私が煙を吐く理由

房児黒壱

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私が煙を吐く理由

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 私よりも長い時間を過ごしたであろう、木目調のテーブルの上には、ウィンストンという名のタバコが、悪びれもなく寛いでいた。幼子が幾日も過ごしたはずのその一室には、その姿はあまりにも似つかわしくなく、無機質な赤が一層浮き出ているようだった。喫煙によって齎される障害が、パッケージにこれでもかと綴られている。それが製造者の直筆で、とろこどころにインクが潰れるほどの筆圧で、そこに刻まれているのだとしたら、私はこれを胸に止めるのかもしれない。しかし、こういうときに限っては、私は聞き分けが良かった。自身を正当化する力が、強い依存性を孕み働く。ゆえに、喫煙者特有の謎理論を弾き出すには、容易な身体になっていた。

 一本の煙草を薄い唇で軽やかに食み、二、三度着火を試みる。煙が微かな刺激を連れて、身体の中を大きく廻った。穏やかな時間の中で、私はその瞬間を何よりも大切にしていた。世間では文字通り煙たがられるようになったそれは、私という人間に限っては、精神安定剤そのものになり変わっていた。
 煙草はいい意味で人を孤独にする。無心で宙に煙を吐くとき、そこには私の中で蓄積された、あらゆる不吉が小さな一塊となって、やがて煙に溶けていた。それが、何よりの魅力であると確信していた。

 ある日私はいつもの通り、ベランダで煙を吐いた。それを避けるようにして、家族連れが私から距離をとった。こうしてみると、世間的に言う幸福とういうものが、私から遠ざかっている気がしてならない。私は私を保つために煙草を吸い、そして私自身を幸福から遠ざけているのだ。そこに、一切の情状酌量の余地はない。こうして頭を巡る邪念が蓄積していく時、気がつけば真新しい煙草を手にしているのだ。再びそれが口へと運ばれると、まるでこの世界がループしているように思えた。この時間が限りなく緩やかに感じられたのは、きっとこうした思考が、私の脳裏を巡っているからだろう。私がこの時間を大切にしている限り、私は孤独な世界を永遠に彷徨う気がした。口元の煙草は、そんな私の杞憂など知る由もなく、以前人工の熱を待ち侘びているだけだった。

 私は煙草に依存するほかない。人は何かに依存しなければ生きてはいけない。それは愛であり、金であり、夢であったりする。所詮、輝きに満ちているだけの依存であり、私にとっての幸福が、煙であっただけのことだ。あの家族連れは、煙を避けたと私は思っている。これさえ辞めてしまえば、いつだって私もああなれると、根拠なき自身が無意識に根付いている。私の選択は平凡からは逸脱していて、それが私特有の在り方であると信じている。
 三度熱に煽られ、私を正常に戻すその煙に、迸る愛と私自身を溶かしている。だが悲しいかな、煙となった私は、世間という茫漠とした概念に、幾度も濾過され、限りなくマイナスなイメージだけを纏い運ばれていく。それが、今日という日を作っている。
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