アーコレードへようこそ

松穂

文字の大きさ
上 下
16 / 114
第1部

その男、連続来店

しおりを挟む


 
「ねぇ、店長ぉー、いいじゃないですかぁー、行きましょーよー」
「行ーかーなーいー……っと、これで入金分OK……」
「どーしてですかっ? きっとイケメンですよぉー。同じ社会人だから仕事にも理解を示してくれると思うしー。店長はきっと年上がいいと思うんですよねぇー。こう、心身疲れ切った店長を優しく包み込んで甘やかしてくれるようなぁ……って、店長ぉー、聞いてますー?」
「……あーはいはい、聞いてますよー……えーっと……クレジット分OK……」
「で、その子のお兄さん、なかなかのエリートらしくって、その友達ってゆーのもエリートさ加減は保証できるんです。まあ、店長と休みが合わないってゆーのがちょぉっとネックですけどー、でもでも、その辺は半休でも全休でも取っちゃってください! あたし、土日祝日フルタイムでシフト入りますから……って、ちょっとっ、店長! 聞いてないでしょ!」
「んー、聞いてますよー……よし釣り銭OK、と。……あ、そーだ亜美ちゃん。今月後半のシフト、あれ大丈夫なの? 夜なんかほとんど毎日入れてるでしょ? 土日もフルで入れてたし、学校の課題とか大変じゃない?」
「あ、全然ダイジョブです。バンバン入れちゃってください! それでなくたって会え……いや、えっと……そう! バイト代! 稼ぎたいんですよ! ほら、あたしデザイン専攻なんで、画材とかお金かかるんですよねー……って、そんなことはどーでもよくって! 明後日の水曜日の夜、空けておいて下さいよ? お店定休ですし、店長予定ないでしょ? あ、何か食べたいものリクエストありますか? きっと美味しいお店たっくさん知ってるんじゃないかなー。もちろん相手側の奢りですし。あとで電話しとかなきゃ」
「あ、そーいえば亜美ちゃん。最近無言電話の回数が多くなってきてるみたいなんだ。だから、とりあえずしばらくは、電話かかってきたらなるべく取らないで、私か黒河さんに任せてくれる?」
「あー、わかりました……って言っても、あたしは店の電話、ほとんど取りませんけどねー。……ほら、『あーこれーどけいとくがくえんまえてんです』って言いにくくありません? あたしいっつも噛んじゃうんですよねー……って! そうじゃなーいっっ! そうじゃなくてっ! “お食事会”! 明後日の “お食事会” に絶対来てくださいよッ!」

 ピョンピョン飛び跳ねまくる亜美は、もうレジカウンターに乗り上げてきそうな勢いだ。が、うっかり折れるわけにはいかない。
「――亜美ちゃん」
「はい?」
 ガシャンとレジスターを閉めて、葵は顔を上げる。
「明後日はダメ。もう予定が入ってるの。ごめんね」
「えぇぇーっ! 嘘だぁっ! こないだ聞いた時、予定ないって言ってたじゃないですかっ! どんな用事ですかっ! 会議? え、でも会議って来週ですよね? 店長に限って休みに仕事以外の用事があるなんて信じられないぃー!」
「……どういう意味よっ?」
「だって! 店長ってば休みで一日空いたら泳ぐか寝るぐらいしかやることない、っていつも言ってるじゃないですかぁっ!」
 あながち間違ってないだけに一瞬、う、と詰まる。が、ポッキリ折れるわけにはいかない。
「ちょっと実家に帰るの。最近帰ってなかったし」
「ブゥー」
「兄と弟、男二人だからね。たまに帰って家事とか手伝わないと」
「ブゥーブゥー」
「申し訳ないけど ”お食事会” には行けません」
「ブゥーブゥーブゥゥー!」
 タコ口になってブー垂れる亜美は本当に可愛くて、思わず笑ってしまう。
「プハハッ……そんな変顔しないのー」
「テンチョーヒドいぃぃー! あたしよりも兄弟を取るんですかーっ! いくらイケメン兄弟でも許せなぁぁーいっっ!」
 キンキンと耳に痛いさえずりを聞き流して、葵はちゃっちゃかとレジ周りを片付ける。……が、心中、ゴメンナサイ、と手を合わせた。

 実は、葵が実家に帰る予定は明後日水曜でなく、明日火曜なのだ。明日は半休をもらったので仕事終わりに実家マンションへ行き、お座なりになっているであろう家事をこなしつつ夕飯も作ってあげて、そのまま一泊してこようと思っている。
 だから、水曜日の夜にあるらしい、亜美が言うところの『私と私の大学の友達とその兄とその兄の友達を交えてのお食事会(あくまでも合コンではないですよ)』に参加できないわけじゃない。
 けれど、行くつもりはもちろん、ない。
 葵がそういった合コン的な集まりに決して行かないことは、亜美も知っているはずだ。
 せっかく誘ってくれたのに、という申し訳なさもあるけれど、何故に亜美がここまで自分を男性と交流させたがるのか、葵は不思議でしょうがない。
 そんなに、彼氏がいないということは不憫に見えるのか、焦るべきことなのか。

「じゃあ、来週! 会議が終わった後はどうですかッ? 会議って夕方頃には終わるんでしょう? 場所をあっちの方にしてもらいますからー、お願いですぅー来てくださいよぉー」
 もはや泣き落としか、と思わせるようなウル声で(涙は出ていない)懇願する亜美は、葵のベストの裾を摘まんでグイグイ左右に引っ張る。
「ちょ、っと亜美ちゃん、引っ張らないー! 外の片付け終わった? ほら、もう賄いできるよ? この匂いからすると……今日はカツレツ系かなー?」
 まとわりつく亜美を、宥めすかし引き剥がそうと葵が悪戦苦闘しているその時、カランコロンと小さくドアベルが鳴った。
 パッと振り仰げば、ここ連日目にしている長身の人物。
「あ、お、疲れ様です」
「お疲れさまでーす」
 そそくさと居住まい正す女二人を、黒河侑司はちらりと一瞥して「表、看板が出っぱなしだ」と、ひと言言い放った。
「わ、すみませーんっ! 今片付けまーす!」
 亜美が慌てて入り口玄関に向かった。メッ!とばかりに睨むと、振り返った亜美はペロッと舌を出す。そんな仕草も違和感なく可愛げがあるので、本当に憎めない子だ。

 レジ裏の事務室へのドアに向かう途中、侑司は一旦足を止めた。「売上は?」と言って葵の手にあるジャーナルを覗き込む。
 近づく距離に、ふわっと空気が動いた。
「あ、アジサイが、結構、出ました」
「そうか」
 葵はちょこっと咳払いする。
「それと、オーバージュさんから新しいワインリストをいただきました。やっぱりチリ産がお勧めみたいです。今月中の発注なら、直輸入品を何本か試供してくれるそうです」
「わかった。あとでピックアップしよう」
 小さく頷いて事務室へ入っていった侑司の後ろ姿を、葵は見送った。
 今日はペンシルストライプの濃グレースーツに白ワイシャツ、ネクタイなし……疲れも慌ただしさも見せない颯爽とした姿に、葵は少しほっとした。

 先週の、篠崎姉破水騒動の日からちょうど一週間経つ。
 あの日の夜、侑司との通話を終え、どうにも高まる感情を抑えきれず夜中過ぎまで泣いてしまった葵だったが、次の日の朝、重たくシバシバする両眼を気にしつつ、何を言われるか、どんな態度を取られるか、と密かに戦々恐々と身構えながら出勤すれば……何もなかった。
 先告の通り、開店前にやってきた黒河侑司はいつも通りの淡々としたもので、鍵を返し昨晩の引き継ぎ事項を葵に伝えると瞬く間に帰ってしまった。前夜の電話中、泣いていたことはバレバレだったと思ったのだが、それに関しても言及無し。顔を合わせる直前まで気恥ずかしくドキドキしたのも無駄に終わった。
 加えて言うなら、騒動の場に居合わせた佐々木と笹本も、まるで何もなかったかのように普段通りであった。昨夜呼び出された池谷でさえも、急遽シフトに入ってくれたお礼を言う葵に「どーいたしまして」と答えただけで、詳しい事情は何も聞いてこなかった。「なんか顔、浮腫むくんでねーか?」と突っ込まれはしたのだが。
 つまるところ、激動の一日だったその翌日は呆気ないほどに、普通の日、であった。拍子抜けした葵は、まさか昨日の出来事は全部夢だったとか……?と、一瞬錯覚したほどだ。
 だが、不思議と胸のつかえはなくなっていた。
 もしかしたら、前夜に泣くだけ泣いたのが良かったのかもしれない。
 いつものように笑顔で客を迎えられたし、手足も声も震えることなく、もちろん既視感デジャヴに襲われることもなく心身共に軽かった。
 あれだけショックを受けて動揺し、絶望感にさいなまれて落ち込んだのに、一夜明けての奇妙な爽快感。
 我ながら浮き沈みの激しさに情けなく戸惑いもあるが、これも “治癒” の過程で必要なことなのかもしれない、と前向きに考えることにした。

 幸いなことに、それから一週間、店はあれやこれやと忙しかった。
 季節の洋風御膳 “紫陽花御膳” が新しく始まるのでその準備や、六月の月定例会議用の資料作成に追われ、またコンスタントに入っていた予約のお陰で店もそこそこに賑わい、葵に余計なことを考える時間はなかった。
 そしてもう一つ、過去を顧みる暇も隙も与えられないような事が連日――

「――あー、びっくりしたー。黒河マネージャー、最近毎日来ますねー。フロアのラインにも入るようになったし。厨房なんかよくテコ入れ、、、、されてるじゃないですかー。遼平くんたち、イジメられてませんかねー?」
 戻ってきた亜美が声をひそめて心配気に言うので、葵は少し笑って答える。
「苛めているわけじゃないよ? 黒河さんは厨房経験もあるから、たぶん遼平たちにちょっとしたアドバイスをしてるだけだと思う。黒河さんが佐々木チーフを差し置いて出しゃばるわけないし。チーフも、好き勝手やってくれー、みたいな感じだよ」
「ふ~ん……なるほどぉ。そーゆう感じ、、、、、、なんですねぇ?」
「亜美ちゃん?」
 いやに含みを持たせた亜美の二ヤリ顔に、葵ははてなマークを貼り付ける。
 亜美はいっちょ前に考える人ポーズで「んー……こっちの方が……いやでも……」としばらくブツブツ呟いていたが、パッと顔を上げて、
「わっかりました! 店長、 “お食事会” はまたの機会にしましょう! “遠くの親類より近くの他人” ってこういうこと言うんですよねー。キャハッ、あたしってばうまーい! さってとぉ、賄い準備に行ってきまーす! 今日は何カツかなー」
と、スキップ交じりの小走りでバックヤードに入っていった。
 葵は首を傾げつつ蝶タイを外す。
 亜美ちゃんの言葉……時々通訳が欲しくなるんだよね……。

 ――それはさておき。
 そうなのである。黒河侑司はあの騒動の翌日から一週間、ほぼ毎日慧徳学園前店にやってきている。彼と顔を合わせなかったのは、定休日の水曜日だけだ。
 ランチ開店前に来ることもあれば、ディナータイムに顔を出すこともあって訪れる時間はまちまちなのだが、来店すれば細々した事務処理を手掛けたり、チーフの佐々木と新メニューや使う食材について打ち合わせたり、業者への機材メンテナンスを手配してくれたりと、相変わらずの素早さで仕事をこなしている。時には、ピーク時だけフロアのフォローに入ってくれることもあった。
 そしてさらに数日前から、厨房へ度々入る場面も目にするようになった。
 袖をまくったワイシャツ姿のまま、遼平とともにフライパンの空焼きをしたり、笹本とコースデザートに使うアングレーズを仕込んだりと、なかなか興味深い光景だ。
 佐々木はそんな侑司の姿を、どこか面白がっているような表情で静観し何も言わないが、若いアルバイトたちは表立って口にはせずとも、連日店にやってくる彼の存在に内心困惑しているようだった。

 葵の立場から言えば、実はかなり助かっている……つまり、らくさせてもらっていた。
 いつもは葵が一から十までチェックしなければならないことでも、ここ一週間は侑司が半分ほど請け負ってくれるので、だいぶ事務仕事が楽だ。おかげでバタバタと忙しい割にはラストオーダー終了後、レジ締めと売上入力だけで帰宅できる日が続いている。
 しかし有り難い反面、じくじくと湧いてくるのは、彼に対する申し訳なさ。
 あの日佐々木は言った。――『ああ見えて、心配している』
 葵が思うに、 “心配” はニュアンスが違うかもしれないが、少なくとも目を光らせておきたいという気持ちはあるだろう。彼が連日のように顔を出すのは、おそらく葵のせいだから。
 先日の妊婦破水騒動時の失態もさることながら、今まで後先考えず闇雲に超過勤務してきた葵に対して、彼なりに注視監視の目を強化したいのだと思う――佐々木の忠告も合わせて考えれば、そうとしか思えない。
 つまり、葵の独りよがりな働き方が、ただでさえ忙しい彼にさらなる負担を強いてしまったということだ。それが居た堪れないほど申し訳なく、身体中がボコボコと凹む気分だ。
 誰に迷惑がかかるわけでもないと軽い考えで超過勤務していた。自分が損する分においては上の人間もそこまで厳しくチェックしないだろうと高をくくっていた。
 店長業も三年目に入り要領もわかってきた分、もっといい結果を出したいと欲が出てきたのかもしれない。
 ――いや、それだけじゃなくて。
 新しい上司に、認められたかった……のかもしれない。
 少しでも認められたくて……褒められたくて……

「……長、……店長?……店長!」
「は、はいぃ?」
 呼ばれる声で我に返り、見渡せば怪訝そうな視線があちらからこちらから。
「どーしたんですかー? 俯いて。まさか、食べながら寝てました?」
「あの、何か……味的におかしいっスか?」
 隣の亜美が葵を覗きこめば、葵の前に座る吉田も不安そうに問うてくる。
 今日の賄いは、豚バラ肉のチーズ巻きフライとグリーンアスパラガスの胡桃くるみ和え、そして大根の味噌汁だ。佐々木の指南の元、今日は吉田がメインで作ったらしい。
「ううん、すーごく美味しい! この胡桃和えイイねー。市販の胡麻ごまダレよりコクがあってナッツっぽい!」
 慌てて箸で挟んだアスパラガスを口に頬張ると、こちらに背を向けている佐々木が吹き出して振り返った。
「水奈瀬ー、胡桃だぞ、く、る、み。胡麻と比較すんなよ」
「あ? そ、そう……ですね……ははは……」
 乾いた笑いを上げた葵の視線が、佐々木の向かいに座る黒河侑司のそれと交わる。
 真っ直ぐ揺らぐことなくこちらに向かう双眼は、かち合えばやっぱり気恥ずかしい。葵は視線を落とし、アスパラガスの咀嚼に神経を集中させた。

 侑司が慧徳学園前店で賄いを一緒に取ること、数回目。
 いつもの賄いタイムが、ちょっとばかり緊張感を伴うぎこちない雰囲気になっていることは否定できないが、厨房の笹本や吉田あたりは、彼に対する警戒心を幾分解いたようにも思える。
 何度か厨房に入った折、ちょっとした “コツ” やら “豆知識” みたいなものを少しずつ伝授されたりもしているようで、その距離が少しずつ縮まっているのかもしれない。

 フライにかぶりつきつつ、葵はそっと黒河侑司を盗み見る。
 佐々木が “名誉の負傷” とばかりに、腰痛苦労談やら火傷痕の数やらを自慢げに語っているのを、黙って食べながら聞いている。そんな彼は、仕事中の時より表情が少し柔らかいな、と思う。
 率先して喋るわけではないが、話を振られれば普通に会話をする。佐々木に突っ込まれれば苦笑もする。……そんな瞬間を見てしまった時、葵はいつも無意識にサッと目を逸らし、再びそろりと盗み見てしまう。
 こうして最近、彼の一挙一動につい目線が行ってしまうのは、彼に対する負い目からなのだと思う。
 自分がもっと店舗管理責任者としてしっかりしていたら、こんなに迷惑をかけることはなかったのに。
 ――無理していないだろうか、疲れていないだろうか。
 気づけば目で追い、その声に、仕草に、表情に、意識を向けている。

「――ごちそうさまっした! あ、チーフ。持っていきますよ」
「おぅ、わりぃな。……水奈瀬ー、早く食わねーと日が暮れっぞー」
「早食い自慢の店長が……お腹の具合でも悪いんですか?」
「あ、亜美ちゃん……しーっ……!」
 いつの間にか周りのみんなが食べ終わる中、慌てて残りをかきこむ葵の姿も、最近よく見る光景となっているのだった。


* * * * *


 賄いの後――ディナーオープンまで間もない時刻、葵と侑司は業者から託されたワインリストを手に、カウンター裏にあるワインセラーに向かった。
 夏に向けていくつか新しい銘柄を仕入れるので、ワインに関して今一つ知識に乏しい葵は、是が非でも上司のアドバイスが必要だ。
 どれとどれを残しどれを差し替えるか……同じ銘柄でも年によって出来の良し悪しは違い、だからと言ってその蘊蓄うんちくが全ての客に通用するかといえばそうではない。
 杉浦が担当だった頃は、ほとんど彼の言い成りにセレクトしていたが、侑司は完全に葵主体で選ばせる意向らしい。もっと勉強しなければ……と鼻息も荒くなる。

 そうこうするうちに店は開店して、一組、また一組、とちらほら客が来店しだした。
 それでもまだ池谷と篠崎の二人で十分回せる状態だったので、葵は引き続き侑司とワインセラーに向かっていたのだが、しばらくして、「カウンターでよろしいですか? ……どうぞこちらへ」という池谷の声で客が案内されてくる。
 カウンターの対立てで、葵からはその気配しかわからなかったのだが――

「――あ、いたいた! どうも、こんばんは。店長さん」
 どこかで聞いたことのある声がかかり葵が振り返ると、背の高い男性が対立て越しに顔をのぞかせ、こちらを見ている。
 浅黒い肌に赤味がかったくせのある茶髪のその男性を見て、葵は「あ」と目を見張ったが、すぐさま慌てて「いらっしゃいませ」と一礼した。

「久しぶりだね。今日は一人で来たんだ」

 そう言ってにこやかに笑うその人は、以前、青柳麻実やその仲間と来店してくれた、麻実の会社の先輩――片倉、だった。





――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※ アングレーズ……砂糖、牛乳、卵黄などで作るカスタードソースのこと。アングレーゼともいう。『アーコレード』ではコースデザートに使ったりします。
しおりを挟む

処理中です...