた。彼が先ほどの社の神主であるらしい。
 仁一郎は急ぎ黒木の傷を押さえて止血した。黒木は肘から下が無くなった腕を抱えて、苦痛に呻きながら身悶える。傷に当てた手拭いはすぐに絞るほど真っ赤になった。
 孝輔は額をかすめた刃先のために浅手を負った。あの奇襲をよくぞ避けたものである。薬を塗った油紙を傷に貼り、晒を巻いた。
 手当ての間に孝輔は、ぽつりぽつりとこの場所に居たいきさつを語った。

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