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第1章 泥水と死にたがり
第1話 泥水コーヒーと地獄の呼び鈴
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雨は、特区の夜を溶かして垂れ流していた。
極彩色のネオン看板が水たまりににじみ、足元でいびつに揺れている。
上の道路では装甲車が泥水を跳ね上げ、下の路地では浮浪者が息を潜める。
この街では、誰も傘なんて差さない。
どうせ酸性雨で穴が開く。
どうせ濡れる。
どうせ、いつかは野垂れ死ぬ。
鏑木ジンは、濡れたグレーのトレンチコートの襟を立て、肩をすぼめてジャズバーの重い扉を押した。
カラン、と乾いたベルが鳴り、紫煙と安っぽいサックスの音が顔を叩く。
古いスピーカーから流れているのは、いつの時代かも分からない気怠いブルースだ。
音は渋く、店は貧相で、客はみんな目が死んでいる。
特区の夜に似合うのは、エリート魔導師たちが放つ煌びやかな魔法の光じゃない。こういう、くたびれた音とカビの匂いだ。
ジンは無言でカウンターの端、いつもの席に腰を下ろした。
安物の黒いスーツは雨の匂いを吸い込み、すでに重くなっている。
ネクタイは緩めたままだ。
呼吸の邪魔になるものは、いつでもほどく主義だった。
カウンターの奥、無愛想な初老の店主が、布巾でグラスを磨きながら目だけを動かしてこちらを見た。
笑わない。ここで笑うのは、レコードの中の黒人歌手だけだ。
店主の指が、無意識にカウンターの下へ滑るのをジンは見逃さなかった。
そこにはショットガンがガムテープで固定されている。
怯えているわけじゃない。警戒しているだけだ。
ジンの全身から漂う、硝煙と鉄錆と、こびりついた死臭に対して。
「……いらっしゃい」
「コーヒーだ。濃いめで頼む」
店主は短く頷き、慣れた手つきでポットを傾けた。
店の空気が、ジンを中心に同心円状に沈殿していく。
テーブル席にいた客の一人が、グラスを持ったまま音もなく立ち上がり、静かにグラスを置くと壁沿いに逃げるように出口へと消えた。
また一人、会計もせずに席を立つ。
ジンは誰とも目を合わせない。だが、背中に突き刺さる視線の種類は肌で分かる。
恐怖。忌避。あるいは、疫病神を見る目。
隣の席は空いている。二つ先も、三つ先も空いている。
誰も頼んでいないのに、ジンの周りにだけ絶対的な「空席の輪」ができる。
(俺は、化け物のつもりはないんだがな)
ジンは内心で自嘲し、無精髭の奥で小さく息を吐いた。
特区の連中は、魔力だの才能だのを信仰しているくせに、純粋な暴力の匂いだけは本能で嗅ぎ分ける。
魔導師が空を燃やしても拍手喝采するのに、物理の拳が一度鳴ると、途端に神に祈り始める。
都合のいい神様ばかりだ。
コト、と目の前にカップが置かれた。
出てきた液体は、黒く、淀んでいる。表面には薄い油膜が浮き、湯気すら立っていない。
ジンはカップを持ち上げ、一口すすった。
舌を刺すような苦味と、喉に張り付くようなえぐみ。豆の香ばしさなど微塵もない。
まるで路地裏の泥水をすくって沸かし、焦げたタイヤを漬け込んだような味だ。
だが、文句は言わない。今の自分には、これくらいがお似合いだ。
「……砂糖はあるか?」
ジンはカップを置き、わざと店主に軽口を投げた。
そうでもしないと、指先が微かに震えそうだったからだ。
ここに来る前の仕事で、魔導師の頭蓋を砕いた感触が、まだ革手袋の奥に残っている。
店主が眉をひそめた。
「ない」
「致死量くらいの」
「糖尿病で死にたいなら、よそでやってくれ。死体の処理代はバカにならない」
「ケチな店だ。俺の人生くらい薄い」
店主は返事の代わりに、角砂糖を一つだけ、放るように置いた。
ジンはそれを使わず、泥水をもう一口あおる。胃の腑に、鉛のような重みが落ちていく。
今日も死ねなかった。
元・裏格闘技の王者。魔力ゼロ。特区の片隅で、始末屋。
肩書きだけなら立派だが、胸の内は空っぽだ。
空っぽだから、軽口ばかりが落ちていく。
死に際の美学だけが、財布の奥で折れたレシートみたいに残っている。
いつ死んでもいい。このクソみたいな街に未練はない。
だが、無様に怯えて、命乞いをして死ぬのだけは嫌だ。
だから余裕を装う。余裕を装うために、しょうもない冗談を言う。
自分で自分を笑わせて、魂の震えを止める。
痩せ我慢は、男に残された最後のスーツみたいなものだ。
その時だった。
店の隅、埃を被った黒電話が、一度だけ咳払いをするように短く鳴った。
ジリリッ。
次の瞬間、けたたましいベルが店内のジャズを切り裂いた。
ジリリリリリリリン!!
鼓膜をつんざくような金属音。
今の時代、通信は魔導端末かスマートフォンが主流だ。
だが、強力なジャミングや魔素汚染が日常茶飯事のこの特区では、結局のところ、太い銅線で繋がった黒電話が一番信用できる。
もっとも、ジンにとっては別の意味を持つ音だった。
(黒電話のベルは、いつ聞いても地獄の呼び鈴だ)
店主が受話器に手を伸ばしかけ、やめた。
視線でジンを促す。
客たちの肩が一斉にすくむ。
この店にかかってくる電話が、まともな予約や注文であるはずがないことを、誰もが知っている。
ジンはため息をつき、カップを置いて立ち上がった。
歩くたびに、古い床板の軋みが少し遅れてついてくる。
黒い受話器を取る。声は出す前から乾いていた。
「……ジンだ」
『あ、ああ……! か、鏑木ジンさん……ですか!?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、今にも泣き出しそうな男の声だった。
名前を呼ぶだけで声が上ずっている。
背景には、爆発音と怒号が混じっていた。
『よかった……どの業者に頼んでも断られて……あんただけが頼みの綱で……』
「前置きはいい。要件と報酬額だけ言え。あと場所もな」
ジンは胸ポケットから、愛飲しているタバコ『赤烏(レッド・クロウ)』の箱を取り出した。
最後の一本だ。
『は、はい! 場所は四番街の西、旧地下鉄の出入口近くの倉庫です! 薬漬けになった魔導師くずれが一人、暴れていて……! 魔法障壁を張って立て籠もっているんです! 警察も企業も、汚染区域だからって動いてくれなくて!』
「魔導師か。よくある話だ」
ジンはタバコを咥え、オイルライターの蓋を弾いた。カキン、と硬質な音が鳴る。
『あいつ、人質を取ってるんです! 俺の娘を……! まだ七つなんです! 頼みます、助けてください! 金なら払います、全財産でも!』
娘。人質。
ありふれた悲劇だ。この街じゃ、子供の命はトイレットペーパーより軽い。
ジンは火を点けず、タバコを咥えたまま眉をひそめた。
祈られる柄じゃない。祈る側が似合う顔でもない。
だが、特区の隙間で、自分のような汚れ仕事専門の始末屋だけが機能しているのも事実だ。
「報酬は相場でいい。安く買い叩かれるのは癪だが、吹っ掛けもしない」
『う、受けてくれるんですか!? でも、相手は魔法を使うんですよ!? 魔力増強剤でラリってる化け物だ! 本当に……本当にあんた一人で……』
男の言葉の端に、疑念と恐怖が混じる。
魔法。
ああ、素晴らしい力だ。物理法則を無視し、炎を出し、雷を落とす現代の奇跡。特区を支配する絶対のヒエラルキー。
魔力を持たない人間は、魔導師の前では這いつくばるしかない。それがこの世界の常識だ。
だが、それがどうした。
ジンは鼻で笑い、短く吐き捨てた。
「魔法障壁? 殴れば割れるだろ」
『え……?』
「待ってろ。すぐに行く」
相手の返事を待たずに受話器を置く。
ガチャン、と重い音がして、地獄の呼び鈴は沈黙した。
面倒くせぇが、断る理由もない。
どうせこのまま店にいても、泥水と雨が増えるだけだ。
それに、死に場所としては悪くないかもしれない。
ラリった魔導師相手なら、派手に散れる。
運が良けりゃ、派手に散り損ねる。
どっちでもいい。
ジンはカウンターに戻り、小銭を放り投げた。
「行くか」
「……死ぬなよ」
店主の声は小さかったが、さっきより人間らしい響きがある。
ジンは肩だけで笑った。
「死ぬときは勝手に死ぬ。心配すんな」
トレンチコートを翻し、背中を向ける。
痩せ我慢と虚無だけを燃料にして、男はまた雨の中へと踏み出した。
バーの外は、相変わらず土砂降りだった。
路地に出ると、闇に沈む巨大な鉄の塊が鎮座している。
旧式の装甲セダン。愛車、アイアン・バッファロー。通称『鉄牛』。
かつての高級車を分厚い装甲板で無理やり補強し、魔導エンジンではなくガソリンエンジンを積んだ、時代遅れの遺物だ。
魔導師が空を飛ぶ時代に、こいつは地面を這う。
鈍いが、裏切らない。人間よりは。
ドアを開けると、金属と油の匂いが迎えてきた。
ジンは運転席に滑り込み、キーを回した。
……カチ、カチ。
スターターが渋い声を上げ、すぐに沈黙する。
もう一度。
……カチ、カチ、プスん。
「……ご老体だな、俺と同じで」
ジンは舌打ちし、ボンネットを拳で二度叩いた。
バン、バン!
拳はタコで岩みたいに硬い。痛みはない。
ショック療法が効いたのか、今度はエンジンが咳き込み、ドォォォン!! と腹の底に響く、肉食動物を思わせる咆哮を上げた。
V8エンジンの重低音が路地の壁を震わせ、水たまりに波紋を作る。
ジンは深くシートに身を預け、咥えたままだった『赤烏』に火を点けた。
紫煙を深く吸い込む。肺が焼け、カフェインとニコチンが血液を巡る。世界の輪郭が、少しだけ鋭くなる。
雨音の中で、自分の心臓の音が聞こえた。
(このタバコを吸い終わるまでは、生きてやる)
黒い革手袋をはめ直す。
指先でベルトを締め、甲に内蔵された機構の感触を確かめる。
拳の中に眠る、鋼鉄の杭。
インパクトの瞬間に火薬で杭を打ち出すだけの、極めて原始的で、野蛮で、そして確実な物理兵器。
魔法も異能も持たない男が、この魔都で生き延びるために選んだ唯一の相棒だ。
ルームミラーに目をやる。
そこに映っているのは、くたびれた三白眼の中年男だ。無精髭。死んだ魚の目。
だが、唇の端はわずかに持ち上がっている。
ジンは自分の瞳を見返し、確認する。
(怯えてないか?)
大丈夫だ。まだ、足は震えていない。
「よし。いい死に顔だ。死体にしちゃもったいねぇ」
ワイパーが雨を掻き、フロントガラスの向こうでネオンが千切れて流れる。
ギアを入れ、アクセルを踏み込む。
タイヤが泥水を巻き上げ、鉄の牛が唸りを上げて路地を飛び出した。
ラジオは死んでいる。代わりに、エンジンの唸りがベースになって、雨がハイハットみたいに車体を叩く。いいセッションだ。
聴衆は誰もいないが、どうせ俺の人生もそうだった。
ハンドルを切り、倉庫街へ向けて鉄牛を滑らせる。
灰皿に落ちる赤烏の灰が、ひとつ、ふたつ。
魔法が威張る街で、物理のほうがうるさいと教えてやる時間だ。
どうせ死ぬなら、いちばん危ない場所で、いちばん派手にやる。
地獄の呼び鈴は、今日も律儀に鳴った。
そしてジンは、律儀にそれに付き合ってやった。
ただ、それだけのことだ。
極彩色のネオン看板が水たまりににじみ、足元でいびつに揺れている。
上の道路では装甲車が泥水を跳ね上げ、下の路地では浮浪者が息を潜める。
この街では、誰も傘なんて差さない。
どうせ酸性雨で穴が開く。
どうせ濡れる。
どうせ、いつかは野垂れ死ぬ。
鏑木ジンは、濡れたグレーのトレンチコートの襟を立て、肩をすぼめてジャズバーの重い扉を押した。
カラン、と乾いたベルが鳴り、紫煙と安っぽいサックスの音が顔を叩く。
古いスピーカーから流れているのは、いつの時代かも分からない気怠いブルースだ。
音は渋く、店は貧相で、客はみんな目が死んでいる。
特区の夜に似合うのは、エリート魔導師たちが放つ煌びやかな魔法の光じゃない。こういう、くたびれた音とカビの匂いだ。
ジンは無言でカウンターの端、いつもの席に腰を下ろした。
安物の黒いスーツは雨の匂いを吸い込み、すでに重くなっている。
ネクタイは緩めたままだ。
呼吸の邪魔になるものは、いつでもほどく主義だった。
カウンターの奥、無愛想な初老の店主が、布巾でグラスを磨きながら目だけを動かしてこちらを見た。
笑わない。ここで笑うのは、レコードの中の黒人歌手だけだ。
店主の指が、無意識にカウンターの下へ滑るのをジンは見逃さなかった。
そこにはショットガンがガムテープで固定されている。
怯えているわけじゃない。警戒しているだけだ。
ジンの全身から漂う、硝煙と鉄錆と、こびりついた死臭に対して。
「……いらっしゃい」
「コーヒーだ。濃いめで頼む」
店主は短く頷き、慣れた手つきでポットを傾けた。
店の空気が、ジンを中心に同心円状に沈殿していく。
テーブル席にいた客の一人が、グラスを持ったまま音もなく立ち上がり、静かにグラスを置くと壁沿いに逃げるように出口へと消えた。
また一人、会計もせずに席を立つ。
ジンは誰とも目を合わせない。だが、背中に突き刺さる視線の種類は肌で分かる。
恐怖。忌避。あるいは、疫病神を見る目。
隣の席は空いている。二つ先も、三つ先も空いている。
誰も頼んでいないのに、ジンの周りにだけ絶対的な「空席の輪」ができる。
(俺は、化け物のつもりはないんだがな)
ジンは内心で自嘲し、無精髭の奥で小さく息を吐いた。
特区の連中は、魔力だの才能だのを信仰しているくせに、純粋な暴力の匂いだけは本能で嗅ぎ分ける。
魔導師が空を燃やしても拍手喝采するのに、物理の拳が一度鳴ると、途端に神に祈り始める。
都合のいい神様ばかりだ。
コト、と目の前にカップが置かれた。
出てきた液体は、黒く、淀んでいる。表面には薄い油膜が浮き、湯気すら立っていない。
ジンはカップを持ち上げ、一口すすった。
舌を刺すような苦味と、喉に張り付くようなえぐみ。豆の香ばしさなど微塵もない。
まるで路地裏の泥水をすくって沸かし、焦げたタイヤを漬け込んだような味だ。
だが、文句は言わない。今の自分には、これくらいがお似合いだ。
「……砂糖はあるか?」
ジンはカップを置き、わざと店主に軽口を投げた。
そうでもしないと、指先が微かに震えそうだったからだ。
ここに来る前の仕事で、魔導師の頭蓋を砕いた感触が、まだ革手袋の奥に残っている。
店主が眉をひそめた。
「ない」
「致死量くらいの」
「糖尿病で死にたいなら、よそでやってくれ。死体の処理代はバカにならない」
「ケチな店だ。俺の人生くらい薄い」
店主は返事の代わりに、角砂糖を一つだけ、放るように置いた。
ジンはそれを使わず、泥水をもう一口あおる。胃の腑に、鉛のような重みが落ちていく。
今日も死ねなかった。
元・裏格闘技の王者。魔力ゼロ。特区の片隅で、始末屋。
肩書きだけなら立派だが、胸の内は空っぽだ。
空っぽだから、軽口ばかりが落ちていく。
死に際の美学だけが、財布の奥で折れたレシートみたいに残っている。
いつ死んでもいい。このクソみたいな街に未練はない。
だが、無様に怯えて、命乞いをして死ぬのだけは嫌だ。
だから余裕を装う。余裕を装うために、しょうもない冗談を言う。
自分で自分を笑わせて、魂の震えを止める。
痩せ我慢は、男に残された最後のスーツみたいなものだ。
その時だった。
店の隅、埃を被った黒電話が、一度だけ咳払いをするように短く鳴った。
ジリリッ。
次の瞬間、けたたましいベルが店内のジャズを切り裂いた。
ジリリリリリリリン!!
鼓膜をつんざくような金属音。
今の時代、通信は魔導端末かスマートフォンが主流だ。
だが、強力なジャミングや魔素汚染が日常茶飯事のこの特区では、結局のところ、太い銅線で繋がった黒電話が一番信用できる。
もっとも、ジンにとっては別の意味を持つ音だった。
(黒電話のベルは、いつ聞いても地獄の呼び鈴だ)
店主が受話器に手を伸ばしかけ、やめた。
視線でジンを促す。
客たちの肩が一斉にすくむ。
この店にかかってくる電話が、まともな予約や注文であるはずがないことを、誰もが知っている。
ジンはため息をつき、カップを置いて立ち上がった。
歩くたびに、古い床板の軋みが少し遅れてついてくる。
黒い受話器を取る。声は出す前から乾いていた。
「……ジンだ」
『あ、ああ……! か、鏑木ジンさん……ですか!?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、今にも泣き出しそうな男の声だった。
名前を呼ぶだけで声が上ずっている。
背景には、爆発音と怒号が混じっていた。
『よかった……どの業者に頼んでも断られて……あんただけが頼みの綱で……』
「前置きはいい。要件と報酬額だけ言え。あと場所もな」
ジンは胸ポケットから、愛飲しているタバコ『赤烏(レッド・クロウ)』の箱を取り出した。
最後の一本だ。
『は、はい! 場所は四番街の西、旧地下鉄の出入口近くの倉庫です! 薬漬けになった魔導師くずれが一人、暴れていて……! 魔法障壁を張って立て籠もっているんです! 警察も企業も、汚染区域だからって動いてくれなくて!』
「魔導師か。よくある話だ」
ジンはタバコを咥え、オイルライターの蓋を弾いた。カキン、と硬質な音が鳴る。
『あいつ、人質を取ってるんです! 俺の娘を……! まだ七つなんです! 頼みます、助けてください! 金なら払います、全財産でも!』
娘。人質。
ありふれた悲劇だ。この街じゃ、子供の命はトイレットペーパーより軽い。
ジンは火を点けず、タバコを咥えたまま眉をひそめた。
祈られる柄じゃない。祈る側が似合う顔でもない。
だが、特区の隙間で、自分のような汚れ仕事専門の始末屋だけが機能しているのも事実だ。
「報酬は相場でいい。安く買い叩かれるのは癪だが、吹っ掛けもしない」
『う、受けてくれるんですか!? でも、相手は魔法を使うんですよ!? 魔力増強剤でラリってる化け物だ! 本当に……本当にあんた一人で……』
男の言葉の端に、疑念と恐怖が混じる。
魔法。
ああ、素晴らしい力だ。物理法則を無視し、炎を出し、雷を落とす現代の奇跡。特区を支配する絶対のヒエラルキー。
魔力を持たない人間は、魔導師の前では這いつくばるしかない。それがこの世界の常識だ。
だが、それがどうした。
ジンは鼻で笑い、短く吐き捨てた。
「魔法障壁? 殴れば割れるだろ」
『え……?』
「待ってろ。すぐに行く」
相手の返事を待たずに受話器を置く。
ガチャン、と重い音がして、地獄の呼び鈴は沈黙した。
面倒くせぇが、断る理由もない。
どうせこのまま店にいても、泥水と雨が増えるだけだ。
それに、死に場所としては悪くないかもしれない。
ラリった魔導師相手なら、派手に散れる。
運が良けりゃ、派手に散り損ねる。
どっちでもいい。
ジンはカウンターに戻り、小銭を放り投げた。
「行くか」
「……死ぬなよ」
店主の声は小さかったが、さっきより人間らしい響きがある。
ジンは肩だけで笑った。
「死ぬときは勝手に死ぬ。心配すんな」
トレンチコートを翻し、背中を向ける。
痩せ我慢と虚無だけを燃料にして、男はまた雨の中へと踏み出した。
バーの外は、相変わらず土砂降りだった。
路地に出ると、闇に沈む巨大な鉄の塊が鎮座している。
旧式の装甲セダン。愛車、アイアン・バッファロー。通称『鉄牛』。
かつての高級車を分厚い装甲板で無理やり補強し、魔導エンジンではなくガソリンエンジンを積んだ、時代遅れの遺物だ。
魔導師が空を飛ぶ時代に、こいつは地面を這う。
鈍いが、裏切らない。人間よりは。
ドアを開けると、金属と油の匂いが迎えてきた。
ジンは運転席に滑り込み、キーを回した。
……カチ、カチ。
スターターが渋い声を上げ、すぐに沈黙する。
もう一度。
……カチ、カチ、プスん。
「……ご老体だな、俺と同じで」
ジンは舌打ちし、ボンネットを拳で二度叩いた。
バン、バン!
拳はタコで岩みたいに硬い。痛みはない。
ショック療法が効いたのか、今度はエンジンが咳き込み、ドォォォン!! と腹の底に響く、肉食動物を思わせる咆哮を上げた。
V8エンジンの重低音が路地の壁を震わせ、水たまりに波紋を作る。
ジンは深くシートに身を預け、咥えたままだった『赤烏』に火を点けた。
紫煙を深く吸い込む。肺が焼け、カフェインとニコチンが血液を巡る。世界の輪郭が、少しだけ鋭くなる。
雨音の中で、自分の心臓の音が聞こえた。
(このタバコを吸い終わるまでは、生きてやる)
黒い革手袋をはめ直す。
指先でベルトを締め、甲に内蔵された機構の感触を確かめる。
拳の中に眠る、鋼鉄の杭。
インパクトの瞬間に火薬で杭を打ち出すだけの、極めて原始的で、野蛮で、そして確実な物理兵器。
魔法も異能も持たない男が、この魔都で生き延びるために選んだ唯一の相棒だ。
ルームミラーに目をやる。
そこに映っているのは、くたびれた三白眼の中年男だ。無精髭。死んだ魚の目。
だが、唇の端はわずかに持ち上がっている。
ジンは自分の瞳を見返し、確認する。
(怯えてないか?)
大丈夫だ。まだ、足は震えていない。
「よし。いい死に顔だ。死体にしちゃもったいねぇ」
ワイパーが雨を掻き、フロントガラスの向こうでネオンが千切れて流れる。
ギアを入れ、アクセルを踏み込む。
タイヤが泥水を巻き上げ、鉄の牛が唸りを上げて路地を飛び出した。
ラジオは死んでいる。代わりに、エンジンの唸りがベースになって、雨がハイハットみたいに車体を叩く。いいセッションだ。
聴衆は誰もいないが、どうせ俺の人生もそうだった。
ハンドルを切り、倉庫街へ向けて鉄牛を滑らせる。
灰皿に落ちる赤烏の灰が、ひとつ、ふたつ。
魔法が威張る街で、物理のほうがうるさいと教えてやる時間だ。
どうせ死ぬなら、いちばん危ない場所で、いちばん派手にやる。
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