織姫の想い

つきこ

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織姫と彼女を見守る者たち

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  カタコトカタコト
  ミシンの音が響く。
  チクチクチクチク
  針を動かせば、思い出す、あの笑顔―――

  小学生のとき。
  隣のクラスに転校してきた彼はすぐに女の子たちに騒がれて。クラスも別だし、施設に預けられることが多かった私とはまったく関わりがなかった。
  女の子よりも綺麗な顔で、勉強も運動も出来て、お家がお金持ちと聞いたら気にはなったけど、当時の私にとって男の子は施設や親のことをからかってくる嫌な存在だったから、たまに遠くから眺めるだけだった。
  ただ一度。
  帰り道で男の子たちに囲まれていたとき、ふらりと現れた彼は静かに言った。

  それで、君たちはそんなに偉いの?

  その問いかけがどう受け取られたかは解らないけど、男の子たちは先に帰って。
  私と彼が残って。
  どちらも何も言わずに歩き出した。
  話したこともなかったから、どうお礼を言えばいいのか解らず。
  彼が車じゃなくて徒歩で帰っていることや一人で帰っていることが気にはなったけど、どう聞けばいいのか思いつかず。
  二人言葉なく歩いて、丁字路でなんとなく止まった。
  彼の足の向きで私とは逆方向だと察して、きちんとお礼を言わなくちゃと顔を上げると、綺麗な顔が真っ直ぐ私を見ていて、恥ずかしくて何も言えずに立ち尽くした。

  帰り、そっち?

  声が上手く出なくて頷くと、彼もこくんと頷いた。

  そう。じゃあね。

  そう言ったときの目が何か言っているようで、彼が帰っていく後ろ姿をなんとなく見送ってしまって、その夜は施設の布団も寂しくなかった。
  あのあと彼を見かけることはあったけど、近付いてお礼を言うことは出来ずに卒業してしまった。


  ガタンッ

  気付けばミシンの音が止んでいて、周りはお喋りをしながら片付けをしていた。
  「んもぅ、早く片付けてお昼しちゃうわよ!」
  野太い声で、それでいて優しく言われて、はい、と答えて手早く片付けて別室に行く。
  「遅いわよぅ。貴女の分、適当に取っちゃったわよ」
  先に行っていた先輩がトレイを渡してくれる。見ると、いろいろな料理がトレイ一杯に乗っていた。
  「ありがとうございます」
  お礼を言うと、先輩はいいのよぅと科を作った。
  「貴女はしっかり食べなきゃ。アタシたちが食べても脂肪になるだけだからね」
  「どうせ身体につくなら、胸とお尻についてほしいわよねー」
  先輩たちはキャハハと笑う。
  その明るい雰囲気に微かに笑うと、手を合わせて箸を取った。

  ここは、都内にある縫製工場。
  歌舞伎町で今もNo.1ホストの座にいるオーナーが自ら従業員を集め、注文を取ってきて、時にはデザインを興し、一つ一つ仕立てる工場だ。
  現役ホストであるオーナーが直接声をかけて集めたから、この工場の従業員にはいろいろな人がいる。
  国籍も、性別も、いろいろバラバラ。
  昔は家庭の事情で学校では変わった子扱いされていた私だけど、ここでは一番特徴のない子と思われていると思う。でもここの人たちは、平凡だからって馬鹿にしない。こんな私でも優しく受け入れてくれる。
  ここの人たちはほとんどがオーナーと何かしら付き合いがあるけど、私は貼り出された求人を見て飛び込んだ。
  この工場には寮代わりのアパートがある。その一つの管理人を募集する貼り紙を見て、その場で電話をかけた。
  実は寝入ったばかりだったオーナーは、そんなことを感じさせない様子で待ち合わせ場所に現れ、近くのファミレスで面接してくれた。
  面接とはいっても、どうして私がこの求人に応募したのかを主に聞かれた。さすがホストといえばいいのか、オーナーは聞き上手で目は真剣に私を見ていて、私は身の上から求人までの経緯までしっかり話してしまった。
  自分でも雇うには面倒くさい人間だと思うけど、オーナーは私の下手な長い話を聞き終わると、あっさり採用を決め、逆に新生活の準備まで手伝ってくれた。
  「無理をするな。やらなきゃいけないことをまずやれ」
  そう言って、度々私が無理してないか確認してくれるオーナーのお蔭でなんとか生活できている。
  私が無理しない程度の仕事、寮と賄いがついた職場、優しい先輩たち。こんな環境に恵まれるなんて、幸せなんだ。

  お昼を終えた先輩たちは作業台について、私もまた裁縫箱を開ける。
  やがてまた作業の音だけになる。

  カタコトカタコト
  ミシンの音が響く。
  チクチクチクチク
  針を動かして、思い出す―――

  名前を呼ばれたそのとき。周りの音も何もかも消えて、そこにいるのは私と彼だけのような気がした。
  別々の中学校に行ったので、時おり思い出すことはあっても、もう会うことはないと思っていた。
  久しぶりに会った彼は小学生のときの可愛らしさがすっかり消えて、それでも綺麗な顔で相変わらず真っ直ぐ私を見ていた。

  久しぶり。元気?

  相変わらず静かに話すその声には、以前の子どもっぽさがなくて、私は余計にどきどきして真っ赤な顔でただ頷いた。

  また、会える?

  そう聞いた声に何か彼の気持ちが込められている気がして、頷いて顔を上げると、彼はふわりと微笑んだ。
  その微笑みは私を縛って、彼が去ったあともしばらく動けなかった。
  有名高校に通う彼と完全に施設に預けられた私。
  実際に会うことはないだろうという私の想定を裏切って、数日後、彼はあっさり施設に訪ねてきた。
  戸惑いと驚きで目を丸くする私を見て、彼は柔らかく笑った。
  彼は何度も私を訪ね、連れ出し歩き回った。
  ゆっくり歩きながら、彼に問われるまま話した。公立の中学校に通っているときに両親がそれぞれ失踪したこと。施設から高校に通っていて、卒業後は施設を出て働かなくてはいけないこと。

  お前、勉強好きなのに。

  私の話を黙って聞いたあと、彼はぽつりとそう言った。
  その声がなんだか心から悔しそうで、嬉しくてつい涙がこぼれた。
  一度こぼれた涙は止まるどころか堰を切ったように溢れた。
  汚い泣き顔を晒すのが恥ずかしくて下を向いて唇を噛んでいると、ふわっと温かく包まれた。
  彼に抱き締められていると解って戸惑いと恥ずかしさで固まっていると、上から静かに聞かれた。

  俺に、こうされるのは嫌か?

  小さく首を横に振ると、フッと吐かれた息が耳にかかった。
  くすぐったくて身を捩ると、彼は腕の力を強めて逆の手で私の髪や背中を優しく撫でた。


  ぁぁぁぁぁ―――

  はっと瞬きをして、傍らを見る。
  近くで作業していた先輩が笑顔で、いいから行きな、と手で示すのに礼をして、急いで別室へ行く。
  先程まで賄いの料理がずらりと並んでいたその部屋はすっかり片付けられていて、広々としていた。
  この工場は、オーナーがイチから拘りを持って造ったので、工場というより大きな家という造りだ。さっきの賄いもここの台所でプロの調理師さんが作っているらしい。
  今は静まり返った広いホールの片隅に置かれたベビーベッドに抱えていた赤ん坊をそっと寝かせる。
  私と彼の子。
  愛の結晶なんて綺麗なことは言わない。
  でも、この子の存在が私と彼との思い出の全て―――


  この子を授かったと解ったとき、彼に伝えようとは思わなかった。
  あの人に言われなくても。
  ただ、あの人に言われたことで産む決意は強くなったと思う。
  この子が大きくなったとき。お父さんが居なくてごめんねと謝ろう。でも、あなたのお蔭でお母さんは独りじゃなくなったの。無事に産まれてきてくれて、私の子どもとして産まれてきてくれてありがとう。
  必ず伝えるから、許してほしい。
  あなたのお父さんのことを、最初から遠くから眺めるだけと思いこんだ私を―――


  ガチャッ

  ドアが開いて、きらびやかなスーツ姿のオーナーが入ってくる。
  「ここにいたか」
  私の前に座りこむと、授乳が終わった赤ん坊をサッと抱き上げて背中を優しく擦る。
  「ほら、オヒメ。ちゃんとゲップしていっぱいネンネしな。もっと可愛くなるんだからな」
  「オーナー、スーツ汚れますよ?」
  たぶん仕事前だろう上等のスーツで床に座りこみ、赤ん坊を抱き上げてあやすオーナーが一番変わっているのかもしれない。
  「スーツなんて着替えりゃいいだけだ。それより、未来の顧客のための営業だって大事なんだよ」
  この子が店に通えるようになるまで現役続けるつもりですか?
  この子にホスト通いさせるつもりですか?
  どちらも聞けなかった。雇われていて、しかもものすごくお世話になっている身としては。
  言葉通りスーツの皺を気にせず赤ん坊を抱いて優しくあやしながら小さな顔を覗きこんでいたオーナーは、私の顔を一瞥して舌打ちした。
  ものすごく面倒をみてくれるけど、個人的には私のことは嫌いなのだと思う。
  「お前、今日はもう上がれ。無理するなって言ってるだろ」
  「いえ、仕事を中断させてしまって申し訳ありません。でも、この子も落ち着きましたので」
  うるせぇ、と唸る声で身を竦める。
  大声ではないけど、迫力があって逆らえない。
  「お前が落ち着いてないんだよ。やらなきゃいけないことをやれと言っただろうが。お前は帰って栄養あるもの食って寝ろ。そんなガラス玉みてぇな目でオヒメを見てやるな」
  一息に言うと、オーナーは片手に赤ん坊を抱いたまま私を引っ張りあげて工場の入り口に歩いていく。
  「ちょっとぉ。乱暴にしちゃダメじゃない!あと、その子の荷物持ってくるからちょっと待ってよ」
  ドスドスドスッと音をたてながら先輩が慌てた様子で走ってくる。
  「後で一緒に届けるからいいんだよ。とりあえず今日ミーティングいれるからリーダーたちに連絡しとけ」
  「なによ!エラソーに言ってくれちゃって!アタシはあんたの女房じゃないのよ!」
  「一応オーナー様だからな。それに、嫁にするんならもうちょい外見も中身も柔らかいの選ぶ」
  憤慨して地面を踏み鳴らす先輩に不敵に笑ってオーナーは私と赤ん坊を連れてずんずん歩く。
  途中で私たちを珍しそうに振り返る人たちはいたけど、声をかけられることもなく寮まで連れてこられた。
  「いいか。お前は今日これからすぐ寝るんだ。オヒメが呼ばない限り、とにかく寝ろ。その目がまともになるまでお前は工場に出入り禁止だ」
  赤ん坊を布団に寝かせたのを確認してから、オーナーはキッパリ宣言した。
  「で、でも」
  働くことを許してほしい。この子のためにも、早く仕事が出来るようになりたい。
  そう訴えようとしたけど、オーナーの厳しい目付きに言葉が出てこなかった。
  「一人でやろうとするな。そんな目でがむしゃらに働いてオヒメを独りにするつもりか」
  独り。
  その一言に全身が強張る気がした。
  目付きを少し柔らかくしてオーナーが私の目を覗きこむ。
  「寝ろ。いいな?」
  頷くと、よし、と微かに笑った。
  「後でお前の荷物と食べるものを届けるから、ちゃんと食べて寝ろよ」
  オーナーが玄関を出てドアが閉まると、外から施錠される。
  私は適当に服を脱ぐと、赤ん坊の隣に潜りこんで目を閉じた。


  彼への気持ちを自覚するのは早かった分、それを隠すのは大変だった。
  彼は小学生のときから皆の憧れだから、惹かれてしまうこの気持ちは皆と同じ。一時の憧れなのだと言い聞かせた。

  連れて行きたい所があるんだ。

  その言葉に、自分が特別だと言われているような気がして喜ぶ一方、こんな言葉を他の女の子にも言っていたらと切なくなった。
  連れてこられたのは、再会したプラネタリウムで。
  他に誰もいないのが不思議で首を傾げていると、ニッと笑った。

  今日、点検日だから客はいないんだ。貸し切りだな。

  その笑い方が今まで見たどの笑い方とも違う悪戯っ子みたいな表情で、見蕩れているうちに席に連れていかれた。
  座ってシートに凭れていると、星が瞬き始めた。
  解説もなく、彼も私も無言で空を見上げる。
  一筋の流れ星を視界の端に見て、小さく息を漏らすと片手がしっかりと包まれる。
  目線を巡らすと彼はじっと私を見ていた。
  夜空の中でも彼の目は綺麗にしかも妖しく光っていて、駄目だと解っているのに目を離せなかった。
  見ないの?と小さく聞くと、彼は妖しく微笑む。

  この空は、何度も見たんだ。

  お金持ちだから、プラネタリウムなんて何度も来ているのかも。
  そう思っていると、私の手を包んでいた手が優しく手を撫で始める。

  この空は、お前の空だから。

  これ以上目を見ちゃいけない。これ以上体温を感じちゃいけない。
  その思いを崩すように彼の目は妖しく煌めいて手は握りしめた片手を解そうと蠢く。

  この空、お前が産まれた時の空なんだ。

  近くで囁かれる声が艶を帯びていて、どう抗えばいいのか解らなくなる。

  お前に会えなくなってから、何度もここに来て空を見たんだ。ここでお前に会えたのは、俺の一番の幸運だと思う。
  それを、俺の独り善がりにしないでくれ。

  その声が妖しさの他に切なさも孕んでいて、口を開いてしまえば必死で押し込めていた感情が出てしまいそうで、ぎゅっと目を閉じた。
  唇を覆った温もりに驚いた瞬間に弛んだ手を開かれ指をからめられ、ただ与えられる熱に酔いしれた。
  翻弄された、とは言いたくない。
  あのとき、私は一番満たされていて一番幸せだったのだから。


  目を開けると、四角い空がすっかり夜でびくっと跳ね起きた。
  午後すぐに帰ってきてから、こんな遅くまで寝ていたの?
  慌てて隣を見ると、赤ん坊が居ない。
  全身の血が一気に下がる思いで辺りを見渡す。
  「―――あぁ、良かったな。ママ、起っきしたぞ」
  大切そうに抱いた赤ん坊を見つめてそう言ったその人を、ただじっと見つめる。
  「一度起きたからミルク飲ませた。それで、さっき風呂に入れたんだよ」
  「…………………………ぇ?」
  掠れた声しか出ない。
  なぜ、ここに彼がいるんだろう。
  なぜ、あの子を見て驚かないんだろう。
  なぜ、赤ん坊の世話に慣れているんだろう。
  数々の疑問にただ固まる私の腕に、彼は赤ん坊を優しく抱かせる。「さ、せっかくだからママにおっぱい貰おうな」と言いながら。
  見下ろすと娘は嬉しそうに目をキラキラさせていた。
  あぁ、この子は彼の子だ。
  嬉しくて泣かないように目を瞬かせて娘を抱き直す。
  おっぱいをあげていると、次第に彼の存在が不思議に思えて仕方ない。
  チラリと窺うと、彼はタッパーを幾つもテーブルに並べていた。
  目が合うと、満足した表情でいつの間にか眠っていた娘をそっと抱き上げ布団に寝かせ、私をテーブルに連れていく。
  促されて、見られる気まずさを感じながら少しずつ口に入れる。
  最近よく食べていた味だと解り、そういえばオーナーがあとで食べ物を届けると言っていたことを思い出した。一緒に私の荷物も届けると。
  目で探すとドアの近くに大きめの鞄が置いてあって、安心のため息が出た。
  「ちゃんと食べろよ」
  少し怒ったような声で言われて、彼を見る。
  怒っているような、心配しているような表情で私を見ていた。
  「お前、痩せすぎだよ。元から細いのに、それ以上痩せてどうするんだ」
  「それ、オーナーにも言われた………」
  彼とオーナーは知り合いだったのだろうか?と首を傾げていると、彼はムスッと顔をしかめる。
  「大体、なんでアイツがお前の心配したり面倒みたりしてるんだ。父親なのに今まで会わせてもらえなかった俺に言うことは?」
  大きくはないけど低い声が彼が心から怒っていると表している。
  「ごめんなさい。でも、施設育ちの私が身籠ったなんて外聞が悪いと思って………」
  もごもご呟くと、彼は片眉を上げる。
  「外聞て誰のだ」
  さらに低い声で問われて身を竦める。
  「妊娠するように抱いておいて放置する方が余程外聞悪いだろうが」
  彼の言葉になにか危険な雰囲気を感じて身を竦める。
  私の妊娠は偶然のことだと思っていた。でも、彼には想定内だった?
  「だって。だって、避妊………」
  「最初だけな。後はしてない」
  あっさり言う彼に言葉を失う。
  肌を重ねたのはあの日だけ。至るところを触られて溶かされてあっという間のことのように感じたけど、帰り道の空が真っ暗で驚いたような気がする。気がついたときには服もきちんと着せられていて車の中で抱き抱えられていたから、時間とか回数なんて解らなかった。
  「なんで、そんなこと」
  「お前を手に入れるために決まってるだろう」
  呆然と呟くと、当たり前のように言われる。
  「俺のことを好きなクセにちっとも寄ってこようとしない。俺がお前を彼女として連れ回してるのに、お前はイチイチ小学校が同じでと訂正して回る。ストレートに告白してもマトモに受け入れなそうだから、実力行使に出た」
  彼の言葉を聞いているうちに頬がジワジワ熱くなってくる。
  「な、んで。私、なんか………」
  エリート街道を歩む彼が、なぜ私なんかを欲しがるのかが解らない。
  彼はふぅ、と息を吐くと少し穏やかな声で話し出した。
  「俺の親は、実の親じゃない。実際には遠い親戚らしい。実の親や俺が引き取られた経緯が全く語られないから、俺が養子であることを知る人間は親族の中でも少ないだろう」
  何と言っていいか解らなくてただ見つめるが、彼は淡々と話す。彼の中ではすでに終わった出来事なのかもしれない。
  「親が誰なのかはっきり解る分、お前の方が余程ちゃんとしてる、と思った。話しかけたかったけど、俺の周りには無駄にわらわらいたし、お前はいつも真っ直ぐ前を見ていて常に周囲に壁を作っていて、近付けなかった。まぁ、実際にチャンスがあっても何と話しかければいいか解らなかったと思うが」
  お茶で喉を潤し様に、いいから食べろよと勧められるけど、手が動かない。
  「私立の中学に入れられたのは正直誤算だったよ。所詮遠縁の養子だからと高を括っていたけど、あいつらは俺を仕立てあげて後継者を狙わせようとしていた。帝王学や経営学はともかく薄っぺらい婚約者候補なんて押し付けられて迷惑だった」
  婚約者候補。その一言にピクリと肩が揺れる。
  一度会ったあの人が、その婚約者候補だったのかもしれない。
  私の目を見て、彼がため息をついた。
  「やっぱり、あの女に会ったんだな。何を言われた?」
  必死に首を横に振る。
  私が彼の前から姿を消したこととあの人は関係ないのだから。
  彼がもう一度大きくため息をついた。
  「まぁ、いい。どうせもう関係ないからな」
  「関係ないって?」
  彼を見つめたまま首を傾げる。
  婚約者なら、一方的に関係ないと言われても簡単に納得できないと思う。
  「親族も婚約者候補も関係ない。もう縁は切れた」
  あっさり言われた一言に目を見開く。
  「これまで株で儲けた金と起業した事業の権利を諸々の手切れ金代わりに置いてきた」
  「株?起業?」
  いきなり聞いたセレブな言葉に目を白黒させていると、彼は少し苦笑する。
  「お前ときたら、俺がどれだけ稼いでるとか気にもしないんだな。あいつらは、目の前に積んだ金と権利で簡単に俺を諦めたぞ」
  だってそんなこと気にしても仕方ないじゃない。私には関係ないと思ってたんだから。
  ちょっとムッとして睨むけど、彼は構わず、まぁ、と続けた。
  「ホストと付き合い出したと騒ぎになった時点で向こうも棄てる気だったんだから、放り出す前に大金が入って良かった、ってところじゃないか?」
  疑問形で言われても何と答えればいいかなんて解らない。
  いや、その前に。
  「ホスト?」
  聞き返した途端に彼は眉をぎゅっと寄せた。
  「お前がオーナーって呼んでるアイツだ。俺はお前が姿を消してから今日の数時間前まで、ずーっとアイツのテスト受けさせられたんだぞ」
  「テ、テスト?」
  テストといっても、それまでやっていたことと違いはなかったそうだ。
  「テスト自体は大したことないが、顔を合わせる度にお前たちのことをベラベラ話すのが気に入らなかった」
  彼の口調に刺々しさを感じて首を捻る。
  オーナーはお喋りな人ではなかったと思うけど。
  「あの、会えない分私とあの子の様子を聞かせようって気遣ったんだと思うけど」
  そんなわけあるか、と彼は忌々しそうに言う。
  「あれは自慢だ。大体、なんでアイツが検診や出産に付き添うんだ」
  全部オーナーに付き添ってもらったわけではない。オーナーの都合が悪いときには先輩に代わってもらったこともあるけど、それを言っても意味はなさそうだ。
  「今日からは、俺が全部付き添う。お前の心配するのも無理させないのも俺の権利だ。解ったな。もう逃げるなよ」
  脅すように言われたけど、不思議と怖くはなかった。
  ピタリと私と娘に寄り添って世話をやきながら、時おり「ここだってアイツが用意した場所なんだ。さっさと引っ越してやる」とふてくされたように呟く姿がなんだか可愛く思えてしまった。
  あの日限りと思っていた幸せに囚われたのだから、もう逃げようなんて思わない。





  ◆ 工場のある一室にて ◆

  「あーぁ、もぉぉ~。こんなに高いお酒ばかりジャンジャン呑んじゃってぇ。どぉせ呑むならお店で呑んで来なさいよぅ」
  「うるせぇな。仕事で失恋酒なんてできるかよ」
  男は上半身をほぼテーブルに預けながら尚グラスに酒を注ぐ。
  「あぁっ。そのお酒はそんな乱暴に呑まないでっ………大体、失恋て最初から解ってたことじゃない。だから、あんたもカレのこと応援してあげたんでしょ?」
  ケッとらしくない様子で男は身体を起こす。
  「だぁれが応援なんてするか。俺はな、アイツにひたすら金儲けさせて、その間に落とそうとした女に認識もされなかった男なんだよ。腹立ち紛れにアイツにもっともーっと金儲けさせるんだよ」
  「ハイハイ。そうしてあの子たちの新生活が上手くいくように準備させてあげたのよね?もーっ、あんたって佳い男ねっ」
  声をかけながら度の強い酒ややけ酒にまわすには高価すぎる酒を静かに隠す。
  「男によぅ………男にモテたってどうすんだよ………なんで俺、敵に塩送ってんの?明日からアイツらがラブラブイチャイチャしてるのに、俺働くの?」
  「心はピチピチの乙女なのっ。体の性別なんて意識させないで!あんた、自分で決めたんでしょう?あの子のために」
  ダメ元で渡した水を、意外にも男は一気に飲み干した。
  タンッと音をたててコップを置くと、ニヤッとヒトの悪そうな笑みを浮かべる。
  「そうだ。ふざけた真似した女にアホ面かかせてやる。あいつがちゃんとした面できるようになるまでに作品も会場も準備できるんだよな?」
  モチロンよ、と胸を張る。
  その女がいなければ、そもそもあんたがあの子に会うこともなかったんじゃないの、とは言わずに。
  「店舗を出すから宣伝の映像に使うとかなんとか理由つけて………結局あの子にウェディングドレス着せてやりたいだけじゃないの。カレの置き土産の企業、すでに経営傾いちゃってんでしょ?カレとあの子の幸せな結婚式なんて見せびらかして、大丈夫なの?」
  空いたコップを弄びながら、男は軽く目を細める。
  「向こうからつまらない手を出してくるなら、俺たちのやり方で料理するだけだ」
  伊達に長年歌舞伎町のNo.1ホストを背負っているわけではない。その人望は理想通りの工場を簡単に実現させる程のものであり、その人脈は計り知ることができない。
  相手が経営者一族だろうと堅く守られた令嬢だろうと、破滅なんてものでは済まないだろう。
  一度男が排除対象と見なしたならば。
  頼りになる男だと思う。敵には何がなんでもなりたくないとも思う。
  あの子は何も知らずにただ幸せに囲われるだろう。カレは男の裏について何か感じる所はあるかもしれないけど、どうこう言うつもりなんてないだろう。あの子が自分以外の男のことを思い描くことすら耐え難い性分らしいから。
  男はただ、一つの家族を在るべき形に戻すのに手を貸した。それだけで良いだろう。バカな奴らがバカなことをしなければ。
  「とんだ足長おじさん、いえ、サンタクロースかキューピッドかしらね。そこまで必死になるって、やっぱり似てたからかしらね。あんたとあの」

  ガタンッ………

  言葉を遮るように音をたてて立ち上がった男は、ぼんやりとテーブルの上に転がったコップや空き瓶を見つめる。
  「帰る。アイツが暢気に有給とってる間の仕事は俺が捌かねばならん。今のうちに帰って寝る」
  タクシーを呼ぼうか、と聞くが男は鼻を鳴らしただけでわりと確かな足取りでのそりのそりと出ていった。
  一瞬張りつめた緊張感が霧散していくのに、大きく安堵のため息をついた。
  「ヤバいヤバい。まだ逆鱗なのね」
  呟きながら手当たり次第に空き瓶を集め始める。
  「こんな中途半端なアタシたちを集めて予約待ち必至のブランド立ち上げちゃうんだからね。躰で慰めてあげられないのは仕方ないけど、アタシたち皆、あんたの幸せ願ってるんだからね」
  男には届かない祈りを呟きながら、明日の仕事に障りがないよう、丁寧に迅速に片付けをするのであった。





  fin.
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