竜刑は断崖にて

房児黒壱

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 コトは、夢を見ていた。

 内容は曖昧だった。輪郭だけがあって、色がない。
どこかの床を歩いている。足裏に確かな感触がある。揺れない地面。傾かない梁。空気が、金属粉でざらついていない。

 視界が赤黒く染まり、横たわる誰かから、温もりが引いていく感覚だけが波のように押し寄せる。
 
 誰かの声が遠くでして、名前を呼ばれている気がした。
 振り返っても顔は見えない。
「もう大丈夫だ」と言われたような気がした。
 言葉は、意味というより音の形だけが残っていて、心に届く前に薄れていく。
 それでもコトは、その音を掴もうとした。
 掴んだところでどうなるわけでもない。
 ただ、掴んでいないと自分を守れない気がした。

 生きるために、不要なものは排除していく。
 そうして人は形作られる。
 結果、生き延びたい、という思いだけが残っていた。

――硬い衝撃が、夢を叩き割った。

 骨に響く振動。
 梁が鳴る。鎖が弾ける。
 闇の中で、木材が裂ける音がした。

 次の瞬間、耳を裂くような金属音が走り、寝床が跳ねた。コトの体は固定の甘い簡易寝台から投げ出され、床板に肩から落ちた。息が抜ける。痛みが遅れて押し寄せる。

 何が起きたか、分からない。
 分からないほど突発的だった。

 闇の向こうで誰かが叫んだ。悲鳴ではない。言葉にもなっていない声の塊。だが、それもすぐに途切れ、別の音に飲まれた。

 続いて、報せが鳴った。

 金属を叩く音。
 決められた回数、決められた間隔。
 何一つ分からないコトだが、合図である事だけはわかった。

――竜だった。

 クウォーターの警報は、耳障りなサイレンではない。ここでは、音は常にある。警報が警報として成立するのは規則性だけだ。そして規則性は、常に人を動かす。

「起きろ」

 闇の中、低い声がした。

 ヨルだった。寝床の端にいたはずなのに、すでに立っていた。外套を掴み、短い刃物を腰に通し、足場に出る準備が終わっている。暗闇での動きが昼より速い。身体に染み付いた工程であった。

「焦るなよ」

 コトが起き上がろうとした瞬間、ヨルが言った。

「走るな。足場を見るな。俺の背中だけ見ろ」

 意味は分からなくても、命令の形は分かった。
 コトは頷き、息を飲み、ヨルの背に視線を固定した。

 扉が開いた。外の冷たい風が闇を押し込む。霧が入り込み、灯のない空間がさらに薄くなる。通路ではすでに人が動いている。裸足の者、外套を片腕だけ通した者、武器を掴み損ねた者。誰もが"間に合っていない"姿だった。

 それが夜襲だ。

 準備が整わず、役割配置が崩れる。
 もはや狩りと呼べるものではなかった。

 ヨルは足場を選びながら走った。選ぶというより、身体が勝手に選んでいる。崖際から一歩遠い板。歪みが少ない梁。踏むと音が鳴る場所は避ける。音が鳴る場所は竜に位置を知らせる。

 だが、今夜はもう遅い。

 どこかで巨大な何かが建造物に触れた。
 構造体全体が、ゆっくりと歪むように震えた。
 金属が軋み、木材が泣き、鎖が張り詰める。

 そして――吐息。

 熱の混じった、湿った空気が霧と一緒に吹き付けてきた。
 獣の臭い。血の匂い。焦げた金属の匂い。
 喉の奥が反射で縮む。

「墓場へ!」

 誰かの怒号が飛んだ。
 怒号は命令ではなく焦りの形だ。

 ヨルは返事をしない。
 返す必要がなく、行くべき場所は決まっていた。

 捕獲棟〈竜の墓場〉。

 そこだけが竜を殺すために作られた空間。
 だが今夜は、竜が墓場に“入ってくる”のではない。
 墓場の外ですでに壊し始めている。

「ユーカ!」

 ヨルが叫んだ。

 闇の中から細い影が滑り込んでくる。ユーカだ。髪が乱れ目が見開かれている。怯えた顔ではない。逆に、過剰に冷えている顔だった。
 昨日までコトが見ていた顔つきとは明らかに違う。切り替わったのだろうか。どちらでもいい。今は動ける方が必要だ。

「B班、入るぞ!」

 ヨルが言う。

「分かってる!」

 ユーカが叫び返す。
 声が震えていないのが怖い。

 B班――初動拘束・起動。
 落とし床、楔、初期固定。
 工程の最初であり、最も短く、最も失敗が許されない役割。

 本来ならもっと人数が揃っているが、夜襲となれば配置も連携も乱れる。

「コト! 俺の右だ。離れるな」

 ヨルが短く言った。

 コトは返事をする暇もなく、走った。
 足場の揺れで視界がぶれ息が上がる。暗闇で距離感が狂う。自分の足音がやけに大きく聞こえるのが恐ろしかった。

 墓場の入口に、火が揺れていた。

 作業灯ではない。
 誰かが投げた油か、竜の吐息に混じった火の粉か。
 火花が空間に散っている。

――そこで、初めてコトは竜を見た。

 巨躯。
 ただ大きいのではない。大きさが“形”を持って迫ってくる。
 梁や鎖や足場の尺度が、竜の前では意味を失っていた。

 鱗が灯りを弾き、濡れた鉄みたいに鈍く光る。
 一枚一枚が板のようで、重なり合い、動くたびに擦れて音を立てた。
 その音が金属の軋みと混じって耳の奥を刺す。

 肉体は躍動していた。
 筋肉が波のように隆起し、巨大な関節が滑らかに折れ曲がる。
 重さがあるのに動きが速い。
 速いのに無駄がない。

 喉元が赤く瞬いた。

 火花が散る。
 吐息のたびに熱が漏れ、霧が一瞬で薄れる。
 熱で濡れた空気が肺に入り、咳が出そうになる。
 咳をしたら終わりだと本能が言う。

 竜は目を動かした。
 ギョロギョロと滑り、墓場の空間を舐める。

「穴開けるぞ!」

 ヨルの声が飛んだ。

 ユーカが走り、起動レバーへ飛びつく。
 だが、間に合わない。

 竜が前足を振った。

 一撃ではない。払うような動き。
 それだけで、近くの支柱が折れ、梁がずれ、鎖が弾けた。

 人間の体が軽々しく、木片のように飛んだ。

 悲鳴が一つ上がり、すぐ途切れた。

 リーツだった。

「リーツっ!!!」

 コトの目の前で、リーツの体がひしゃげた。
 押し潰されたというより、圧し折られた。
 骨が砕ける音がやけに近い。
 声は出なかった。出す余裕もなく、空気が喉から抜けたのだろう。

「いいから!カバー入れ!」

 体が床板に落ちる前に、もう形が崩れていた。
 人間が、人間の形を保てる理由は骨だ。その骨が簡単に潰れる。

 呆気ない。

 竜刑の恐ろしさは、長い苦しみだけではない。
 理解する間もなく終わる。
 ここでは劇的な死など存在しない。

 コトの喉が鳴った。
 吐き気を催し、しかし吐けば死んでしまう。
 今は生きる事に集中する。
 そう飲み込んだ。

「コト!」

 ヨルが叫ぶ。

 その声でコトは現実に戻った。
 竜がいる。人が死んだ。自分は立っている。
 立っているだけでは死ぬ。

「下がるな! そのまま!」

 ヨルが命令した。
 コトが一瞬、背後の風を感じる。
 下がれば崖側、落ちて死ぬ。

 だが、前に出ればそこには竜。潰されて死ぬ。

 逃げ道など、用意されていない。

「ユーカ、楔!」

「分かってる!」

 ユーカが楔を掴み、床の継ぎ目へ叩き込もうとする。
 だが床が揺れ手元が狂う。
 楔が弾け、金属音が鳴る。

「うるせぇ!」

 誰かが怒号を上げた。
 怒号が飛ぶ。悲鳴が飛ぶ。苦痛が飛ぶ。
 空間が、声で満ちる。

 竜はそれを気にしない。

 竜が吐息を吐いた。
 熱が走り火花が散る。

「退避!!!」
「水持って来い!」
「今は無理だろうが」
「粉撒けよ、近づけねぇ」

 髪が焼ける匂いがした。
 誰かの衣服が焦げ、木材に燃え移る。

「早くしろ! Aは何してる!?」

「そっちが抑えねえから、無理だろ!!」

「C! 天鎖回せ!」

「回ってねぇぞ、噛んでるって!」

 後手。
 工程が成立していない。
 想像以上に苛烈を極める現場。

 狩りではなく事故だ。

 ヨルは走った。
 罠の位置、起動しないものは手動で誤魔化す。
 次はウインチへ、次はロープへ。
 誰かの腕を掴んで引きずり下がらせ、誰かに叫んで位置を変えさせる。

「そこだと死ぬ! 下がれ!」

「動けねぇ!」

「動けよ!」

 ヨルの怒鳴り声は身体を動かす圧があった。
 怒鳴らなければ届かない。

 竜の尾が振れる。
 風圧だけで人が倒れる。
 倒れた人間の上に、別の人間が折り重なる。

 踏まれれば終わりだ。

「早く立て!」

 ヨルが誰かの襟を掴み、引き起こした。
 コトの視界に竜の腹が近づく。
 皮膚の下で筋が動き、鱗が擦れて音を立てる。
 そこに、杭が刺さっているが、まるで効いている様子がない。

「もういい! 削れ! 今は止めるのが先だ!」

 ヨルが叫ぶ。

 誰かが走り、弩砲を操作。
 竜の鱗に弓弾が弾け、火花が飛んだ。
 火花が喉元に吸い込まれ、吐息に混じって広がる。

 竜は怒ったのではない。
 ただ、邪魔を払っているだけだ。
 人間が蟻のように散る。

 叩きつけられる、人の矮小さ。

 人の体は、脆く軽い。
 強く握れば砕ける。強く踏めば潰れる。
 ここまで来て、ようやくコトは理解した。

 人間が竜を狩るのではない。
 人間は、竜に許される形でしか生きられないのだと。

「床、今だ!」

 ヨルが叫んだ。
 ユーカがレバーを引く。
 一瞬、空間が静まる。

――床が沈む。

 だが、竜は落ちない。

 竜は、沈む床板の縁を掴んだ。
 巨大な爪が木材に食い込み、梁が悲鳴を上げる。
 竜の体が、落ちる寸前で止まる。

「嘘だろ……」

 誰かが呟いた。
 呟いた瞬間に、竜が体を持ち上げた。

 床が、裂けた。
 落とし床が落とし床として成立しない。
 工程が崩壊する瞬間だった。

「天鎖! かけろ!」

「シンシア! 補充急げ!」

 ヨルが叫ぶ。
 シンシアが慌てながら、後方は走る。
 C担当がウインチを回し鎖が走る。
 鎖は竜の肩に鋭く絡む。
 絡んだ、ように見えた。

 竜が動いた。
 一度、肩を揺らしただけで、鎖が弾ける。
 人間の体が鎖ごと持っていかれる。

 巻き取られるように、腕が千切れる。
 悲鳴、次いで骨の音が爆ぜる。

「戻れ!」

 ヨルは叫び、コトの肩を掴んで引いた。
 コトの体が引きずられ床を滑る。
 目の前を竜の爪が通過した。
 触れていないのに、空気が裂けた。

 コトは息が止まった。
 止まっている場合じゃない。
 身体が勝手に動き、ヨルの背を追った。

 まさに地獄であった。

 焦りと怒号と悲鳴が飛び交う。
 どれだけ慣れても、慣れきることはない。
 慣れたふりはできる。手順は覚えた身体は勝手に動く。だが、恐怖だけは薄れない。

 ヨルは現場を回り続けた。
 罠を使え。位置を変えろ。噛んでるなら叩け。ロープを弾け。下がらせろ。前に出すな。

 今は死ぬな。今は動け。

 言葉が命を繋ぐ。
 繋いだ命が、また切れる。

 リーツの潰れた体が、視界の端に残っていた。
 運ぶことすら揺らされない極限の状態。
 死体すら工程の邪魔になる。

 コトは、目を逸らさなかった。
 逸らす暇がなかった。

――これが竜刑だ。

 夢を見る暇はない。
 未来を語る暇もない。
 ここでは、生きることすら刑となる。

 その夜、クウォーターは竜の吐息で熱を帯び、梁の鳴る音で眠りを失い、人間の小ささを、何度も何度も突きつけられた。


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