天国

揺リ

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事件の発生から三週間近くが経過し、幸い僕の身には何も起こらず、何も言われないまま電話も警察から無事返却され、時間がただ阿呆のように去っていくだけだった。あれから、出社拒否をしていた者のほとんどが未だに戻らず、何名かは辞職の届けを出したという話だった。まあだからと言って何と言う事は無く、数の足りない分は他店から助けが寄越され、補われた。更には事件から数日経ってから、取材関係社に対しての受け答え等と言った、事件に関する対応の一切はある一定の役職から上の人々が窓口と決められていたから、僕のような新入社員にとってあんな強盗事件はもう無関係と言っても良かった。いや、無関係になる必要があった。僕にとっては。
帰するところ探偵にだけ本当のことを話し、怪我の事を謝罪することにより本当の意味で僕の中での強盗事件は終結し、あの死んだシャブ中とは縁を切る事ができる。
当初僕は、奴と知人であることが世間に知れ、会社をクビになり、ひいてはハジキの出どころについて口封じするため暴力団に消されるのではないかと危惧していた為に、何日間かはびくびくしながらテレビを点け、ネットニュースを閲覧して世間が認識する事件の形を捉え、暇さえあれば掲示板を睨み、僕に関してのあらぬ噂が拡散されていないかツイッターをチェックする、という毎日を送っていたが僕が恐れている事が別段起こりそうにもないので段々と興味が薄れ、飽きてきた。そんな風にしている内インターネットで、昨今の若者には堅実な人間が多いという内容の記事を見つけ、それを何となしに読んだ僕は、そうか、僕以外にも世の中にはまともで堅実で褒められた若者はいっぱいいるのか、と思いがっかりと落ち込み、スマートフォンの画面をぼんやりと眺め便座に腰かけたまま暫く動けずにいた、ということは別になく、僕以外にもまともで堅実な若者が沢山いるというがそれは至極当たり前の話で、何もそれで僕が落ち込むようなことはないのだ。例えばモデルという業界の中には、手足が長く顔立ちの整った女性ないしは男性がたくさんおり、その中では誰が雑誌の表紙を飾るのか、誰がこの紙面に大きく載るのか、誰がバラエティの世界に進出するのか、誰が世界的有名ブランドのファッションショーに呼ばれランウェイを歩くのかと言ったような、ほんの一握りの者しか手にすることのできない成功を勝ち取らんとして躍起になりながら熾烈な争いを繰り広げていることは言うまでもないが、例え残念なことにモデルとして日の目を浴びることができずスターになり損ねたとしても、世間一般の水準を当てはめてみれば彼、彼女らの容姿の美しさは並外れている。ファッション誌の紙面の隅の方のごく僅かなスペースに収まっているだけの無名モデルでも、全く素人の社会人ばかり集めた合コンでなら持て囃され、異性からの視線と心を一挙に勝ち得ることができよう。であるからして、何も幼くして両親を亡くすという逆境の中計り知れない程の努力の末プロデビューした僕より年下の野球選手とか、親孝行のためと言って月給の半分以上を田舎に送金しているような若者と自分を比べる必要など無く、僕は僕で結構頑張ってるからいいじゃん、と思っておけばいいのだし、そもそもこんな主観的で、一体どんな調査を元に、どこの誰が書いたかも分からぬ記事に一喜一憂することはないしそんな奴は猿以下だ、という発想にはその時は至らず、やはり僕は便座に腰かけたままがっくりとうなだれる他なかった。
そのように気落ちすることもありはしたものの、このまま阿呆のように時間が過ぎ去ってくれることを僕は願った。そう願う僕にとっても世間は飽きっぽいというのも幸いだった。何しろ世の中では常に異常な事が起きており、政治家が政治資金を使いんだ、清純派で売り出しているアイドルがバンドマンと不貞な行為をした、イノシシが田畑を荒らし葱を盗みその際トラックを使って逃走するのを村人が目撃した等、おもちゃになりそうなトピックは絶えないわけであって、未遂に終わった強盗事件に関する人々の関心は着実に薄くなっていった。
当然世間が興味を抱かない事件については放送したところで視聴率が取れないため報道の回数も激減するわけで、その頃からワイドショーでの強盗事件の取り上げ方は、薬物中毒の恐ろしさと言うところに焦点があてられるようになり、もうええやないか、と僕は思った。もうええないか。犯人が分かり切っているからと言って何もそこまでして取り沙汰せんでも。僕は奴を思いながら、お前みたいな人間でも番組で特集組んでもらえて良かったな、誰でもやってもらえることやないぞ、良かったな、と奴が死んでから初めて手を合わせた。全く無意味な特番も、強盗に失敗した上にシャブ切れで発狂し自分の頭を撃ち抜く羽目になった哀れな奴にとっては多少の供養になるかもしれないのだ。

強盗に入られたらしいが自分の口座は大丈夫なのか、無事なのかと言った電話は未だにあった。やはり皆自分のお金ちゃんが可愛いのだ。お金ちゃんは可愛い。確かに可愛い。目に入れても痛くない程可愛い、という事は無いにしても。もしも寝ている間に瞼をおっぴろげられ、五円玉を眼球に押しつけられるような目に合えば、何をさらしとんのじゃおのれ、ぶち殺したる、と叫ぶにしても。外は暑い。僕は涼しい顔で窓口に座っていたところ、昼の休憩のついでに書類をポストに投函するように申し付かり、このくそ暑いのになんぞ俺が行かなあかんのじゃ、俺を誰やと思っとるんじゃ、といったことを思いながらよく晴れた秋の青空のような顔でそれを引き受けた。
その帰り店へと戻るところ、コンビニエンスストアの喫煙所の前を通った時「おい、シンドウ。進むに藤、と書いて進藤」という声が聞こえた。僕はもちろん無視して通り過ぎた。するとあろうことか、
「しかとしとんちゃうぞ。このガキ」と先ほどよりも荒い声が聞こえ、パタパタと足音が迫ってきたかと思えば、尻に激痛が走った。スニーカーの踵でまともに尻を蹴られたのだ。
言いたいことが二つあった。
まず、僕は進藤ではない。
新堂でもないし信道でもない。
二つ目は、尻を蹴られたことについてだが、尻には尾てい骨という物があり、これを激しく損傷すれば痛みにより座るという動作ができなくなってしまう。ということは僕のように仕事中ほとんどの時間を座って過ごしている人間にとって、尾てい骨の骨折は職を失うことへ繋がり、更に座る事ができなければ排泄や食事も立った姿勢のまましなければならなくなり、日常生活を営むことへの困難が強いられる。しかも完治するまでは早くとも三ヶ月の期間を要し、そんな長期間の間座る事ができない状態で家に世話係の人間もおらず、収入源も無いとすればそれはつまり死を意味するのであって、他人の尻を蹴るという行為はこれ殺人に等しいのである。僕が殺される謂れはどこにも無いはずで、では何故突然尻を蹴られなければならないのかというと理由は唯一つで、僕が進藤とか言う人物に容姿がよく似ているのだろう。犯人はこの進藤に対して非常に強い憎悪、怒りを抱いており、そこへたまたま通りかかった僕を見て犯人が進藤だと勘違いし、殺そうとしたのだ。
何たることか。濡れ衣、という言葉が頭に浮かんだ。進藤よ。お前一体何をしたのか。
逃げるべきだろうかと思った。だが犯人は追いかけてくるかも知れず、そうなると殺人犯に職場を突き止められてしまうかもしれないしそれはまずい。しかし自分が進藤ではないことを今ここで弁解し、誤解を解いておいておくべきではないのか。いや、まて。と僕は思いとどまった。犯人は僕を進藤だとすっかり思い込み、肥大化した恨みによって凶悪な殺人犯と化している。そんな人物とまともな話し合い等できるだろうか。
否。
ただちに銀行へかけこみ、助けを求め警察を呼んでもらえばいい。
そこまで思い既に走り出さんとしていたが、好奇心から僕は振り向いた。遠心力により頭がごろっと落ちそうになる程には素早い振り向き方だった。
すると。まあ、意外や意外。うら若き小柄な美人。どことなく、引退直前の頃の百恵ちゃんに似ているではないか。得体の知れぬ化け物のイラストが施された物騒な絵柄のTシャツの下から覗く、もうそれ着用する意味ある?熊にやられた?と思わず問いたくなるようなズタズタに穴が開いたジーンズ。その穴から剥き出しになった脚とシャツから伸びる腕は針金のように細かった。その腕の先の、針金のような指の間に煙草の煙が揺れていて。だが華奢で百恵ちゃん似の美人だからと言って惑わされてはならぬ。何せ人の皮を被った凶悪な殺人犯なのだ。それに僕はあの三人の中だったら桜田淳子が一番好みだ。にしてもこの娘と進藤の間に一体何があったのか。やはり男と女ということになると、痴情のもつれだろうか。それとも金銭トラブルだろうか。親の仇ということも考えられる。
暫く黙って考えていると、女が親しげに笑った。股の間が冷たくなった。「し、ん、ど、う」
「人違いです。じゃあ」と答えて普通より少し早歩きでその場から立ち去ろうとした僕の肩を、女はがっしりと掴んだ。何と言う力だ。肩が砕けそうだ。ゴリラなのだろうか。
「痛い、痛い。肩持ってかれる」「えらい固まってんな、思った通りや。疲れてはんねんよ、進藤君」「僕、ちゃいます。進藤と。僕の名前はケラリーニ・サンドロビッチです」「そんな進藤君にぴったりな、ええとこあるから着いておいで」「それはいかがわしい女郎屋の類ですか」「時間ある?二、三十分でええねんけど」これは会話等と呼べる代物ではない、会話のキャッチボールという言葉があるように、会話というのはのはお互いを結ぶ話題について楽しく盛り上がったり、時には意見をぶつけ合ったりするもので、この傍若無人な娘は僕が投げるボールを全く無視して八百屋から盗んできた西瓜を壁に叩きつける等していて無茶苦茶だ、というような事を僕は考えながら、この女の目的は何だろう、とも思った。明らかに何かしらの犯罪行為であることには違いないが、通りすがりの僕を進藤呼ばわりし、肩が凝っている等と難癖つけてどこかへ誘い込もうとしている。その先にはこの女にとってのどんな利益が待っているというのだ?
大方、客が取れなくて焦った末昼間のビジネス街にまで自ら繰り出し、誰でも良いから座敷へ引っ張りこまんと躍起になっている傾城なのか。否。こんな別嬪であればそんなことをせずとも、あっという間に日本中の話題となり、客に指一本触らせずに一日百万くらい稼いでおっても不思議ではない。
では何か。一日十分首周りに装着するだけで肩や腰の痛み、目の疲れが取れ更には何か知らんがポジティブな気持ちになれる魔法のクッションを三万円で売りつけようとしているのか。疲れ果て、憂いた顔をしているサラリーマンに声をかけて。それなら有り得なくもない。可憐なおなごだと思って、まあ話聞くだけなら、とかうっかり着いて行こうものなら、薄暗い事務所で指の先まで墨だらけの屈強な男に五,六名に囲まれて睨まれ、泣く泣く金を払って黴臭い座布団を買わされる危険性がある。
色々考えはしたが、結果、着いて行った。既に休憩終了時間は迫っていたが、美人の誘いは断れぬのが男の悲しき性というもの。トホホ。とか思いながら着いて行った先はクリーニング屋であった。古臭くて窮屈だが一見して普通のクリーニング屋である。モスコクリーニングとテント看板に白抜き文字で記載されていた。その看板が排気ガスにさらされ煤けたような黒ずみに塗れ、酷く悲し気な色になっていた。
「何ですか、ここは」僕が尋ねると女がなんでもなさそうに、バイト先、と言った。益々分けがわからなくなると同時に出会ってから初めて会話が成り立ったことに密かな感動を覚えた僕をまたぞろ無視して、彼女はビニールに包まれ衣紋掛けに吊るされた服と服の間に体を突っ込み、ステレオを引っ張り出し、スイッチを押した。
音楽が鳴り出した。
エルビス・プレスリが歌う「青い布靴」だった。それが結構な音量で、ガラス扉の隙間から前を通る人々へ聞こえてやしないか気にしようとしたが、しなかった。女が曲に合わせて体を前後に揺らす、珍妙なステップを踏む、唇を突き出しながら首を振るといった奇怪な動きを始めたため、音量を気にする余裕が無くなり、代わりに命の危険を感じた。狭い店の中で構わず動き回るものだから、足を靴の先で踏まれる、肘が顎に当たる、という害も被った。彼女は時折僕を見て激しく頷いたり、両手の指を打ち鳴らしながら歌ったりした。エルビスの声に女の声が混じった。曲が終わると、満足したようにぶつっと音を立ててデッキの電源を落とした。そして真面目な顔で僕に向きなおった。
「私の名は椚真知子と申しますが」「それはいいんですが、何で急に踊るんですか。僕、どないしたらよろしんですか」「聞きたいことがあるんですが」「あくまでも僕のことは無視したろというわけですか。いいでしょう、あなたのそのぶれない感じ、嫌いじゃない事もないです」「例の強盗があった銀行の職員ですね、進藤君」「あえて僕が進藤ではないということについては今後否定しない方向で行かせて頂きますが。いかにも、僕はあの銀行で働いておりますが」「あの日、拳銃を突き付けられても臆することなく犯人に立ち向かった人物がいた、と聞いたんですが本当ですか」
僕はその質問について少し考え、その人物が探偵を指していることに気が付いた。事実からは甚だかけ離れてはいるが。
さて、僕はどうすべきか。考えた。この椚という女は恐らくネットか何かでこの噂を目にし、命をも顧みず悪へと挑んだ名も知らぬ勇敢な男に恋をしているのだろう。事件に関係した僕を通じて、そのヒーローに会いたいと望んでいる。
可愛らしいことではないか。
健気な乙女の夢を壊すなど、無粋。ならば本当のことは言わず、黙っておいた方がいい。そして撃たれて死んだことにしよう。
「椚さん」夢を壊すまいとするならば彼女の中で、探偵を英雄のまま死なしてやろうではないか。ということになるのだが、僕は迷わず本当のことを話した。「誰から聞いたのか知りませんが話が違うようです、彼は単なるイキがりの痛いおっさんです。しかも撃たれて泣きわめいてました。死にたくない、とか言ってました」
現実を知ってこそ、人は大人への階段を上ることができるのだ。だから僕は涙を飲んでこんな、野暮な真似をした。本当はこんなことは言いたくなかった。だが嘘をつくことなどできようか?世間を知らぬ少女が、これから先騙され傷つけられるようなことのないよう、人というものの汚さを教えるため敢えて僕はこっすい人間へとなり下がったのだ。ああ、辛い。死にたい。消えたい。ラーメン食べたい。だがこれも必要な犠牲というもの。
「どうにか会わせていただきたいんですが」椚は言った。完全に僕の犠牲は無駄になった。
「やめておきなさい。悪いことは言わんから」「銀行へ来ます?何時頃来ます?」「やめとけ、と言ってるんがわかりませんか。彼はハードボイルドを拗らせたおっさんです、ただの。柄悪いだけでぱっとしない、残念な、本当に残念な男です」
僕がそう言ったとき携帯が震え出した。銀行からに決まっている。休憩時間はとっくに超過していたのだ。
「まあ、いいです。どうやったら彼に会えるか、ゆっくり考えましょう」椚はそんなことを言ってまた音楽を鳴らし踊り始めた。青い布靴が再び鳴り響く。
「明後日の夜」僕は諦めて言った。轟音の中、叫ぶようにして。「食事を共にする約束をしておりますが」
午後七時に、と付け足した。場所は例の西成にある喫茶店。あすこは夕方六時頃からうどんやかつ丼がメニューに加わると探偵が言っていた。「萩之茶屋二丁目の、ムンクっていう喫茶店、そこに来てもうたら、おりますよ」
曲の途中だったが、椚は音楽を止めた。それが、わかった、行く、という返事の代わりだと僕は捉えた。
僕は改めて椚という女を真正面から見た。
ズタズタのジーンズと悪魔のような顔が描かれたシャツの上に、清楚で可憐な顔が乗っかっているのは、奇妙な光景だった。廃ビルの中で、桜の木が花びらを散らしているような。
「踊るしかないやろ、退屈やもん」椚は歌うように言った。もはや僕に対して言っているのかどうかも判然としなかったので黙ったまま曖昧に頷き、外へ出た。青い布靴が再開した。やはり外まで聞こえた。ガラス戸の向こうでステップを踏む彼女は、心無しか始めより上機嫌に見えた。

電話にも出ず休憩時間を三十分も過ぎて帰った僕は、突然めまいがしてバス停に座り込み暫し動くことができなくなっていたと他の社員に話した。ちょっと無理あるかな、と思ったが誰もがあっさりそれを信じ、疲れてるんやろな、可哀想に、今日暑いし連勤やったもんな、休憩室で少し休み、気分治らんかったら早めに帰ったらええよ、と労いを口にした。僕は、普段から真面目に頑張っているからこそ誰からも信頼を得ている自分自身に心から感謝した。
彼らの言葉に甘えて休憩室にじっとこもる僕は今、実際頭を痛めていた。
あの女を何故誘ってしまったのか。答えは簡単で、狭苦しい店の中ワイシャツやワンピースに取り囲まれた圧迫状態で「青い布靴」を、しかも爆音で浴びせられたために精神が弱り果てていたからで、後は、椚が美人だったから、というのもまあ、ちょっと、ある。ええか、よお聞けよ。何さらそうがお前の勝手やけども、俺のこの青い布靴だけは踏みなや。ええな、踏みなや。もう一回言うぞ、俺の靴を踏むな。分かっとるやろな、いてまうぞこら、ガキ。そんな歌で踊りながら椚は僕のアオキで購入した二万九千円の革靴を踏みまくっていたが。今思えば、さっさと走って逃げて帰って来れば良かったのだ。余計なことを言ってしまった。僕が探偵に会うのは、彼の腕に怪我をさせたのが自分の知人であり、その知人に自分が強盗するように嗾けたことを告白し、謝らなければならないという目的があるわけで、全く関係のない第三者がそこに入ってきたりしたらそんな話を切り出すことはまず不可能であり、つまりは探偵と二人きりでないと、謝る機会が遠のいてしまう。いかん。
そもそも、何故僕はまともじゃない人間とばかり週末に会う約束や飯を食う約束をしてしまっているのか。
探偵と、椚真知子。
確かに探偵は面白い男であるし椚は稀に見る器量良しではあるが、二人ともどう考えてもまともでない。僕はまともな人間の筈であるのに。
いかんではないか。こんなことでは。

その二日後探偵と喫茶店できつね饂飩を誂え、過剰な冷房の風によって冷めない内にいそいそと食べ終わった後、前と同じように探偵物語について僕たちは話し合っていた。
断りもなく、見知らぬ人間を呼んでしまったことを言い出し辛く、探偵には椚という女が来ることは伝えていなかった。だが椚は七時半になっても姿を現さず、もしかしたらこのまま来ないのではないかと思った。それはそれで、別に良かった。探偵と二人でないと、例の強盗事件に関する打ち明け話など、到底できないのだ。
「何なん、ぼけっとして。聞いてんか」探偵は不服そうな声で言った。
僕は灰皿の中に山のようになっている吸い殻に、無意識に向けていた目線を上げた。「あ?ええ。はい、何でしたっけ」「アルバムの話やんか。優作の、貸したろかって言ってんねん」「歌も出してはったんですか」「そうや。かっこええやろ、かっこええよなあ」「そら、また貸してください。すんません、いつも」「ええねんよ、感想聞かせてや」「はい。そう、あの」僕はそこで言葉を止め、探偵の腕から手をすっぽりと覆う厚くて白い布を見つめた。会うたびにその布が、段々と薄くなっていることに嫌でも気づかずにはいられなかった。探偵の怪我はいつまでも治らないのではないか。そんなあり得ないことを期待していた自分にも気づいたが、気づき次第すぐに殺害、山に埋めた。こいつの、怪我がすっかり治る前に、告白せねばならぬのだ。
すっかり治った後では、どうなのだろう。いや、いかんのだ。それでは。冗談と言えど自分の発言を真に受けて強盗を実行したあの阿呆に代わって、その弾を受けた被害者に面と向かって全てを話し、頭を下げんねばいかん。それは、彼の怪我が治る前にせねば何の意味もない、少なくとも僕にとっては。何も言えぬまま探偵の腕の傷が癒えていくのをただ眺めている、というのはまともな人間のやることではないし、探偵が左腕を使えぬ内が、僕がまともで良識な人間であることを示すことが可能な謝罪の有効期間なのだ。
だが先にも感じたように、僕は恐怖していた。紛れもなく、探偵の反応が、怖かった。今こんなことを思ったって仕方がないが、あの見舞いの場で話すべきだったのだ。あの場で終わらせなかったことこそが僕の間違いだった。だがそれがなければ、僕は探偵物語を知らずにいた。こんな場末の喫茶店で冷房風に吹かれ、まずいコーヒーを飲みながら、優作について語らうことなどなかった。
終わるだろう。多分。
もうここまで来てしまっているのだ。探偵の怪我は、確実に治りつつある。いくらでも話す機会はあったのに、今まで黙って、友人のような顔をしていた。その事を探偵はどう思うか。終わるに決まっている。探偵の中で、僕のことは終わる。
けれど、それが何だと言うのだろう?言ってしまえばそれでいいのに、今までのように、幾度となく金を借りたままとんずらをこいてきたように、探偵の事も通り過ぎてしまえばそれでいいというのに。がっかりされることが、二度と顔も見たくないと思われることが、何なのだろう。テレビ番組を、終わらせればいい。認めたくはなかったが、僕は覚悟を決めかねていた。「ちょっと言うて、いいですか」
打ち明ける覚悟が決まらないまま打ち明けるというのは、練習も十分にできていないまま発表会に出ていくようなもので、とは言え練習等というものは考えようによってはいつまで経っても終わらないもので、他人が作った曲を完成させるなぞある意味無理な話で、つまり覚悟が決まるのを待っていたりすればこの話は永遠にできないのだ。
「何じゃい」気づけば僕は探偵の顔をじっと睨んでいたようで、探偵は気味悪そうにしていた。「怖い顔して、何じゃ。何でも言うてみ」
その時、僕の後ろでチリンチリンと涼し気な音が鳴った。扉が開かれたのだ。向かい合っていた探偵が、扉の方を見たまま動かなくなった。口が半開きだった。
椚が来た。入ってくるなり店内にかかっている曲に合わせ、踊りながらこちらへ近づいてきた。探偵も席を立ちあがり、踊っていた。店には三人程他の客がおり、煙草やカツを口に挟んだまま狂ったような様子の美人を珍しそうに眺めていた。老齢の店主だけが無音のテレビを見つめたまま動かなかった。
椚は僕の隣に腰かけた。僕は一体何と説明しようかと思いながら向かいにいる探偵を見ると、完全に惚れていた。椚に。無表情な顔面の皮膚がだるだるに弛緩して伸びきっており、口の周りと目の下に至っては溶けかけていた。黒いレンズから覗く目はだらしなく、べっとりと椚の顔に張り付いていた。
結構。
と僕は思った。
結構なことではないか。椚も、探偵に恋い焦がれ、ここへやって来た。両想い。おめでたや。僕はこの二人の前途を祝し、末永き幸せを心から祈った。二人が結婚式を挙げるのであれば、僕はそこに野生の猿を五十匹放つだろう、とも思った。
「初めまして」探偵は、その伸びきった間抜けみたいな顔のまま、言った。
「椚さん、彼が探偵です。例の、勇敢な男」ほら見てみ、期待外れやったやろ、という意味合いも込めて僕はそう言い、椚の横顔を見た。
「私、椚真知子」もはや文句の言いようもない、美しい横顔だった。「ところでバンドやらへん?」
時が、進むのをやめた。

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