チェイス★ザ★フェイス!

松穂

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第5章 淋しいキノコは山より里を選ぶ

第8話

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『――天宮陽乃子は死んだ……これからお前は、中原陽乃子として生きていくのだ』

 しゃがれた男の人の声。白い天井と白い壁。かすかに聞こえる電子音。薬のような匂い。
 夢ではない、記憶の奥底に沈んでいた古い情景。どうして今頃思い出したのだろう。すっかり忘れてしまっていた。
 ……ああ、そうか。あの場所は……病院、だったのかもしれない。

 陽乃子は壁に身体をピタリとつけたまま、抱えた膝に顔をうずめた。
 今は何時ごろなのか、身体はますます重くて怠い。頭の奥がビーンと振動しているような感覚。記憶の引き出しにしまってある無数の “顔” たちが、ぞわぞわと居心地が悪そうにうごめいている。この感覚は久しぶりだ。どうやら熱が出てきたらしい。
 子供の頃はよく熱を出していた。
 ……子供の頃? ……あれは、何歳の頃……?
 熱を出した時は、同じような夢を何度も見た。息がつまり全身の毛が逆立つような恐ろしい夢なのに、夢から覚めればもう一度見たいような気がしたから不思議だった。
 歳を重ねるごとに悪夢は明確な像を結ばなくなり、やがてその残像は薄れて、今ではほとんど覚えていない。ただ思い出そうとすると、胸に切ないような苦しいような、快とも不快とも言えない奇妙な感覚だけが蘇る。
 子供の頃はよく熱を出していた。
 ……子供の頃? ……そう、あの病院で目覚めたあとから。
 陽乃子のすべてがガラリと変わってしまったあの時から、陽乃子はよく発熱するようになった。
 普通の子より一年遅れて小学校へ入学したのは、体調が安定するまで何か月もかかったからだ。入学後も頻繁に熱を出しては学校を休み、誰もいない広い部屋のベッドの中で、陽乃子は熱に浮かされた長い時間を過ごした。
 大声で泣いた気がする。声を枯らして叫んだ気もする。夜通し神様にお願いした気もする。何度も何度も、手を伸ばした気がする。
 あの頃の自分は、必死に求めていたのだ。泣いて叫んで、手を伸ばして懇願して。囲われた空っぽの世界の中で、たった一人で。
 けれど泣いても叫んでも、何一つ陽乃子のもとに戻ってくることはなかった。いつしか陽乃子は求めることをやめてしまった。
 ――自分はもう独りぼっちで、誰も戻ってこないと、わかってしまったから。

 地下部屋の唯一の出口であるドアの脇、開いた時に死角となる壁際に、陽乃子は鳥肌の立つ身体を寄せて待っていた。真っ暗な視界の中、見えないはずの物体が脹れたり縮んだりして、聞こえないはずの奇音がぐるぐると渦を巻いている。
 ここへ連れてこられて丸二日が経とうとしている。未だ、馬顔の男と猪首の男二人の他には誰も来ず、その二人の男も食事を持ってくるだけだ。どういう理由でここに留め置かれているのかもわからない。
 いずれにしても、陽乃子はこの部屋にいることが耐えがたくなっていた。時が経つにつれ、ここにいてはいけない、一刻も早く逃げ出さなければ、という焦りが身体の奥底から間断なく突き上げてくる。
 けれど、外へ出られるたった一つのドアは常に外側から施錠されており中からは開けられない。ドアが開くのは男たちが食事を持ってくる時だけ。ならば、逃げ出すチャンスはその時以外にない。
 陽乃子はついに意を決した。次にあのドアが開いた時、ここから逃げ出すのだ。
 もちろん、簡単に逃げ出せるとは思わない。どうにかして彼らの隙をつかなければならない。
 陽乃子はまず、ワードロープや引き出しに用意された新しい衣服をあるだけ出した。それからベッドの掛け布団をめくり、マットレスに敷いてあるシーツを引き剥がして大きく広げ、広げたシーツで何着もの衣服をくるむ。それを、枕もろともベッドの中に押し込んで掛け布団をかければそれなりの膨らみができた。これで一時でも陽乃子が寝ているように誤魔化せるだろう。
 陽乃子が寝ていると見れば、男たちがベッドに近寄ることはない。彼らがこの部屋ですることは、テーブルの上の古い食事を回収して新しい食事を用意する、それだけだ。
 幸い出入口のドアは内開きである。ドアの陰に隠れて待ち、ドアから入ってきた彼らの意識がベッドとテーブルへ向いている一瞬の隙をついて外に出る。外側から鍵をかけてしまえば時間が稼げるだろう。この周辺の土地勘はないが、時間的に今は夜のはずで、外に出さえすれば暗がりに紛れて逃げ切れるかもしれない。
 しかも今朝、馬顔の男はどこかに誰かを迎えに行くと言っており、猪首の男は留守番だと言っていた。その言葉通り、昼頃降りてきたのは猪首の男一人だけだった。馬顔の男がまだ戻っていないなら、逃げ切れる可能性はもっと高くなる。
 陽乃子は膝から顔を上げて大きく息を吸い込んだ。呼吸が苦しく耳鳴りもひどい。
 ここから逃げると決めた時、胸部に巻いてあったコルセットは外した。折れた肋骨が完全に接着するまで、少なくともふた月ほどは巻いておくようにと亮から言われていたが、発熱のためか息苦しさがひどくて外してしまった。外したところで大して楽になったようには思えなかったけれど。
 今や、身体の怠さのせいで立っていることもできず、陽乃子は壁際にうずくまり膝を抱えたまま、耳鳴りの中に解錠の音だけを待っている。
 ――どれくらい時間が経ったのか。
 強い悪寒と倦怠感にむしばまれ、古く錆びついた記憶にさいなまれ――それは気が遠くなるほど長い時間が経った気もするし、実際にはほんの十数分だった気もする。
 ついに鍵の開く音が聞こえて、ドアが開いた。陽乃子は開くドアの陰で息を潜めて身を強張らせる。
 スイッチの音がして部屋の照明が点いた。部屋に入ってきた大柄な背中はやはり猪首の男。彼一人だけのようだ。陽乃子はふらつく身体でそろそろと音をたてぬように立ち上がる。男はこちらに背を向けたまま、ちらりとベッドを見てからテーブルに近づき、「……全然食ってねぇし」と忌々しそうに呟いている。
 陽乃子は息を吸って開け放たれたままのドアの陰から飛び出した。ドアを閉めて鍵を――とドアノブに目を落として愕然とする。外側のドアノブの下部には鍵穴。陽乃子はてっきり、ドアノブにはつまみがあって、それをひねれば鍵がかかるのだとばかり思い込んでいた。サブロ館の個人部屋がそのような錠型になっていたので、鍵穴に金属鍵を差し込む錠型など考えもしなかった。そもそも陽乃子は金属鍵に馴染みがないのだ。
 その思い違いと一瞬の躊躇が運の尽き、閉めたドアが中から勢いよく引き開いた。
「こいつ――っ」
 腕を掴まれ、ものすごい力で室内に引き戻される。その勢いでフローリング床に投げ転がされた。
「てめぇ、何の真似だ」
 床上の陽乃子に覆いかぶさるようにして、男の大きな手が陽乃子の喉元を抑える。
 息ができない。固い床に当たった肩が軋む。
 すると、にわかに男の手が弛んだ。
「……? お前……、」
 猪首男の訝しむような声。――その時、突然別の声がした。
「――牟田むた、何をしている」
「い、いや、あの……っ!」
 弾かれたように猪首の男の手が陽乃子の喉元から離れた。反射的に咳き込んで滲む視界の中に、誰かの足が映る。新しく入ってきた足は二人分。
 牟田と呼ばれた猪首の男が滑稽なほど慌てて立ち上がった。
「お、おかえりなさいまし……ずいぶん早いお着きで……」
「運よく一つ前の便にキャンセルが出たそうなんだ。早めに出て正解だった」
 この声は猪首男の片割れ、馬顔の男だ。では、さっきの声の主は……
 こちらに近づいてくる足が、すぐそばで止まった。
「牟田。何をしていた」
「す、すみませんっ……この娘……いや、お嬢さんが……部屋から出ようとして……どうやら熱があるようなんで……」
「熱……?」
 床上から身を起こそうとする陽乃子の傍に誰かが屈み込む。額に冷たい手が当てられた。「何と……」と吐息交じりの声が聞こえる。
宇辺野うべの。至急解熱剤を。うちの “パラモール” ならこの町の薬局でも購入できるだろう」
「はい」
 宇辺野と呼ばれた馬顔の男が早足に部屋を出て行く。
 陽乃子は顔を上げて何度か瞬いた。眩しく滲む視界に現れた――顔。
 ヒュッと、喉奥が引きつった。
 ――なぜ、どうして。
 額に置かれた冷たくて湿った指先は、そのままこめかみを伝い、頬にかかった髪を梳いた。
「大丈夫だ。すぐに楽にしてあげよう」
 そう言って笑んだ男の口元が、もうひと単語分、動いたように見えた。
 何と言ったのか、驚愕に凍りついた陽乃子には聞こえない。

 ――陽乃子の捜していた “顔” が、そこにあった。


   * * *


「――そりゃ、この辺り一帯はセレブに人気の避暑地だけど……藤緒家の別荘なんてホントにあるの?」
 リリコの指がタブレット端末画面上をやけくそ気味に滑り、画面の中の地図が意味もなく縮小と拡大を繰り返している。
「さぁて」と答えたのは柾紀だ。彼はデスクの引き出しを漁って、手に取るものを次々に大きなナップザックへ詰め込んでいる。
「今現在、別荘として使われているかどうかは知らねぇよ。けど、その界隈に中原真梨子が住んでたってのは間違いねぇようだからな」

 天宮晃平の証言から、今から二十年以上前のことではあるが、中原真梨子が住んでいたと思われる地域が判明した。
 真梨子本人も淳平も、彼女の詳しい素性や生い立ちについては晃平に話さずじまいであったが、二人が親しくなったなれそめ話は多少話してくれたという。
 二人が出会ったのは、晃平の地元とは山を隔てた隣県の観光地――国内でも有数の避暑地として賑わう山間の町である。その町にある小さな美術館で、知り合ったそうだ。
 あの辺りには大小さまざまな美術館が点在している。地元の文具メーカーに勤めていた淳平は、当時、館内にある土産売店で販売される文具を納品するため、いくつかの美術館を回っていた。
 一方、絵を描くことが好きだった真梨子は、時々一人でお気に入りの美術館を訪れては鑑賞していたらしい。そこで出会った二人は、ひょんなことから親しくなり交流を深めたのだと、晃平は聞いていた。
 晃平は以前、真梨子の素性を探るべく、その観光地にあるいくつかの美術館を回って聞き込みをしたことがある。その中で、真梨子のことを覚えていたスタッフは何人かいたが、彼女の名前はおろか、詳しい素性を知っている者はいなかった。辛うじて得たのは、来館の頻度からしてこの辺りの住人なのではないか、という証言だけだ。
 ただ、晃平が二人の交際を知った時にはすでに、真梨子は淳平の住んでいるアパートに身を寄せていた。その理由は聞かされていないが、折に触れて見聞きした淳平と真梨子の会話や表情の端々から、その観光地は真梨子にとって “鬼門” であるような気がしていた。
 真梨子は以前住んでいたところで、何か精神的ショックを受けるような災禍に遭ったのではないか。そこで淳平は彼女を守るため、自宅に保護したのではないか。もしかしたらそこに、一連の事件の謎を解く重要な鍵が隠されているのではないか――、というのが晃平の見解である。

「――たとえ藤緒家の物件があったとしてもよ? そこに中原真梨子が住んでいたのは何十年も前のことなんでしょ? 今は所有者が変わってるかもしれないし、取り壊されてるかもしれないじゃない。仮にそのまま残っていたとしても、そこにヒノちゃんがいるとは限らないわ」
 タブレット端末を放り出して、リリコはデスクの周りを行ったり来たりし始めた。腕を組んで爪を噛み、思い詰めた顔で一人呟く。
「もう一刻もムダにはできないのよ……行って捜して、やっぱりここにはいなかった、なんてことになったら……そんなことをしてる間にヒノちゃんは……」
 その背を柾紀の大きな褐色の手が叩き、リリコが軽くつんのめる。
「ボスが行けと言ったんだ。よほどの確信があるってことさ。それに、さっきノブがそっち方面に向かう高速のAVIシステムでヤツの車両、、、、、を見つけただろ? 少なくともそのインターチェンジまでは確実に進める。その先は、ボスと鴨さんの腕に賭けようぜ。――おら、お前も支度して来い」
 野太い声にあと押しされて、リリコは口元をへの字にしたまま頷き、階上への階段を駆け上がっていった。
 軽く溜息を吐いてデスクに戻った柾紀の背後から、ひょいと覗き込んだのは信孝だ。
「――それ、全部持っていくの?」
 デスクの上にはパンパンに膨れ上がったナップザックに、プラスティック製の頑丈なツールケースが二つも用意されている。
「備えあればナンとやらってな。お前はそれだけでいいのか?」
「ボクは、GPS探査とモニターの受信回線だけ確実にしとけばいいって、佐武朗さんが」
 いつものリュックバッグ一つを肩に引っ掛けただけの信孝は、顎下に白いマスク、前頭部に大きなサングラスを引っ掛けて、すでに外出準備万端のようである。
 柾紀がふと、幸夜が横たわる長椅子の方へ目を転じた。幸夜の向かいには、一人項垂れている天宮晃平の姿がある。
「あんた……爺さんのところで待ってた方がよくねぇか?」
 声をかけられた晃平は、顔を上げて「いや」と首を振る。
「俺も一緒に連れて行ってくれ。あの子の無事を確かめるまでは……」
 晃平は、リリコ以上に思い詰めた表情をしていた。
「両親のことも事件のことも、ほとんど覚えていないと言っていたんだ……それも仕方がないことだと思った……あの子はまだ小さかったから……覚えていないなら、その方が幸せなのかもしれないと……」
 頭を抱え、もつれた頭髪をかき回す。
「……まさか、あの子が……」

 あのあと晃平は、事故現場から陽乃子を連れ出したあとのことも語っている。
 リリコは、すぐに警察へ行かなかった晃平を責めたが、彼にも彼なりの事情があった。
 晃平は無実の罪を着せられ、十四年にわたる逃亡生活を強いられた。それがゆえに、晃平の中にあった警察組織に対する信頼感は完全に失せていたのだ。かつてはその職に誇りを持っていたからこそ、裏切られた傷痕は人一倍深く醜い。
 しかも、一連の事件の背後にあの藤緒徳馬が絡んでいるのは間違いなく、晃平に無実の罪を着せたのも彼の策謀である可能性が高い。となれば、警察にも彼の息がかかっているはずで、安易に頼るわけにはいかなかった。陽乃子を当局に引き渡したが最後、二度と真相には辿り着けないだろうと考えたのだ。
 陽乃子は晃平にとって、闇に葬られた真実と己の身の潔白を明かす一筋の光明であった。彼女の存在が淳平と真梨子の無念を晴らし、自身の汚名をそそぐ鍵となるに違いないのだ。失うわけにはいかない。何としてでも自分自身の手でひき逃げ事件と放火事件の真相を解明し、犯人を見つけなければならない。
 そう考えた晃平は、信用する友人にも一切を明かさず、まずは陽乃子を連れてこの街を離れようと決めた。
 陽乃子をこの街に連れて来た牛久間充雄は、今頃事故現場からいなくなった彼女を懸命に捜していることだろう。そしてその牛久間が不二生薬品本社に出入りしていたということは、牛久間と藤緒徳馬が通じていると思われ、陽乃子がいなくなってしまったことは藤緒徳馬にも知れているはずだ。今に大掛かりな陽乃子捜索隊がこの街に投入されるかもしれない。
 それに加えて、晃平自身の懐具合も苦しくなっていた。
 陽乃子を見つけてからというもの、牛久間の尾行に専念したため仕事ができず、多少あった貯えも残りわずかになっていた。しばらくは集中して労働に従事し、陽乃子と安心して暮らせる住まいを手に入れることが先決であった。
 晃平は、陽乃子をもとの住まいに帰す気はなかった。しかし、彼女が晃平のことを信じてくれなければ厄介なことになる。どうにかして、自分は犯人でないこと、本当の犯人を見つけるために陽乃子の協力が必要なことを、理解してもらわなければならなかった。
 ところが意外なことに、陽乃子は晃平の説得をあっさりと受け入れた。
 事件のことも両親のこともほとんど覚えていないが、晃平の話を信じると言い、それどころか家には帰らなくていいと言ったのである。
 労せず信じてもらえたのはありがたかったが、反面、陽乃子のどこか茫洋とした取りとめのない表情に戸惑ったのも正直なところだった。
 陽乃子は、誰とどこで暮らしていたのかと尋ねても、一人で暮らしていました、と言い、食事や身の回りのことは自分でしていたのかと問えば、してくれる人がいましたと言った。それは誰だと訊いても、名前は知りません、話したことがありません……と不可解な返答。あれだけの私立学園へ通うにもそれなりの金が要っただろうに、陽乃子は金銭の出所さえ知らないようだった。
 晃平に対して警戒するわけでも恐れるわけでもなく、かといって積極的に両親の仇を見つけようという気概も感じられない。素直に従順についてくるわりに、突然ふらりと離れて行ってしまいそうな危うさを感じた。
 しかしそんなことを気にしている余裕はなかった。追手がかかる前に急ぎこの街を離れなければならないと焦っていた晃平は、きっと陽乃子は暴走車事故のショックが抜けきらないのだろうと、自分自身を納得させてしまったのである。

「――じゃあ、なんでヒノちゃんはこの街の、、、、ネットカフェに寝泊まりしていたのよ? 結局この街から離れてないじゃない」
 話の最中、刺々とげとげした声音で突っかかるリリコに、晃平は「それは俺が訊きたいくらいだ!」と語気強く言い返した。
「事故の次の日、あの子が着ていた制服は目立つから、この街を出る前に服を買って着替えさせたんだ。その時、ちょっと目を離した隙に陽乃子とはぐれてしまった。慌てて捜す俺の前にあの男、、、が現れたんだ。あいつは言った――『天宮陽乃子さんは安全な場所に保護したから安心してほしい。そのかわり君には依頼したい仕事がある。君の無実を証明することにつながるだろう重要な仕事だ』と。あいつは俺のことを知っていた。あの子のことを “天宮陽乃子” と呼んだ。十四年前のことに関して何かを知っているに違いないと思った。だから俺はあの男に従った……従うしかなかったんだ!」
 自身の大腿に拳を振り下ろす晃平は、自分を激しく責めているように見えた。
 結局晃平はその見知らぬ男の言う通りに動くしかなく、あのヘルツリッヒ・ホテルで偶然陽乃子を見かけて声をかけるまで、彼女が誰とどこで暮らしているのかも知らされていなかったようだ。
 ちなみにそのヘルツリッヒ・ホテルだが、晃平は例の男から依頼された仕事の行きがかり上、赴いたのだという。
 晃平はその時ちょうど、エントランスロビーの片隅である男、、、を張っていたのだが、偶然、風変わりな一行と歩いてくる陽乃子を見かけた。彼女がどこでどうしているのか、ずっと気がかりだった晃平は、何とかして陽乃子と一言でもいいから話がしたいと思った。が、立場上、表立って声をかけるのははばかられる。どうしたものかと窮していると、陽乃子が晃平に気づいてくれた。手招きしたら陽乃子は素直にやって来たので、急ぎ廊下の隅に連れて行ったという。
 陽乃子は髪を短く切り、ずいぶん雰囲気が変わったように見えた。どこに住んでいるのかと訊けば『サブロ館』というところに住んでいるという。一緒にいた風変わりな輩たちは、一緒に住んでいる人たちらしい。
 晃平が「その人たちは良くしてくれるか?」と訊けば、陽乃子は意外にはっきりとした口調で「はい、とても良くしていただいています」と答えた。少なくとも陽乃子は、そこで嫌な思いをしているようには見えなかった。
 そこで、陽乃子の私物――制服や学生鞄などを保管してあるコインロッカーの鍵を渡し、時間がある時に取りに行くといい、と告げたところで幸夜がやって来た。妙な詮索をされてはまずいので、晃平は他人のふりをしてその場を立ち去ったというわけだ。
 話を聞きながら、リリコはまだ納得がいかなそうに口を尖らせていたが、幸夜は、晃平に関しては大方腑に落ちた心地であった。
 あの時感じた、二人の間に漂う微妙な雰囲気の理由が、何となくわかった気がした。

 佐武朗が戻ったのは、晃平の話があらかた済んだ頃である。そこでいくつかの新しい情報が開示される一方、幸夜は陽乃子の “捜し人” について語った。
 皆は薄々想像していたのか、それぞれ難しい顔をしただけであったが、晃平は少なからずショックを受けたようだ。どうして何も話してくれなかったのか、と肩を落とす彼に、皆はかける言葉がなかった。それは幸夜たちも同じなのだ。陽乃子は、何も話さなかった。
 そして佐武朗はついに、調査員たちへ陽乃子救出を命じた。どうやら腹をくくったらしい。
 陽乃子が囚われている場所は、昔、中原真梨子が住んでいた場所に違いない、と佐武朗は言い切った。集めた情報をもとに、佐武朗が首謀者をプロファイリングした結果だ。悔しいことに、佐武朗の分析力、洞察力はここにいる誰よりも高い。その判断に幸夜も異存はなかった。
 一同が急ピッチで陽乃子救出作戦を練り上げる中、満足げに頷いた弥曽介が一度屋敷へ戻ると腰を上げ、晃平も一緒に連れて帰ろうとしたのだが、彼自身はそれを拒んだ。弥曽介は「そうか」と微笑んだだけで、無理強いすることはなかった。

「――ま、人手は多いに越したことはねぇし。ついて来るからにはあんたにも手伝ってもらうぜ」
 階上から、動きやすい服に着替えたリリコが降りてきて、柾紀がナップザックを肩に担いだ。
「――よし、準備ができたら車に乗り込め。出発だ。――幸夜ぁ、行くぞ」
「待っててねヒノちゃん……絶対に助け出すわ……」
 大仰なキャリーケースを転がすリリコは神妙な顔だ。他の面々も緊張に口元を引き結んで、車庫に通じる地下口に向かう。
 のっそりと起き上がった幸夜は、黒のフード付きジャンパーだけを手に持って、皆の最後尾に続いた。
 幸夜は特に何も持って行かない。いつもは必ず携帯するチョコ菓子さえ持っていない。
 というのも、タマコが機能停止してしまったおかげで、チョコ菓子のストックが完全に切れたのだ。地下事務所はおろか、リビングにもダイニングにも自室にも、ただのひと箱さえ残っていなかった。途中でコンビニに寄ってほしいが、この状況下でそれが許されるかどうか。

「――あの二人は、行かないのか?」
 天宮晃平が黒のミニバンの乗車口に足をかけつつ、閉じた車庫口を振り返る。新しく替えたばかりのタイヤをチェックしていた柾紀が野太い声を張り上げた。
「ああ、ボスと鴨さんはこれから “最後の手段” を講じる手筈だ」
「最後の手段……」
「何でも “最後から二番目の手段” は失敗だったらしいからよ。残るは “最後の手段” のみってわけだ」
 柾紀の言葉に、晃平は心許なさそうな顔のまま後部前席のリリコの隣に乗り込んだ。最後部にだらりと伸びた幸夜は、晃平の懸念に少し同情する。
 元刑事である晃平から見れば、車に乗り込んだメンバーはさぞや頼りなく見えるだろう。筋肉ダルマの柾紀はその腕っぷしに期待したとしても、スタイルはいいが頭は悪そうなリリコ、見るからにひょろっこいメンヘラ信孝、やる気がなさそうに寝てばかりいる幸夜。陽乃子救出の面子メンツがこれだけかと訝しむのも無理はない。

「あのさ、ちょっと調べてみたけど、朋永弁護士が所属する偕正法律事務所って、国内トップレベルの “ブル弁” がゴロゴロいるんだって」
 助手席に座った信孝がさっそく膝の上でノートパソコンを起動させる。エンジンをかけた柾紀が「ぶるべん?」と片眉を上げた。
「 “ブルジョワ弁護士” のこと。企業間のM&Aとか海外訴訟なんかも手掛けて、高額報酬をガバガバ稼ぐエリート弁護士。朋永弁護士はその中でも最強らしくて、ホントなら事務所の名前に “朋永” を入れてもいい立場なんだって」
「マジか」
 車庫のシャッターが上がって、淡い日の光が差し込んだ。夜が明けたばかりなのだろう。路上は濡れているが雨は上がったようだ。
「 “落としの神” と “泣く子も黙る鬼” じゃ、太刀打ちできないかしら」
 リリコが小さなリモコンを操作して、車内の天井面に格納してある小さなモニターが開いた。
 幸夜は大欠伸をかまして「そーでもねーよ」と吐き出す。
「あの鬼は、人を喰うからな」
「違いねぇ」
 柾紀が肩を揺らして笑い、ミニバンは路上へ出た。晃平だけが、何のことやらさっぱりわからない、といった顔だ。
 リア席用のモニターに電源が入り、信孝の素早いキータッチがひとしきり続いて、頭上のモニターとフロントにあるナビディスプレイに同じ映像が映し出された。




 
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