チェイス★ザ★フェイス!

松穂

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第5章 淋しいキノコは山より里を選ぶ

第6話

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「――ねぇっ! いったいどーゆーことなのっ! わかるように説明してよっ!」
「だから、何度も言ってんだろ? 十四年前の放火殺人事件で、放火された家に住んでいた母親と一人娘が――」
「死んだっていうんでしょっ! アタシが訊きたいのは、どうして娘の、、、、、、天宮陽乃子が、、、、、、死んだことに、、、、、、なっているのか、、、、、、、ってことなのっ!」
 キンキンと甲高い声が突き刺さるようだ。あの声が形を持ったら、さぞや殺傷能力の高い凶器となるだろう。
 キッチンで湯を沸かす柾紀がうんざりした様子で「俺に訊くなよ……」と溜息を吐けば、リリコは背を向けた柾紀の肩口にかじりつく勢いでまくし立てた。
「ヒノちゃん生きてるじゃないっ! ここで一緒にご飯食べたでしょうっ? アタシ、一緒の部屋で過ごして一緒のベッドに寝たのよっ! あれが幽霊だったとでもいうのっ?」
「落ち着けって……今ノブがその放火殺人事件ってやつを調べてんだ。まずはメシを食って……」
「ゴハンなんて食べてられないわよっ! 次から次へとワケのわからないことばかりで、アタシだってひっくり返って寝込みたい気分だわっ……!」
 ダンダンと脚を踏み鳴らして苛立ちをぶちまけるリリコ。確かに、ひっくり返って自室に運び込まれたタマコに比べれば、まだ自我を保っているだけマシなのかもしれない。タマコは一夜明けた今も、原因不明の発熱(おそらく知恵熱)で安静中である。
 タマコを介抱する騒ぎの中、弥曽介老翁は帰ったようだ。佐武朗が苦虫を噛みつぶしたような顔で見送っていたので、何か意に染まない指示を受けたのかもしれない。それからほどなくして佐武朗も出かけてしまった。
 他の者は各々、軽食を取ったり仮眠を取ったりしながら朝を迎え、診療所から帰宅した亮がタマコの様子を見に行き、鴨志田は朝早くから実地調査に出向いていった。
 そして幸夜はいつものごとくリビングのソファに寝そべりつつ、キノコ娘の遺留品である数冊のノートを何となくめくっている。トートバッグに入っていた三冊と、コインロッカーから見つかった学生鞄にも一冊入っていたので合計四冊。どのページにも人間の顔がびっしり描かれたそれらは、眺めているだけで人混みの中にいるような気がしてくるから不思議だ。
 柾紀が「お前らも食うか?」とカップ麺にお湯を注ぎ、「いらない」と二人がすげなく断ったところで、リビングのドアが開いて信孝が入ってきた。ノートパソコンと数枚の紙束を抱え、髪はぼさぼさで顔色はいつも以上に悪い。あれからほとんど寝ていないのだろう。
「――おぅ、ノブ。どうだ、詳しいことがわかったか」
 柾紀が煙草をくわえながら声をかけると、信孝は強張った顔で小さく頷き、ダイニングテーブルの柾紀の隣に座った。
「十四年前の新聞記事を片っ端から調べてみたんだけど、おかしなことばっかりで……」
 テーブルに広げられた数枚の紙面を、柾紀とリリコが覗き込んだ。
「放火されたのは天宮家……天宮淳平とその妻の天宮真梨子、一人娘の陽乃子の三人が住んでいる一軒家。でもね、放火される三日前に天宮淳平は、、、、、死亡している、、、、、、んだ。死因はひき逃げ。犯人は捕まっていない」
「ひき逃げ……?」
 柾紀とリリコが不可解な顔を見合わせる。
「事件当時、彼の娘も一緒に居合わせたらしいんだよね。その子はかすり傷程度で済んだらしいけど、父親は死亡してる。それ以上詳しい情報は出てこなかった。それで、天宮淳平の葬儀が執り行われた日の深夜に、天宮家が放火されているんだ。消防署の調べでは、灯油を撒いて火を点けた形跡があったって。――で、現場から当時五歳だった一人娘が助け出されたけど、意識不明の重体で病院に運び込まれていて、焼け跡からは女性の遺体が発見されてる。それが天宮真梨子だと断定されたみたい」
「一人娘は」
「火事の二日後に病院で死亡、だって。その病院がね、正琳堂病院、、、、、
「いちいち繋がってきやがるな」
 煙草に火を点けて、柾紀が紫煙交じりに唸る。
「でもおかしいんだよ。ひき逃げされて放火されてって、どう見ても裏に何かありそうな事件じゃない? なのに取り上げたメディアが少なすぎると思う。載っていたのは地方紙の片隅にこれっぽっちだけ……そりゃ小さな田舎町で起きた事件だけどさ、もっと大きく取り上げられてもよさそうなのに」
「だな……容疑者の天宮晃平って男は?」
「天宮淳平の三つ上の兄だって。元刑事……階級は巡査部長だったみたい。でもやっぱりヘンなんだよ。事件当初は、天宮真梨子が夫を亡くしたショックで母子心中を図った、って見られていたらしいんだ。なのに突然、その一週間後に天宮晃平への逮捕状が出て、彼は自宅にやってきた刑事を振り切って逃走……すぐに全国指名手配されてる。それから今まで十四年間、行方不明のまま」
「現役警察官が放火殺人の容疑者ね……ひき逃げについては触れられてねぇな」
 プリントアウトされた新聞の過去記事を、柾紀は煙草を挟んだ指でなぞる。信孝は身を乗り出して訴えた。
「ねぇ、おかしいと思わない? 普通、警察官が放火殺人の容疑者だなんて全国ネットレベルの大ニュースでしょ? なのに天宮晃平が逃走した翌日の地方紙に小さく載っただけで、そのあとの進展はどの新聞を捜しても載っていないんだ」
「確かに奇妙だな。裏で糸引くデカい権力を感じるぜ」
「この放火事件が起きた管轄の警察署……探ってみようか」
 どこか思い詰めたような目をする信孝に、柾紀は慌ててその肩を叩いた。
「待て待て、警察署のデータベースはちょっと待て。――ほら、そろそろ不二生薬品本社に行った鴨さんから連絡があるはずだ。それからだって遅くはねぇさ」
「でもっ! ヒノコの身に危険が迫ってるんでしょ? いなくなってからもう二日目なんだよ! 何があってもおかしくな――」
「――やめてよ! 縁起でもない!」
 リリコがテーブルを叩いて激昂し、信孝がシュンと俯く。けれどリリコもすぐに意気消沈、椅子の上に力なく崩れ落ちた。
「……ヒノちゃん、左の脚に火傷の痕があったのよ……たとえあれが十四年前に負った火傷だったとしても、あの子は死んでなんかいないわ……何か手違いがあったのよ……」
「リリコ……」
「身勝手なアタシについて来てくれたの……香穂のために何かできることはないかって、言ってくれたのよ……なのにアタシ、こんなところで待つしかできないなんて……今度一緒にお買い物行こうって約束したのに……メイクを教えてあげるって……美味しいケーキを食べに行こうって……約束したのに……」
 口をへの字にエグエグと泣き始めるリリコ。それに呼応したかのように信孝まで「結局、ボクにできることなんて何もないんだ……」と目に涙を滲ませ唇を噛む。
 気の毒なのは柾紀だ。半分も吸っていない煙草を灰皿にすり潰し、柄にもなく狼狽うろたえた。
「お、お前ら、泣くんじゃねぇよ……爺さんが言ってたろ? 嬢ちゃんは殺す目的で連れ去られたんじゃねぇって。ああ見えて爺さんはすげぇ人なんだ。爺さんの言うことに間違いはねぇよ、信じようぜ? ――あっ、もうすぐ鴨さんから連絡が来るぞ? 鴨さんが聞き込みの神だって、お前らも知ってんだろ? 今に嬢ちゃんの居所に繋がる有力な手がかりを――」
 言葉を切った柾紀は、テーブルの端でヴーヴーと音を立てる携帯端末を取り上げた。
「――おーら、鴨さんからだ。な、俺の言った通りだろ? ――おぅ、待ってたぜ鴨さん。どうだった?」
 ホッとしたように端末画面を操作した柾紀は、それをテーブルの上に置いた。スピーカーモードにしたのだろう、端末から『それがですね』と鴨志田の声が聞こえてくる。
『――やはり、藤緒社長と副社長の海外出張に関する詳細を知っている社員はおりませんね。出張スケジュールは一切明かされておらず、いつ戻ってくるのかと尋ねても “わかりかねます” の一点張りで。しかし、まだ帰国していないのは確かのようです』
 ガサガサと雑音交じりに『それから』と鴨志田の声は続く。
『藤緒社長と副社長はそれぞれご自身の車を所有しており、不二生薬品名義の社用車を利用することは滅多にないそうです。社用車は主に取引先との接待などに使われるのみのようですね』
「なら、そっから絞れねぇか? 誰でも運転できる車両じゃねぇんだろ?」
『はい。接待時には、社長と副社長それぞれに専属でつく運転手を使うそうです。つまり、社長のお客様なら社長付きの運転手が、副社長のお客様なら副社長付きの運転手が、といった具合です。専属の運転手は社長と副社長にそれぞれ二名ずつついていて、彼らの護衛役も兼ねているとか』
「たかだか中堅製薬会社の取締役にSPねぇ……ボスの話もまんざら都市伝説ってわけじゃねぇようだな」
『念のため名前も調べておきました。社長付きの運転手が岡戸おかべ加畑かばた。副社長付きの運転手が宇辺野うべの牟田むた、だそうです。この四人以外に不二生薬品の社用車を運転する人物はいないと考えてよさそうですね。ちなみに、四人の運転手は今回の海外出張に同行しておりません』
 フームと唸った柾紀を、リリコと信孝がもの問いたげに見る。
『それからもう一人、朋永弁護士も留守番のようです。こういった極秘の海外出張の際には必ず藤緒社長に付きそってきたらしいので、今回の出張に限って同行していないのは気になるところです。――ああ、あともう一つ。以前より不二生薬品本社を何度も訪れる、妙な男がいたそうで』
「妙な男?」
『牛久間充雄ですよ。飲酒運転で人身事故を起こして、正琳堂病院を解雇されたという』
 携帯端末の声に聞き入る三人の顔に緊張が走った。
『最初の訪問は三か月以上前のようです。ずいぶん思い詰めた様子でやって来た彼は、藤緒社長に面会を求めたとのことですが、アポイントもなく挙動も不審だったので取り次ぐことはしなかったそうです。ところが彼は、その後も度々やって来ては社長に会わせてくれと懇願してきたそうで、受付の社員もほとほと困っていたそうです。そんなある日、いつものようにやって来た牛久間との押し問答を、たまたま副社長が目にしたそうで』
 鴨志田の口調が少し早口になる。
『事情を聴いた副社長が彼を通すように許可したそうなんですよ。自分が社長に口を利いてあげよう、と言って。結局、副社長についていった牛久間は小一時間ほどして降りてきたそうで、受付の方が言うには、来た時とは打って変わって満足そうな表情だった、とのことです』
「気になるな。牛久間の目的は何だったのか」
『はい。いくら不二生会傘下の病院に勤めていたとはいえ、一介の医者が親会社の取締役に直接面会を求めるなど、なかなか考えられないことです。しかも、その牛久間が殺害されたということは……』
「ナンらかの口封じ……もあり得るってことか」
 蔓文様の太腕を組んで唸る柾紀に、『ですね』と鴨志田が応える。
『牛久間充雄は、藤緒家に関する何か重大な秘密を知っていたのかもしれません。藤緒家では昔から跡目争いが絶えないと、ご隠居も仰っていましたよね……陽乃子さんはそれに巻き込まれた可能性もあります』
「――それで? 嬢ちゃんの居場所を突きとめる手がかりは見つかったか?」
『いえ、まったく』
 同時にリリコと信孝がテーブルに突っ伏した。それを見ているかのように鴨志田は『すみません』と申し訳なさそうに言う。
『せめて、藤緒社長や副社長のプライベート方面から何かつかめれば……と手を尽くしたのですが、我々がすでに知っている以上の情報は得られませんでした。彼らの携帯番号さえわからないんですから』
「マジか。そりゃちょっとおかしいぜ」
『ええ。個人情報が異常なほど徹底管理されていますね。彼らだけでなく、不二生薬品の上層部に関する情報は意図的に遮断されている印象を受けます。同じ社内の人間でも知らされていないことは多いようで……』
 沈みがちな空気を振り払うように、鴨志田は『そういえば』と声音を上げる。
『陽乃子さんが以前住んでいた所はどうでしたか?』
「ああ、嬢ちゃんが通ってた昌華学園女子高から車で三十分ほどの場所にある高層マンションだ。オーナーは昌華学園の理事長。んで、その理事長と藤緒徳馬は学生時代の同窓だってことがわかった」
『なるほど……巧妙な裏工作を感じますね』
 そこで信孝が、テーブルに顎を乗せたまま口を開いた。
「そのマンションに設置された防カメはひと月前までのデータしか保存されてなくて、あるだけ全部探ったけど不審な人物は見かけなかったよ。……ヒノコがそこに帰った様子もなかった」
『そうですか……やはり簡単に調べられる場所には居そうにありませんね。もしかすると陽乃子さんは、我々が突き止められない隠れ家のような場所に監禁されているのかもしれません』
「藤緒の関係者が持ってる不動産をかたっぱしから調べてみるのはどうだ? 爺さんの話からして、藤緒の身内は相当な資産を持ってると思うぜ?」
『調べたいのは山々なんですけれど……難しいところですね。特定の建造物の所有者は比較的容易に知ることができますが、特定の人物がどこにどんな不動産を所持しているかは、個人情報のため他人が調べることはできないんですよ』
「ノブにやらせるか」
 柾紀が信孝を見る。パッと顔を上げた信孝だが、聞こえる鴨志田の声音は明るくない。
『……不動産登記の管理は市町村役場単位です。黒のセダンが向かった方角からある程度調査範囲は狭まるでしょうが、それでも一つ一つの役場を調べていくには膨大な時間がかかります。ましてや、他人名義で持っていれば特定のしようがありません』
「じゃあ、どうすればいいのっ! このまま諦めちゃうのっ?」
 耐えかねたようにリリコが叫んだ。
『落ち着いてくださいリリコさん。今、所長が “最後から二番目の手段” を取るべく動いております。ご隠居に命じられて仕方なく、といった感はありましたが』
「最後から、二番目……?」
『はい。少なくとも、打つ手はまだ残されています。なので、僕は僕で……藤緒社長の奥様に会ってみようと思うんです』
「施設に入院しているっていう……」
『はい。話を聞き出すのは無理かもしれませんが、少しでも手がかりになる何かが得られれば……』
 明るくはないが弱くもない声で鴨志田は『何かわかりましたら、またすぐに連絡を入れますから』と言って通話を切った。
 ダイニングに座る三人は置いてきぼりにされた子供のような顔だ。
 幸夜は身を起こしてソファから立ち上がった。
「――ノブ、手伝え。不二生薬品本社にある防カメ、全部洗うぞ」
「え……う、うん!」
「ナンだ、何かわかったのか?」
 期待を滲ませる三人には申し訳ないが、鴨志田の言う通り、陽乃子の居所をつかむ突破口は今のところない。しかし、確認したいことは見つかった。
「鴨さんが言ってた四人の運転手、その中にこいつらがいたらビンゴだ」
 幸夜は、手に持ったノートの一冊を広げて見せる。紙面に並んで描かれた二つの顔――馬っぽい顔とえらの張った角張った顔――を指し示して、幸夜は陽乃子と初めて出会った(ぶつかった)時のことを簡単に説明した。
 するとリリコも「そういえばそうそう!」と興奮気味に目を見張る。
「あの時、二人の男がヒノちゃんを追っていた感じだったのよ……でもアタシ、男の顔なんてぜんぜん覚えてない。ユキヤってば、人の顔も記憶できたの?」
「まさか、キノコじゃあるまいし。オレのキノコを踏みつけて行った野郎だからたまたま覚えていただけだ」
「オレの、キノコ……?」
 信孝がキョトンと首を傾げる。柾紀はやれやれと溜息を吐いた。
「キノコが錯綜してんな……――ぉあっ! やべぇ! 俺の朝飯が」
 柾紀が慌ててカップ麺の蓋を開けて箸で掬い上げた麺は、かなり汁気を吸ってマズそうだった。


 それからその日の夕刻を過ぎるまで、幸夜たちはやみくもに無益な作業を続けた。おそらく皆が、下りのエスカレーターをひたすら自力で上っていくような心地だっただろう。得られた成果は、毒にも薬にもならぬようなつまらない事実ばかりであった。
 不二生薬品本社に設置された防犯カメラを可能な限り解析したところ、ノートに描かれた二人の男は容易く見つかった。専属運転手がSPも兼ねているというだけあって、本社内への出入りが頻繁だったからだ。
 これで陽乃子を追っていた二人組の正体は判明したが、彼らに関する詳細はどこを捜しても浮かび上がって来なかった。わかったのは、運転手二人がここ数日の間、本社に出入りしていないということだけである。念のため、不二生薬品の幹部やその周辺の人間をできる限り調べてみたが、陽乃子と関係のありそうな人物は一人もおらず、陽乃子救出の手がかりは何も見つけられなかった。
 牛久間充雄の殺害事件についても、ネットのニュースに書かれていた以上の情報は得られなかった。容疑者特定となった “自宅付近の防犯カメラの映像” が、彼の自宅から三区画ほど離れた大通り上の防犯カメラのものと判明し、たしかに牛久間のあとを尾行しているように見える男の姿は確認できたが、正直なところ幸夜は腑に落ちなかった。
 殺害現場となった牛久間の自宅は、わりと立派な一軒家にもかかわらずセキュリティ対策には無頓着だったようで、防犯カメラの類は一つも設置されていなかった。だからといって、三区画以上も離れた場所にある防犯カメラの画像だけで容疑者特定とは、ずいぶん早計で不可解な感も否めなかった。
 信孝は他の作業と並行して、黒のセダン車の行先を突き止めるため、オービスはもとよりNシステムからAVIシステムまでチェックしていたが、この街を出てからの行先が判然としないため、無数に枝分かれした迷路を辿るような作業は難航していた。
 行き詰った信孝は警察本部のデータベースへ侵入したがったが、皆に反対された。当局のデータベースは、他のそれとはわけが違う。信孝はかつて無分別に侵入し、危うく身元特定されるところだったのである。とはいえ、サブロ探偵事務所の調査員が今まで数々の違法手段を講じてきたことも事実であり、いつもならこういった場合、皆の反対を足蹴にして信孝に強行させるのは幸夜の役回りになることが多いのだが、その幸夜が、佐武朗から連絡があるまで待てと命じたため、信孝は渋々従うしかなかった。
 まるで大海原に漂う帆のない子船に乗った漂流者のような心地であった。見渡す限りの水平線上には目指すしるべも導く風もなく、漕ぎ出すオールはあまりにも小さい。
 特にリリコと信孝は、続く寝不足と疲労のせいでネガティブな顛末ばかりが思い浮かぶのだろう。湧き上がる不安と焦りが身中をむ蟲となって、彼らを無作為に動かしているようであった。
 そして幸夜は、焦りというより、言いようのない胸糞の悪さを感じていた。
 幸夜にとって探偵の仕事はパズル遊びと似ている部分がある。手元に集まるピースの要不要を見極め、正しい場所に正しい向きで嵌めれば、ピースの数が不完全でもいずれ全体像のイメージが見えてくる。つかんだイメージに沿って調査を進めれば、残りのピースは自然と明らかになり、必ず予想とごく近い絵柄が出来上がるのが常であった。
 しかし、今回のパズルは出来上がり完成図のイメージが一向にまとまらない。
 首謀者はわかった。陽乃子の素性もあらかた判明し、牛久間が果たした役割も想像がつく。集まったピースはいくつかの小片を形作るけれど、その小片同士が上手くつながらず、未だ全体像がつかめないのである。
 さらに言うと、散らばったピースから感じ取れる醜悪な匂い……刻々と濃度を増していく顔をしかめたくなるような悪性は何なのだろう。
 陰鬱な空気が停滞する地下事務所で、幸夜は相変わらず長椅子に寝そべり、ゆっくりとチョコ菓子を口に運びながら思考を辿る。けれど結局、同じところをぐるぐると空回り。まるで “ふりだしに戻る” のマスしかないすごろく世界に迷い込んだ気分だ。
 幸夜とて疲労している。脳内ではおびただしい数の画像がひっきりなしに落ちており、首の付け根から後頭部をおかす鈍痛が無くならない。こんな時でなければ “病み晴らし” のため、早々に街へ出ているはずなのだ。――なのに。
 たったひと月前、ひょんなことから同居するようになった貧相な少女――どうしてここまで翻弄されるのか。幸夜は心底、腹立たしく思う。

 嵐の前の静けさ――叫び出したくなるほど凪いだ時間は、まさに辛抱の時だったのかもしれない。
 数刻後、事態は急展開を見せた。
 鴨志田がサブロ館に戻り、佐武朗からも連絡が入り、風が吹き始めたと誰もが感じた時、強力なひと掻きをもたらす巨大なオール――決定的な切り札が突如手に入ったのだ。
 それは老翁、権頭弥曽介によってもたらされた。

「なかなか手ごわいヤツじゃったわぃ。うちの者をここまで手こずらせるとはのぉ」
 ふぉっふぉと機嫌よく笑う老公は、海松みるちゃ色の長着を端然と着こなし、ここにいる誰よりも充足しているように見える。そんな弥曽介のあとに続き、三人の男が地下への階段を降りてきた。突然現れた部外者たちに信孝が慌てて目出し帽を被る一方で、幸夜は降りてきた男たちを注視する。
 前と後ろにいる屈強な男二人は顔見知りだ。弥曽介の側近である。注目すべきは、彼らに挟まれた真ん中の男――彼が、幸夜の求めていた人物であった。
「ご苦労じゃったの。そなたらは帰って休むがよい」
「しかし、ご隠居」
「わしは佐武朗に送ってもらうから心配せんでもよいぞ」
 ひょいひょいっと手を振られて、武闘家のような体躯をしたいかにも護衛らしい二人は、連れてきた男と弥曽介を交互に見比べて逡巡していたが、諦めたように一礼して何度か振り返りながら階段を上がっていった。
 ここに来る前、どのような捕物劇があったのか、かの男は拘束されていなかった。
 マスクとサングラスをしていないその素顔を初めて拝む。日焼けした面相には長い年月の苦難を物語るような深い皺が刻まれ、爛々と光る双眸が意志の強さを表している。だが、着ている薄鼠色の上着は染み汚れが目立ち、黒のニット帽からはみ出た髪が白黒混じってほつれている風体は、以前『ヘルツリッヒ・ホテル』で見た時の印象よりずいぶんと荒んで見えた。
 隙あらば逃げ出そうとうかがっているのか、あるいは牙を剥き爪を立てようと身構えているのか、全身に猜疑と警戒をみなぎらせている姿はまるで囚われた獣のようだ。

「――さて、先ほども申したが、ここにいる者はわしも含めて皆、警察の回し者でもそなたの敵でもない。天宮陽乃子という娘さんを救い出すべく、尽力している者ばかりじゃ」
 真鍮の杖に両手を乗せた弥曽介が口火を切ると、男の両眼が険しさを増した。
「説明しろ。あの子が……陽乃子が連れ去られたとはどういうことだ」
 低いが明瞭な声だ。切羽詰まった男の形相は、それでも殺人鬼の異常さとは違う気がする。
「どうして守らなかった。ここにいれば安全じゃなかったのか! あの子はあんたらを信用していたのに」
 男はにわかに声量を上げて一同を責めるように睨みつける。弥曽介は「そうくでない」と目を細めて幸夜の隣に腰を下ろした。
「まずはかけたらどうじゃな。そなたには多くを語ってもらわねばならん」
 穏やかに促されて、男はグッと詰まるも渋々と弥曽介の向かいに腰を下ろす。それを合図に、散らばっていたメンバーもそろそろと長椅子周辺に集まってくる。
「そなたの名は、天宮晃平じゃな」
「ああ」
「なぜ、この探偵事務所の周辺を探っておったのかな」
 尋ねる弥曽介の声は穏やかだが、男は依然、警戒心剥き出しの顔で弥曽介を睨みつける。
「ある男に騙されたんだ。罠にはめられたと思った。だから陽乃子のことが心配になった。あの子も騙されているんじゃないかとな」
 皆が怪訝な顔を見合わせる中、弥曽介はむしろ呑気に続ける。
「そういえばそなた、牛久間充雄とかいう男を手にかけた容疑がかかっておったの」
「濡れ衣だ」
「その昔、弟である天宮淳平の宅に放火し、奥方とその一人娘をあやめたこともあるとか」
「俺じゃないっ! 濡れ衣だ!」
 男は歯を剥きだして叫んだ。その凄まじい剣幕にもひるまず、老公はフムと顎髭を撫でる。
 ちょうどコーヒーを淹れてきた鴨志田が、香り立つカップを弥曽介と天宮晃平の前にそっと置いた。
「どうでしょう……最初から順序良く話していただけませんか。十四年前に何が起きたのか。なぜ、犯してもいない犯罪の容疑者として追われるようになったのか」
 あくまでも気安く朴訥とした語り口調は、鴨志田が聞き込みの神と呼ばれる最大の武器である。天宮晃平は歯を食いしばり全身から敵意を発していたが、ついに大きく長く息を吐いてニット帽を脱いだ。
「俺にもわからないことだらけなんだ……どうしてこんなことになったのか……」





【用語解説】
★Nシステム
 自動車ナンバー自動読取装置。走行中の自動車のナンバープレートを自動的に読み取り手配車両のナンバーと照合するシステム。
★AVIシステム
 高速道路ICにある車両番号読取装置。
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