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第2部
その噂、亡霊の如し
しおりを挟む十一月も終わりに近づいた。
葵は久しぶりの半休をもらい、今日は午後からの出勤である。身体を芯から震わすような冷たい雨の中、傘を差して店まで歩く。
本当は半休などもらっても、落ち着かないままじりじりと過ごすだけだった。葵は今、片時も店から目を離したくないのだ。許されるなら、店で寝起きしたいほどに。
だが、上司からの命令とあらば従わざるを得ない。
『アーコレード』慧徳学園前店の悪評がネットに載った例の日から二週間近くが経った。だが、未だ進展はない。記事そのものを削除するようサイト運営側に要請しているのだが、なかなか削除されぬままなのだという。
しかしながら、その記事に対する反響は思った以上に大きく、サイト内にあるBBS(会員だけが利用できる掲示板)において、例の悪評投稿者はかなり “叩かれて” いるのだそうだ。所謂 “炎上” というものらしいが、詳しくはよく知らない。
というのも、葵はあれからそのサイトを一度も見ていなかった。
――今後何があっても、冷静な判断に基づいた慎重な言動を心掛けるように。
徳永GMを始めとする上の人間から、何度となくそう命じられている。
例の投稿記事にまつわる様々なものを目にすれば、自分は平静さを保てない気がしてならなかった。
そして肝心の、店への影響――すなわち客足への影響だが、今のところ、はっきりとした風評被害は認められない、というのが現状だ。
常連の客は相変わらず来る人は来る。新規の客も以前と同じ程度には来店する。
あれからどんな反響があるのかと、毎日戦々恐々としているのだが、直接にしろ電話にしろ、それらしい問い合わせは今のところ一件もない。
夏に起きた警察沙汰騒動の後の、過剰に興味津々だった客の反応を思い起こせば、今の静けさがかえって不気味にも思えるほどだ。
慧徳の店に来る客が、こういったグルメサイトをあまり見ない傾向にあるのか、それとも知っていながら来店してくれるのか……葵にはどうにも判断できなかった。
ただ、十一月度の売り上げは前年を下回りそうだ。
十一月の第三木曜日から一週間行われた、ボジョレーヌーボーのイベントが、期待していたほどの売り上げにつながらなかったせいもある。それは、この悪評記事の影響かもしれないし、まったく関係ないかもしれない……これも断定はできない。
前年比や予算を下回る月も、時にはあることだ。無視するわけにはいかないが、気にしすぎて翌月の予算を削りすぎれば悪循環になる。
良くても悪くても気持ちを切り替え、次のクリスマスや忘年会等のイベントに向けてモチベーションを上げていかなければならない。店舗運営とはそういうものだ。
――たとえ、目に見えそうで見えない不穏な気配を、この肌で濃厚に感じ取っていたとしても。
雨音がほとんどしない霧のような雨の中、店まであと約百メートルというところで、葵はふと顔を上げた。
前方に色鮮やかな傘が四つ、後ろ姿はそれぞれ流行を取り入れた若々しい服装。賑やかに弾ける女の子の笑い声……慧徳大学の女子学生だろうか。
歩きながらもキャラキャラとおしゃべりに夢中な彼女たちに、葵はすぐ追いついてしまう。四人は背後の葵に気づかない。
そう広くもない歩道で、車道との境には並木と白いガードレールが施してある。傘もあることだし追い抜くには少々難儀だ。葵がひとまずペースダウンした時、その会話は耳に入った。
「――あれぇ、あんなとこにレストランなんてあったっけ~」
「え、知らなかった? 結構美味しいって評判だよ。ちょっと高めだけど」
「へぇ、なんかいい感じじゃなぁい? 今度アッくんと来よっかなぁ」
「あ、でもこないだ、ここの店、ボロくそ書かれてたけど。ほら、何て言ったっけ、あのグルメの口コミサイト……」
「あ! ソレ私も知ってる! 何かさ、従業員の態度が悪かったんでしょ? たっかい店にありがちじゃん? 料理が美味しくても態度が悪くちゃあねぇ~」
「ふぅん……そぉなんだ~。じゃぁ止めとこ~。高いだけならアッくんにオゴってもらうんだけどぉ」
「アンタねー、そういう貢がせ女だから長続きしないんだよ?」
「言えてる~。男を金でしか見てないもんねー」
「ひっどぉ~い! そんなことないも~ん!」
――きゃっははは……! ヤダやめてよー!
甲高い笑い声が、遠ざかっていく。
葵の足は、止まっていた。
そうか、そうなんだ……と、今更ながらに気づく。
あの投稿記事がもたらす “何か” は、どんな形でも、悪意や害意を露わにしながら直接店を攻撃してくるのだと勝手に思い込んでいた。だからそんな悪影響から店を守らねばと、毎日ピリピリと身構えていた。
けれど、そうじゃない。見当違いもいいところだ。
誰だって、悪いイメージを持ったら、その店には行かない。
――ただ、それだけのことなのだ。
* * * * *
「――来月の予算はこれで行きましょう。今月の予算割れは痛いところですが、年末年始のイベントを一つ一つ確実にこなせば、後期の決算はしっかり挽回できると思います。来週の会議資料はこれで問題ありません。しかし……ずいぶん仕事が早いですね。何度も言いますが、超過勤務は厳禁ですよ?」
店に着くなり、すでにパソコンに向かっていた柏木に呼ばれ、会議資料や翌月予算などにチェックが入った。パラパラと資料をめくりつつ、ツーポイントフレームを抜け目なく光らせる柏木に、葵は「はい」と神妙に返事をする。
十二月の月会議は、今月よりさらに早い第一週に行われる――つまり来週だ。年末は年間最大の書入れ時なので、あらゆることが前倒しになる。故に、葵も急ピッチで資料作成に勤しんだのだが、柏木のチェックの目はまさにそこへ引っ掛かったようだ。
ここ近日のゴタゴタですっかり意識の外に追いやられていたが、今や柏木は正式な担当マネージャーである。葵の直属の上司は、否応なく彼となった。
不思議なもので、柏木の回りくどい言い回しや厭味な皮肉にも慣れつつあった。言い方は上手くないが、彼なりに店や葵のことを案じているのは何となくわかる。厚意とわかれば、厭味な部分を聞き流すことも可能になった。
だが、葵の超過勤務を見咎め、今後一切禁止とされたのは正直痛い。
例のクレーム事件以降、何かと理由をつけて朝早くから深夜過ぎまで店に居続ける葵に、柏木は、これ以上超過勤務をするようなら統括へ報告させていただきます、と断固とした口調で言い渡し、監視の目をピカピカ光らせている。
だからここ何日も、決められた勤務時間を超えて店にいることができなくなり、じりじりと落ち着かずそわそわと逸る気持ちを抑えながら、後ろ髪引かれる思いで帰宅することも多かった。
その代わり、柏木本人が三日と空けず慧徳店に顔を出す。いや、柏木だけでなく――、
「おや、アッオイちゃーん! おっつかれー。イヤだね天気悪くてさー。おかげでランチはあんまり盛り上がらなかったよー。ディナーは一緒に頑張ろーねー」
フロアに続くドアからひょっこり顔を出し、軽~い口調で愛敬を振りまくのは杉浦崇宏…… “元” 担当マネージャー。半休だった葵の代わりに、ランチタイムへ入ってくれたのだ。
「一緒に……って、杉浦さん……ディナーも入っていただけるんですか……?」
「うんうん。だってカッシーだけじゃ息が詰まるでしょ? お仕事は楽しくやらなきゃ! この杉さんがカッシーのネチネチなんか吹き飛ばしてあげるからさー」
「……ネチネチしていて悪かったですね」
「やだなカッシー。そんなにネチッこい顔しなくってもー」
杉浦と柏木のやり取りを聞きながら、葵は静かに目を伏せる。
今、柏木だけではなく杉浦までも、こうして度々慧徳へやってくる日が増えている。例のネット悪評記事の影響が現時点においてはっきりしないため、しばらくはマネージャーを常時待機させる目的もあるのだろう。だが、それよりも実際問題として、慧徳店の人員不足を補うヘルプの役割の方が大きい。
人員不足はフロアのシフトラインで起きていた。大学院へ進む予定の篠崎が、ちょうど今、セミナーや試験が立て込み忙しい時期で、ほとんどアルバイトに入れない日が続いているのだ。
そしてさらに、亜美が先々週あたりからずっと音信不通で連絡が取れない。
以前亜美本人から、しばらく学校が忙しいという旨を聞いているので、とりあえずしつこく電話することは控えているが、どうも池谷や篠崎の口調からして裏に何かありそうな気もする。特に池谷はどういうわけか、亜美のことを話題にするのも不愉快そうであった。
そんなわけで、フロア担当の人員が実質、葵と池谷だけなのである。
池谷は構わないと言ってくれるが、学生の彼にそこまで負担はかけられず、だからと言って葵の連日フル出勤は柏木が許してくれない。小さな店を少人数で回すデメリットは、いざ欠員が出た時の穴埋めが難しいことにあるだろう。
よって杉浦・柏木両マネージャーが、こうして自らフロアに立つ羽目になっている。
しかし、二人とも口には出さないが、実はかなり無理をしてここに来ているのだ。
杉浦の担当は本来が『紫櫻庵』だ。「俺っちの日頃の指導が行き届いているからねー、少しくらいほったらかしといても大丈夫なのさー」と杉浦は軽く笑って言うが、彼が日に何度も、店裏でこっそり『紫櫻庵』の支配人や料理長と電話で連絡し合っているのを、葵は知っている。
柏木も、朝一番に慧徳へ顔を出した後、渋谷や恵比寿のランチを回り、夜にはまた慧徳に戻ってくる、というかなりハードなスケジュールをこなすこともあるようだ。
担当マネージャーとして当然です――全身からそんなオーラを発散させながらキビキビ動く新マネージャーの姿に、杉浦など「ねちねちメガネくん、ネチネチ張り切る」と標語もどきでからかっているが、葵は申し訳なさで笑えなかった。
いずれにせよ、文句ひとつ言わずフォローしてくれる彼らは、曲がりなりにも人の上に立つ “上司” であった。
己の未熟さや頼りなさを嘆いて落ち込み、はっきりしない現状に何もできず焦り苛立つだけの自分が、どれほど小さな人間か、身に染みて思い知らされる。
「さ、アオイちゃん。ディナーの始まりだよ」
ポン、と肩を叩かれ、滅多に聞くことのない真面目で優しい杉浦の声に、葵は顔を上げる。
いつもふざけて茶化す杉浦がこうなる時、それは大概、「気を引き締めろ、気持ちを切り替えろ」という叱咤が含まれている。
いつまでも自分を責めていたって、事態が好転することはないのだ。
「――はい、着替えてきます」
そう、自分がどうあろうが、店は開く。客が来る。
この『アーコレード』へ訪れた客を、笑顔で迎えて心からもてなす――それが、葵の仕事なのだ。
* * * * *
ディナーオープンしてすぐ、予約の八名様が来店したので、店はのっけから賑やかな雰囲気となった。
この近隣の主婦たちで結成された “書道サークル” の御一行で、実はその幹事、アルバイト篠崎の母親なのである。
そもそも彼女が、所属するサークルに息子のアルバイト先である『アーコレード』を紹介したのがきっかけで、何かとご贔屓にしてもらえるようになったのだ。特別な集まりの際には洋風御膳の特注を入れてくれたり、時にはこうして店に予約を入れて盛大に食事を楽しんでくれたりもする。今日は都内で行われた合同展覧会の打ち上げということだった。
前菜にスープ、魚料理と肉料理、そして最後にデザート、という王道コースメニューを八名分。ワインも二本注文していただき、テーブルには奥方たちの煌びやかな笑い声が満ち溢れる。
「シノちゃんのお母上、結構な美人さんですねー」と、こっそり耳打ちしてくる杉浦に、メッと睨みを利かせて、葵は手早くワインクーラーの準備をすませた。
八名様の給仕が一通り落ち着いた頃、他の客も入り始めた。
朝から降り続いた雨はようやく上がったらしいが、外はずいぶん冷え込んでいるようだ。温かいスープや熱々のグラタン、シチューなどの注文が相次ぐ。
杉浦と柏木、そして葵の三人で、フロアを隈なく渡り歩く中、もう一組の客が来店した。
――カランコロン、のドアベルと共に入ってきたのは、常連客である著名な小説家の古坂氏と、妻の律子だ。
夫婦でご来店とは久しぶりではないか。葵は満面の笑みで二人を出迎えた。
「いらっしゃいませ、古坂さん」
「こんばんは葵ちゃん。今日はずいぶんと冷え込むわね。すっかり手がかじかんじゃったわ。お席、空いているかしら?」
「はい、ちょうどテーブル席が一つだけ空いています。手前ですけれど、よろしいですか?」
「ええ、ええ、もちろんどこでもいいのよ。ほらアナタ、こっちの席ですって。はや――、あら? あら。あらあら、篠崎さん! まぁ、仲本さんも!」
案内されたテーブルより奥の方に目がいった律子夫人は、嬉々として八名御一行へ近づいて行く。
「まぁまぁ、今日はなにごと? ああ、書道サークルの?」
「古坂さん、お久しぶりじゃない!」
「お元気? 今日はご主人と? おほほ、相変わらず仲がよろしいのねぇ」
迎えた奥様方からさらに賑やかな声が上がる。顔の広い古坂夫人、どうやらそこに篠崎夫人を初めとする何人かの知り合いを見つけたようだ。
店内に響き渡る御夫人たちの姦しい笑い声に、片隅で控える杉浦も苦笑し、柏木といえばわずかに顔が引きつっていた。
「……オーダーは、もう少し後でもいいかい? 葵ちゃん」
いつもながらおっとりと穏やかな古坂氏が、夫をほったらかしにしたまま戻ってこない妻を眺めつつ眉を八の字にしているので、葵は思わず吹き出しそうになってしまう。
「そうですね。メニューだけお持ちしておきますよ」
そういった葵に、古坂氏は「ありがとう」と微笑んでゆっくりとコートを脱いだ。
偶然の鉢合わせをひとしきり楽しんだ御夫人方は、ようやくそれぞれの席に戻り食事を再開させた。古坂夫妻のテーブルも、あーだこーだと律子夫人の意見を多分に尊重しつつ、オーダーをし終える。
しばらくのち、早い時刻から食事を始めた八名は、食後のデザートを堪能する頃となり、そのタイミングで幹事の篠崎夫人が一人席を立った。先に支払いを済ませたいという。
レジで葵に会計をしてもらいながら、息子とよく似た優し気な顔立ちの彼女は、今日はいない息子の普段の働き振りなどを尋ねて「もうしばらくお世話になるわね、よろしくね」と母の顔で笑った。
領収書を受け取った篠崎夫人は、一瞬だけちらりと古坂夫妻のテーブルに視線をやり、そして何気なさを装いつつも小さな声で葵に尋ねた。
「……古坂さんたち……最近、いらっしゃってる?」
――ほら、あの四人組で。
言われた瞬間、葵は「あ」とそのことに思い当たった。
古坂夫人率いる姦し四人衆……そう言えば今週は……、いや、先週もだ……葵の知る限り、来ていない。……その前は? いつから来ていないんだろう……
「あら、私ったら……余計なことね。ごめんなさいね」
思い直したように首を振って、篠崎夫人は領収書を丁寧に封筒へ納め、ハンドバッグにしまった。
「うちのサークルはね、私もみんなも、ここのお店が大好きなの。お料理も従業員の方たちも。……そう思っている人はたくさんいるわ。だから……頑張ってね、店長さん」
にっこり笑って、夫人は仲間のいるテーブルへ戻っていく。
葵はその背を見送り、そっと古坂夫妻のテーブルの様子を窺った。
食事を楽しみながら淀みなく喋りかける夫人と、穏やかにうんうんと聞くに徹する古坂氏。メイン料理を運んできたギャルソンを見るなり「あらやだ誰かと思ったら杉浦くんじゃない!」と矛先転換、律子夫人の機関銃トークは杉浦に向かう。
ここへやってくる夫妻の、いつも通りの様子。
それでも、葵の心の奥に、何かがざわりと騒めいた。
* * * * *
篠崎夫人の、微妙な言葉回しの意味を葵が知ったのは、それから二日後だ。
ようやく学校関係にひと段落ついた篠崎が、その夜、シフト予定を出しに店までやって来た。その際、先日の食事会で母とその仲間が世話になったことに礼を述べた後、「うちの母、店長に変なことを言いませんでしたか?」と心配そうに尋ねてくる。
続いて彼が語ってくれた裏事情を聞いて、あの時葵が感じた妙な胸騒ぎは、的外れではなかったことを知った。
あの姦し四人衆――四人の御夫人方は、なんと只今仲違い中、らしい。
いい歳をした熟女が、と一笑に付したくもなるが、当人たちは至って真剣に険悪なのだそうだ。
原因は他でもない、例のグルメサイトに掲載された『アーコレード』慧徳学園前店に関する悪質な投稿記事だ。
とは言っても、四人が四人ともそういったグルメサイトなど閲覧する習慣はなく、むしろ年代的にパソコンや携帯の操作でさえ危うい御年頃である。記事を見つけたのは、四人の中の一人 “良子さん” の、高校生になる娘だった。
その良子夫人の娘は、母がよく行くレストランの記事をたまたま見つけ、しかも簡単にスルーできないような内容とあって、軽い気持ちで「見てよコレー」と、母親に端末画面を見せたそうだ。
驚いた良子夫人は、つい他のお仲間三人に、これこれこういった記事が載ったらしいのよ!と興奮交じりに報告する。別に記事の内容を信じたわけではない。ただ、自分が受けた驚きを共有してもらいたかっただけだ。
だが、予想に反して古坂律子の反応は凄まじかった。
――そんな記事が本当のわけないじゃないの! アナタそれを信じるっていうの? 嘘っぱちのネット情報を鵜呑みにして踊らされるなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがあるわ!
あまりの剣幕にあとの二人は唖然とし、良子夫人はいささかカチンときた。
――そんなつもりで言ったんじゃないのに、私だって信じたわけじゃないのに、どうしてこんな言われ方をされなきゃならないの?
そこからは、売り言葉に買い言葉である。
極めて口の達者な律子夫人にあわや負かされそうになった良子夫人を、他の二人が庇うような形になって、律子夫人は怒りのままその場を立ち去って行ったという。
それから、四人で会うことはぱったり途絶えてしまった――
何故、こんな話を篠崎が知っているかというと、篠崎の母親経由なのだそうだ。
仲違いの後日、四人のうちの律子夫人でも良子夫人でもない、もう一人の夫人が、偶然町中で篠崎の母と会ったらしい。篠崎の母は、以前起きた篠崎家長女の破水事件がきっかけとなり、姦し四人衆とはすでに顔馴染みだ。偶然会った彼女に、夫人は喧嘩の顛末を愚痴交じりに喋ってしまった。おそらく、篠崎家の息子が例のレストランでアルバイトしていることを知っていたので、つい話の流れで打ち明けたのであろう。
一方、篠崎の母は、息子のアルバイト先の悪評など寝耳に水だ。息子が帰宅するなりどういうこと?と問いただし、姦し四人衆の決裂話も息子に話して聞かせた、というわけだ。
……世の噂とはこうして広まっていく、という典型的な形では、ある。
「店長、気にしちゃダメですよ? みんな、その記事を信じているわけじゃないんです。ここに来るお客さんたちだって、大抵そんなネットの記事なんて見てやしない……もし見たとしても、信じない人が大半です。人間は、自分の信じたいことを信じるようにできているんですよ」
篠崎の優しい言葉は、葵を辛うじて微笑ませたが、憂を晴らすには至らなかった。
昼間聞いた女子学生の会話は、まだ耳に残っている。
記事の信憑性など、店を訪れたことのない人間にとっては、さしたる重要度はないのだ。
悪い評判を聞けば、じゃあ行くの止めようかな……そう思うのが人間の心理じゃないのか。現に自分だってそうだったじゃないか。実際行って見て食べたわけじゃないのに、周りの意見を鵜呑みにした経験は少なからずある。
そして何より、悪評は広まるのが早い。
蓮と萩から「店は大丈夫なのか」「一体何があったんだ」と電話がかかって来たのは、あの投稿記事が世間の目に晒された日のわずか数日後だ。とりあえず適当に誤魔化したが、普段はグルメサイトなど見ない彼らでさえ、こんなに早く知り得たのだと思うと頭を抱えたくなる。
篠崎は「亜美のことは、僕が何とか連絡をつけてみますから」と言いつつ、心配そうな顔のまま帰っていった。
彼を見送り、葵は誰もいない事務室のデスクに、額を打ちつけるようにして突っ伏した。
――気が滅入る……どうすればいいのだろう。
ほんの数か月前まで、店はかつてないほど順調に回っていたはずだった。なのに今、重大な欠陥に拡大しそうな亀裂があちこちにできて、危険な軋音を鳴らしている。
頭が締め付けられるほど考えても、今自分にできることなど皆無だ。もどかしい気持ちを押し込めたまま、日々の仕事をこなすことしかできない。
いっそのこと、すべての災いが自分だけに降りかかればいいのに。
『――水奈瀬さんの焦りはよくわかります。……が、今は大事な時なのです。この先、一瞬の油断や判断ミスが原因で事態が悪化すれば、慧徳店の存続問題……さらには黒河マネージャーの進退問題にも発展しかねません』
篠崎が来るほんの少し前に帰った柏木が、帰る直前、葵に言った言葉だ。
その意味を取りかねる葵に柏木は言った。
『――事はそれほど深刻なのです。……いいですか? 例の件が明らかな風評被害に発展し、ここの売り上げが激減した場合……最悪、ここは閉店せざるを得ません。しかもです……もし、その被害が『櫻華亭』にまで及び、会社全体の損害につながる事態にまで発展したならば……考えたくはありませんが、その責任を取るのは、黒河マネージャーとなる可能性が高いのです』
『そんな……っ、どうして黒河さんが……だってあの人はもう、担当ではないのに――、』
『もちろん、負えるものならば私がその責任を負います。マネージャーに昇格した時点でそれ相応の覚悟は決めたつもりです。……ですが、これ以上事が大きくなった場合、私のような成りたての新米マネージャーごときでは、事態収拾の駒にはなり得ないのです。……そうなった時、黒河マネージャーは社の面目を保つため、そしてこの店を存続させるために潔く全責任を追うでしょう……そういう人です。……そもそものクレームが発生したのは、担当交替の引き継ぎの日……上も体面上、黒河マネージャーの管理不行き届き、とするでしょう……』
蒼白になって凍りついた葵に、柏木はレンズの奥の瞳を、わずかに揺らした。
『まだ、そうと決まったわけではありません。あくまでも可能性の話です。要は、ここの店があんなネットの記事など足蹴にするほどの売り上げを取ればいいのです。……私は、個人的に黒河マネージャーへの “恩” があります……彼一人に責任を負わせるわけにはいきません。この苦境を乗り越えて、この店が悪評などに負けない店であることを証明しましょう。……いいですね? 水奈瀬さん』
――この店が……無くなる……?
――黒河さんが……責任を取らされる……?
デスクに額をつけたまま、葵は頭の奥が痛むほどギュッと強く目を閉じた。
十一月の会議の日以来、一度も顔を合わすことのない元上司。
つい先日、立花千尋から聞いた彼の過去は胸に痛かったが、それを乗り越えた彼の芯の強さに憧憬を抱き、密かに自分の心の拠り所とした。どうしようもないほど心が重く沈む度に、凛とした彼を思い出して己の気持ちを奮い立たせてきたのだ。
だが所詮、それも愚かな自己満足でしかなかった。
――他でもない自分が、彼を追い詰めることになるなんて。
――黒河さん……黒河さん……
口に出せない想いが、胸の内で溢れかえって窒息しそうだ。
……黒河さん、ごめんなさい……
……黒河さん、どうしたらいいですか……?
……黒河さん……会いたいです……
応援ありがとうございます!
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