天国

揺リ

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あの喫茶店とは違い、真夏日の中歩いてやってきた客を迎え入れるに相応しい温度に保たれた快適な風にあたりながら、僕は昨日探偵と交わした会話をぼんやりと思い出していた。
「治りはったんですね」思い出してから分った事だが、僕は随分と呑気にそう言っていた。
「まあな」探偵もまた、随分と嬉しそうだった。「化膿止めと痛み止め飲んでやな、リハビリするだけやわ。びっくりしてるわ、医者先生も、えらい治り早いって言っとったわ」「若さは無限すね、ええなあ」「アホか、お前のんが若いやろ」何もおかしいところはないのだ。傷が治り、それを慶ぶ人間と、喜ぶ人間の間で執り行われた、ごく自然な会話だった。変なところは一つもなく、理にかなっているのだ。理に、かなっている。
勤務中にはそうぼんやりとばかりもしておられず、僕は指名を受け、カウンターへと移った。銀行の職員はそれぞれどのような客を扱うか割り当てられており、僕の所には主に、定期預金を作りたいのだがどうすればいいか分からない、外貨で預金をしたいのだが知識がなく途方にくれている、という悩みを抱えその段取りや手続きの方法について教えを請う人々が訪ねてくるわけで、その日も迷える子羊が自動ドアをくぐってやってきたので、僕は天王寺の母、ことカリスマ占い師、みたいな気分で客と対面したのだが、年の頃三十代前半と見えるその客が、どうも妙な男だった。僕が名乗りながら名刺を出すと、「知ってるよ」等とぬかすのである。そしてにこやかに言ったのだ。「君に会いたくて来てん」
それを聞いた僕は、樋熊の檻に放り込まれたうさぎの如く警戒した。君に会いたくて、という台詞は女性が、あえて希望を言うなら二十二歳から二十五歳の頬をピンク色に染めた身長百六十センチ前後の細身で黒髪ショートカットの目の垂れた笑顔の素敵な女性が僕に言って来るのであれば何らの問題もないのだが、素直に名刺の裏に電話番号を書いて渡してしまえばそれで済む話なのだが、今回の場合は目の前にいるのが男で、しかもその男よくよく見てみればちょっとイケメンだということも大いに問題があり、というものこの僕は実はイケメンというものが嫌いで、こんなことを言うと醜い妬み嫉みだと思われかねないので予め申し上げておくが、別にそういったわけではなく、目鼻立ちがすっきりと整い綺麗に揃った白い歯を見せて笑ううららかな春の午後、みたいな男を見るとどういうわけかひどく不安な気持ちになり、深刻な場合には頭痛、腹痛、眩暈、吐き気、手足の痺れといった身体的不調が現れる場合も、しばしば。今回もまた悪いことに右に挙げたような症状がじわじわと出始めており、そうは言っても客である以上僕の給料に直結するので追い払ったりするわけにもいかず、しかしこの男、僕にはっきりと「会いたくて来た」等と申しており、それはもうこの男が男色であり僕に性的な興味を抱いているということ以外は考えられず、僕はそれに対して本能的に警戒し小動物のように身を小さく固くするしかなく、そしてそんな怯えたうさぎのような僕を見てこの男は可愛い等と思うに違いなく、そんな焦りから尚も身を縮めているしかなかった。
「森口のこと」焦る僕に全く構わず、男は言った。「警察に喋ってへんねよな」
モリグチ、というのが、奴のことだと、この店に強盗に入り頭にハジキをぶち込んで死んだあの男のことだと気付くのにしばらくの時間が必要だった。
「どういう」そしてそれに気付いた時僕の体温は急激に冷え、そして、ドライアイスの湯気のような真っ白く冷たい物で胃の中、肺の中、口の中がいっぱいになった。「どういう、ことやねん」どういうことだか、僕はこの時もう分っていた。この男が何者で、およそどう言った目的で僕に会いに来たのか、僕は分かっていた。
「喋ってへんねよな」男は同じことを言ってきた。ずっとにこにこしていた。気色が悪かった。
「言うてない」「分かる?分かるやんね、組の名前。出してへんかってことね」「だから、言うてない」「うん、分かった。で、君な。森口が俺らの組と仲あるって分かっとって、付き合っとった感じ?」「金を」と言ったところで、僕は自分の声が少し大きいことに気づき、周りの様子を伺った。誰も、僕達のことを気に留めている様子はなかった。
「貸しててん、返してもらおう思って。好きで、付き合っとったわけちゃう」「なんぼ」「千円ちょっと」「ほんま、大変やったな。君も。僕らも困っててんで。今も困ってるわ」男の笑いはその顔にびったり張り付いたまま剥がれず、到底困っているようには見えなかった。「あいつな、売人のくせに自分でシャブに溺れよってん。その上やで、組の物持ち出してあんな騒ぎ起こしよったやろ。えらい迷惑やわ。君、知らんか。どこそこの誰にハジキもうたとか、そんなん言うてんかった、森口は」
「ええ加減にしてえな」思わず大声を出してしまったつもりだったが、僕の喉からは、乾いた雑巾を力いっぱい絞ったような声しか出てこなかった。良かった。「何言うてんの。そっちの話やんか。僕、関係ないやん、何聞いてんの。僕に何聞いてんの。僕、ただの会社員やで。巻き込むんやめてえや、僕が何してん?森口のことなんか知らん、てか知りたないわ。組のことなんか知らんがな」
「うん。ごめんな」この男は、僕が狼狽えるのも想定の内だから余裕だというように、言った。「俺の言い方悪かったやんね、別に巻き込むとかやなくってね。俺らも困ってんねん、さっき言ったみたいにね。つまりや、森口にハジキ流したんが組の中の誰なんか、何であいつの手に渡ったんか、分からんねん。だから困ってんねん。そんなことしたボケを見つけ次第、俺らもどうこうせなあかんからね。分かるやろ、それはそっちでも一緒やんか。銀行さんで使ってる大事な情報が知らん間に他所に漏れてて、それが犯罪者の手に渡って悪用されたら、市民に迷惑がかかったら、どないすんの?君んとこではどうすんの。会社の誰が漏らしたか、それを突き止めるやんか。原因を。ほんでその漏らした奴を、会社はどうすんの」
男の口調は、小さな子供を諭すように優しく、柔和だった。「一緒やんか、な」
「ほんまに知らんねん」僕は男の言い分に意見したり、怒ったりする気力も無く、ただぐったりと疲れていて、泣き出しそうにもなっていた。「あんな物騒なもん持ってたんも、知らんかってんもん」
「それやったらしゃあないな。知らんのやったら」男はうんうん、と一人で頷いた。「あ、ほんでさ。気の毒なことに森口に撃たれた、あの…、折田(おりた)とかいう子。君、えらい仲良くしてるやん」
「関係ないんちゃうんけ」自分でも驚くほど、この男に向ける僕の言葉は鋭い棘を持っていた。僕自身は善良な市民であり、暴力を生業とするような人間に、例え目をつけられ知らぬ間に私生活まで嗅ぎまわられていようが、屈する必要などないし、してもならないという、後から考えてみれば自分でも呆れるような無謀で非合理的な信念が真っ青な芽となって体の中に植わっていた。「どうだろうが、仲良くしてようが。そんなもん」
「そんな怖い顔せんといて」男は僕が投げる棘を物ともせず、遊ぶように僕の方へ跳ね返してきた。「単純に気になっただけやん。あの子、相当、森口恨んでんちゃうん」
「それはないわ」青い芽は一本ではなかった。もう一本あった。優越感だった。この男、探偵が何らかのきっかけで森口と暴力団との関わりを知り、更には森口と僕が知り合いであったことに気づき、それが世間に知られれば会社員としての今の生活を失うことになるという僕の弱みをネタに、僕を恐喝しているとでも思っているのだ。理不尽に腕を撃たれた腹いせのためだ。そして、強請のいろはを弁えておらぬ素人に下手な強請られ方をしている僕は、いずれ精神的限界を迎え、警察に駆け込む、それも時間の問題だ、とか思っている。僕は洗いざらい警察に全てを話してしまう。組にガサが入る。それを恐れている。この男の想像は、せいぜいそんな程度のものなのだ。だがそれは全くの検討違いで、実際のところは、奴、森口がしでかしたことのせいで恥をかき、それはもう頭を抱えて地面をのたうち回りたくなる程恥ずかしい思いをしたせいで、汚れた自尊心を清めようと、強盗をした人間と関わりがあったことを探偵に正直に話し、ただ一言謝るため、そのために僕は探偵に自ら近づいていったわけで、探偵は探偵で、趣味、というべきではないか、生き甲斐としている俳優、自分の中で歌い、走り、生きるスーパースターへの愛を分かち合うことのできる唯一の友人と思い僕と顔を突き合せながら夕飯を食べたり珈琲を飲んだりしているのだ。そんな僕と探偵の間で築かれている関係は目の前にいるこの男や、この男の背後に控えている人間たちには到底想像も及ばぬ事であり、その事実が、僕の中で、てんで的外れな推測に踊って僕を訪ねてきた男に対する侮蔑を生み、ねじ曲がった優越感の芽を生んでいた。
「ない?」ええー、とか言いながら男は眉を潜めたが、目と口はにやにやと笑っていた。その目は、嘘ついてもあかんで、と言っていた。嫌味な笑い方だった。ムカついた。「それはないんちゃう?めっちゃ理不尽やんか、たまたま居合わせただけで撃たれてさ、君やったら、どない?しかも撃った本人自分でドタマぶち抜いて死によってんで。恨むやろ。なあ…、君」男は顎を引き、僕の目をじっと無遠慮に覗き込んだ。「八つ当たりされてんちゃうん?」
「はいはい」僕は、男の嫌味な笑いを真似た。「ないって。ないんやって。あいつ、興味ないんすよ。そんなことに。アホみたいなことに。どうでもええねん、もっと重要なことがあんねんから。恨んどるとかそんな話もないし。怪我も治ってきて、喜んでんねん、まず森口の話にも、なったこともないわ」「ほーん。うん…、まあいいや。ここじゃあれやもんな。自分休憩いつ?終わってからでもええけど。どっかで話そうよ。待っとくわ」
しつこかった。男は、かなりしつこかった。探偵のことを消そうとしているのか。僕の口から、探偵に恐喝されていることを聞き出せ次第、消そうとしているのか。恐喝に耐えきれなくなった僕が、警察へと走る前に。だが、そんなことがあるだろうか。そうでなかったら本当にただのホモで、僕に好意、及び性的な興味を抱いているのだろう。それはそれで、都合が悪かった。
「休憩ないねん、ブラックやから。終わりもないねん。入社してから一回も家帰ってへんねん」
「あんなあ」男は、ため息をついた。他人にため息をつかれるというのはそもそも快いものではないのだが、その顔が、もうお前にはほとほと呆れ果てた、みたいな、今後はくれぐれも酒や煙草はやめるようにと再三注意したのに関わらず、手術したばかりの患者がカーテンに隠れて酒を飲んでいるのを見つけて、もうこいつだけはどうにもならんと思った、みたいな感じで、まだ出会って十五分程度だが今のところ、早く死んでほしい、という感情以外何も持てぬ相手に勝手な思い違いをされている上、こんなムカつく顔をされムカつくため息をつかれなければならぬ筋合いが一体、どこにあるというのだ、というので、僕は何とも言えぬ腹立たしさを覚えずにはいられなかった。「分かってるやんな、君。真面目に働いてるやん、ええ会社やんか。親父さん、喜びはったやろ。そら、まあ…、俺らみたいなもんに貸しつくんのは抵抗あるかも知らんけど、君だけの問題ちゃうねん。君の為にとかそんなんでもないねん。だから正直に言うてえな、ほんで俺らに後は任せたらええよ。分かるやろ、君がな、警察に何か言うてみ。職、失うで。それだけちゃうで。怖い人らから追われる羽目なんねんで。そんなん…」
「ちゃうからね」僕は男の言葉を遮った。「勘違いしてはるみたいやけど、ちゃうからね。あんたが思ってるようなんと、ちゃうから。僕ら友達やからね、ただの友達やから。探偵、ちゃう…、折田、何も知らんで。僕が森口と知り合いやったことも知らんし、何にも知らんねん。てゆうか興味ない。ただ気合うから、絡んでるっていうだけやから」自分の口から出る言葉に、激しく抵抗する自分がいた。友達やから。イケメンの笑顔に、イラっときただけや。なんじゃ、にこにこにこにこにやにやにやにやしくさって。気色悪い。鬱陶しい。僕を不安にし、頭痛を催すこの笑顔を、引きはがしたい。それだけなのだ。
「折田に何かしよったら、余計なことしよったら、お前、ばらすぞ。警察に全部。仕事?知らんがな、殺されてもええがな。構うかい、殺(や)れや」この男が全身に纏う、揺るぎない自信を、足元から崩し壊し蹴散らしてやりたい、この男の忌々しい勘違いを撃ち殺してやりたい、それだけだ、と僕は激しく思った。そのために探偵を利用し、探偵のことを、命を賭して庇うようなことを言っているだけ。口先だけ。
「へえ、ああ。そう。友達なんや」僕の狙い通り、男の顔から笑顔は消えていた。笑っているでもない、怒っているでもない、どういう顔を作ろうか決めかねている、という顔だった。何もない、顔。顔面に取り付けられているだけで、機能していない、目と鼻と口。男はそんな顔のまま、言った。「あと分からんねんけど、あの女の子、何なん。あの別嬪の」
「友達(つれ)」僕は口先だけ、口先だけ、と呪文のように額のあたりで唱えながら言った。「あれも、関係ないで、あんたには。どんな想像してんか知らんけど、何も考えてへんで。ただのパンクスやから。勘違いしたパンクス。つまりアホやん。やから、心配してくれんでええで」
男が帰ってから、僕は上司に呼び出され、様子が妙だったがあの客は何だ、何の話をしていたか、というようなことを聞かれた。僕は、少々頭がおかしいようなので適当にあしらった、今後も来店するようなことがあれば通さない方がいい、と答えた。答えながら、僕の中に生えていた芽が折れ、しょぼしょぼと枯れて行くのを感じた。さっきまで男に向かって飛ばしていた棘が、腹の中をちくちくと刺した。

その夜、僕の携帯電話に見知らぬ番号から電話があった。一度目は探偵と椚と夕食をしている時で、電話が鳴っている、と指摘されたが僕は分っている、とだけ言って応じなかった。二度目は丁度風呂場から出た時で、僕は流石に恐怖を感じずにはいられなかった。あの男だ。あの男が、電話を寄越してきている。昼間やって来た、あの男。あの笑顔を思い出しただけで、頭が痛んだ。あの男が暴力組織の一員だということよりも、僕がそんな物騒な人間に向かって挑発するような事を言ってしまったということよりも、男色に色目をかけられることよりも、僕はイケメンが怖かった。ざわざわと鳥肌が立ち始め、同時に再びあの刺々しい芽が生え出した。友達、と僕は思った。この棘は、探偵と椚のことを自分の友達だと、見ず知らずの他人に広言した僕自身への棘でもあるのだと、僕は気付いた。僕は何も言わず、電話をとった。
「久しぶりー」間の抜けたような女の声がそう言ってから、僕の名前を告げた。
どういうことだろう。僕の連絡先の中にいる女といえば、今年の春に一晩の色恋を金で買った神戸の傾城、ただ一人だ。彼女が電話を新調したか何かで、番号が変わったことを律儀にも僕に知らせるため連絡を寄越した、というのが可能性としては一番大きいけれども、僕の頭の中では、電話の向こうにいるであろう彼女と、昼間来た男とがどうしても一つの線で結びついてしまい、あの男が次は女を使って僕を油断させ、何かを聞き出そうとしているのではないかという、現実的には半ば強引な仮説が生まれ、僕は念の為警戒した。
「何か言うたら」女の言い方は、僕の鋭くなった神経を泥だらけの靴で踏みつけて行くかのような、無遠慮なものだった。「なあ、もしもし」
「あ、すんません。どちら様ですか」万が一、仕事に関係する人間であった場合を想定し、本来であれば、誰じゃ、おのれは、と怒鳴りつけたいところだが、抑えた。
「カガワ」と女は言った。「カガワ?カガワさんでしょうか」「そうや。その敬語、なんやねん」「すんません、あの登録してなかったものでして…、どちらの」「嘘やん。覚えてへんの、あり得んねんけど」スピーカーから、僕を非難する甲高い不快な声が響いた。「付き合っとったのに」
付き合っていた、と女は言っている。付き合う、という言葉には幾つか意味があるが、相手が女であるということと、この馴れ馴れしい物の言い方からして、恐らくこのカガワという女と僕が男女の付き合いをしていた、つまりかつて恋愛関係にあった、とカガワは主張している。問題は僕にカガワという元恋人がいたかどうか、僕自身の記憶にないということで、僕は必死に過去を思い起こしてみたところ、あー、なんかいた、思い当たる節があった。去年くらい、いたような気がする。いや、いたいた。思い出してきた。良かった。まあ思い出したからといって特別暖かい気持ちになるわけでもなく、こんなことがあったね、あんな場所に行ったよね、楽しかったね、電話くれてありがとう、声聞けて良かったわ、みたい感じになるわけでもなく、リビングにきたものの何をしにきたか忘れたから試しにもう一度自室に戻ってみたところ、爪切りを取りに行くつもりだったことを無事に思い出せてすっきり、という程度の気持ちで、しかもその後には、昼間のようなことがあった後にタイミング悪く無神経な電話を寄越してきた女に対しての煩わしさが込み上げてきて、ひどく不愉快な気分になった。
「お前かい。何やねん」「何やねんて、何なん。そんなんしか言えんの」「だから何じゃいや。用無いんやったら切るで」
「子供できてん」女が言った。頭の悪そうな喋り方だった。
「は?」「やから、子供できてん。赤ちゃん」「あ、そうなんや」女の言葉が何を意味するのか少しの頭を働かせた僕は、情けないことに焦って言った。「え、ちゃうよな。まさか」
「ちゃうわ」女は間髪入れずに返事をした。「時期おかしいやろ」「そうやんな。良かったわ」あー、良かった、と僕は文字通り胸を撫で下ろした。安心感と幸福感が混ざり合い、僕を包んだ。「てか、何なん。それで?」「結婚すんねん」「へえ。そう」「うん」6秒間の沈黙。
「ほんで、何」「お金」「は?」「あの人に返したってな。借りたままやろ、あんたのこと言うとったで、ほんで何か…」
女がまだ何か言おうとしていたが、僕は構わず電話を切った。続いて電源を落とし、爆弾を扱うようにそろそろと、携帯電話を卓の上に置いた。
腹の中が、見たことのないような黒い物でいっぱいになっていた。迷子だった。右へ進んでも左へ進んでも、前を向いても後ろを向いても、知らない場所だった。夕暮れ時の住宅街、街頭が灯り始める。何処にでもありそうな家が僕の周りに立ち並んでいる。秋の終りの冷たい空気に乗って、家々から漏れる夕食の匂い。テレビの音。笑い声。だが僕は一人、ここが何処だか分からずぼんやり立っていた。柵の向こうから犬が、警戒するように僕を見て唸っていた。部屋のエアコンを点けずに網戸を開け放っているため、外からはじっとり湿った都会の夏の夜の空気が室内に入り込み、体は蒸れるように暑かったが、迷子になっていたから、寒かった。
考古学者、ファニー・鶉尾の顔が浮かんだ。と言っても見た事もないおっさんだった。迷子になった僕の頭に浮かぶのは、この世にいない、おっさんなのだ。寒い。別れた男に、結婚の報告をしてくる女の心理。壁画的行為。僕はおっさんにそう言ったが、おっさんは馬鹿にしたように笑った。むかついたからぼこぼこにして溝に放り込み、財布を奪ってやった。鶉尾は気絶していた。死んだかも知れぬ。まあ、大丈夫か。財布の中には結構な額が入っており、その金で例の神戸の女と遊ぼうかとも思ったが、止めた。その後に僕を襲うであろう、更なる寒さを想像してしまった。
「結婚すんねん」僕は女の言葉を真似て、口に出した。「知るか」
探偵に借りている松田優作のCDをセットし、かけた。探偵が歌っていた曲が、部屋の中の湿った空気に混ざった。炬燵に潜り込みたかった。今すぐ。壁画的行為。民主主義。探偵と椚は僕を馬鹿にはしなかった。だがあの女は、さっき電話してきた女は、きっと嘲るのだ。何が壁画だ、とか言うだろう。僕が今、迷いこんでいるこの街の住人も、家の中で、家族と楽しくシチューとか、カレーとか、おでんとかを食べている連中も、全員同じだろう。あの女と同じなのだ。僕や探偵や椚とは違うのだ。僕はそいつら全員を家から引きずり出し、鶉尾にそうしたように、土突き回して溝に落として財布を奪って、生きていかなければならないのだろうか。彼らの家の中はきっと暖かいだろうが、僕にだって炬燵がある。けれどもここに炬燵は無いし、そもそも帰る道も分からない。外はひどく冷えている。何処の家でもいいから扉を叩き、頭を下げ、食べ物を恵んでもらい、寝床の世話をしてもらうべきなのかも知れぬが、できそうになかった。知らない街で飢えに苦しみながら、このまま一人凍え死ぬのだろうか。怖い、と思った僕の頭に、銃声が響いた。
探偵が撃たれたのだ。腕を押さえ、うずくまっている探偵。死にたくない、と泣き喚く探偵。僕は、ここで気を失っているはずだったが、しっかりと目覚め、立っていた。騒然となる銀行内。慌てふためく人々と、奴がいた。自分の頭を撃って死ぬはずの森口が、僕に銃を向けていた。「何でや」
奴は、サングラスを取り、マスクを外した。森口の顔ではなかった。笑っていた。昼間僕のところへやってきた、あの男の顔だった。男はにこにこしながら、僕の頭に向かって発砲した。銃声。
僕は咄嗟に、茶卓の両端を抱え、炊事場に向かってそれを放り投げた。並べてあった皿やコップが床に落ち、幾つかは割れた。仰向けになった茶卓をもう一度抱え、振り回した。遠心力によって手から離れた茶卓は天井に舞いあがり、蛍光灯を割った。降って来た破片が、頬を切った。じりじりと虫の羽音のような音がした。洋服の入ったプラスチック棚を一段ずつ持ち上げ、壁に叩きつけた。シャツやジーンズが四方に散った。冷蔵庫の扉を開け、コードを引きぬき、押し倒した。缶ビールがごろごろと転げ落ち、卵が割れ、ドレッシングが床にこぼれた。冷蔵庫の上に置いてあった電子レンジと電気ポットも、当然バランスを崩し、鈍い音を立てて落下した。玄関のドアを、誰かが叩いた。下の住人だろう。うるさいぞ、何やってんじゃ、警察呼ぶぞ、何も言わない。ただ、5回叩かれて、静かになった。それと同時に僕の体はぷつりと音を立てて力付き、ゴミの山のようになった部屋の中で横転した。鋭い破片が腕に突き刺さり、酢の様な匂いが鼻を突いた。
ひとしきり笑った後、「あかん」と僕は呟いた。探偵に、謝らんと。謝らんといかんのじゃ。さもないと僕の魂は、平成二十六年の夏を彷徨い続ける。永遠に彷徨い続ける。頭にピストルを突き付けられたまま。
これ程荒れ放題になった部屋の中で、洋服に埋もれながらも素知らぬ顔をしているCDデッキから、絶叫にも似た優作の声が響いていた。
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