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第4章 紫煙とメスと嫉妬
第8話 おばさんは嫌い
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雨上がりの路地は、濡れたアスファルトのせいで、街全体が古いフィルムみたいにくすんで見えた。
鏑木ジンは歩きながら紫煙を空へ逃がした。
湿気で指先が鈍い。
こういう日は、泥水コーヒーの方がまだキレがある。
(……さっさと帰って薬を飲む。あとは寝る。それでいい)
背後には、黒い影がぴたりと張り付いてくる。
ノアだ。
ジンの古着の黒Tシャツは相変わらず大きすぎて、袖が手を隠している。
黒いレギンスと厚底の運動靴。
抱えたテディベアは、少し歪んでいた。首の辺りが、妙に。
ジンが路地を曲がろうとした、その時。
「ちょっと待ちなさいよ、ジン!」
呼び止める声にジンは足を止め、露骨にため息をついてから、ゆっくりと振り返った。
九条レイコが追いかけてきていた。
白衣の裾を片手で押さえ、ハイヒールで水たまりを避けながら近づいてくる。
さっきの騒動で乱れた黒髪を指で直し、何事もなかったみたいに顎を上げた。
白は清潔の色のはずだが、この女が纏うと、タバコの灰みたいに汚れて見えるから不思議だ。
「……まだ何かあるのか。追加料金なら払わんぞ」
「払う気があるなら、今すぐ払ってよ。湿気でレジが壊れそうなんだから」
いつもの気怠い掛け合い。大人同士だけが知ってるテンポ。
ジンはそれを「面倒」と呼ぶが、面倒のくせに慣れすぎていて、手放すタイミングが分からない。
レイコはジンの襟元のボタンを直すふりをして、胸元へ顔を寄せる。
距離感がバグっているのも、いつものことだ。
「……ねえ。最近『企業』の連中とやり合った?」
レイコの声は低く、真剣だった。
だが、その指先はジンの鎖骨あたりを意味ありげに這っている。
「心当たりがありすぎて分からん」
「笑えないわね。最近、特区の外から妙な連中が入ってきてるのよ。『回収班』。スーツで、目が死んでて、仕事だけは丁寧。あなたみたいなのを片づけるのが得意な連中」
「俺はゴミじゃない」
「この街にいる時点で、似たようなもんでしょ」
レイコが薄く笑う。メンソールの匂いが混ざった息が、ジンの喉を撫でた。
ジンは顔をしかめる。嫌悪ではない。慣れた毒が、肺に馴染むのが腹立たしいだけだ。
(……回収班、ね。厄介な肩書きだ。回収される筋合いはねぇが、面倒の匂いしかしねぇ)
関わりたくはないが、向こうから来るなら仕方がない。
「忠告はありがたいが、その手はどけろ。シャツがシワになる」
ジンがレイコの手を払おうとした、その時だった。
グイッ。
下を見ると、ノアが動いていた。
レイコとジンの間に無理やり割って入るように、その小さな体をねじ込んでくる。
ジンのトレンチコートの裾を、小さな指が掴む。力が強い。布が引きつる。
テディベアの首も、ぎゅっと握り直される。
耳をいじる代わりに、首だ。信号が赤に変わったのが分かる。
ノアは、レイコを見上げた。
レイコが二歩後ろに下がる。
(……なんだ? こいつもレイコが嫌いか?)
子供は正直だ。厚化粧の匂いか、あるいは医者特有の消毒臭さが気に入らないのかもしれない。
ガキにとって、白衣の人間は敵でしかないのだろう。
ジンがそう思った矢先、ノアが小さく口を開いた。
出会ってから初めて聞く、他人に向けた明確な言葉だった。
その声は鈴のように澄んでいたが、中身は劇薬だった。
「……おばさん、パパに、さわらないで」
時が止まった。
路地の雨だれさえも、凍りついたように思えた。
ピキッ。
レイコの笑顔に、亀裂が入る音が聞こえた気がした。
額に青筋が一本、きっちり浮かんだ。完璧な手術痕みたいに。
「……お、お姉さんよ~?」
レイコの声が裏返った。
無理やり口角を持ち上げようとしているが、目が笑っていない。
ジンは、噴き出しそうになるのを必死で堪えた。
腹筋が痙攣する。
(……おいノア。それは事実でも言っちゃいけない言葉だ。人が死ぬ。いや、俺が死ぬ)
レイコの視線がジンに刺さる。「あなた、何か言うことあるでしょ」という圧が、雨上がりの湿気より重い。
「……ガキは、正直なだけだ」
ジンは咳払いで誤魔化した。
「……その正直、矯正しなさいよ」
レイコは一歩、ノアに近づきかけて止まった。
ノアの黒い袖が、いっそう強くコートを引く。
まるで「ここから先は地雷原」と示す標識みたいに、全身で拒絶している。
数秒の沈黙。殺伐としているのに、どこか滑稽だ。
大人の女が、幼女の一言で目尻を引きつらせている。
ジンはこの街で何人も殴り倒してきたが、この瞬間のレイコの顔が一番危険に見えた。
「……はぁ。いいわ」
レイコは舌打ちを飲み込み、白衣のポケットに手を突っ込んだ。
ジンは反射で身構えた。
メスでも出てくるのかと思ったからだ。
出てきたのは、小さなプラスチックのボトルだった。
レイコはそれを、雑に放った。
空中を弧を描いて飛んできたボトルを、ジンが片手で受け止める。
受け止め損ねたら、たぶん次はメスだった。
「……それ、あげるわよ。その子、栄養失調でしょ。ビタミン剤。飲ませなさい」
ジンはボトルを見た。
子供用のサプリメントだ。ラムネ味と書いてある。
「口と性格は悪いが、世話焼きだな。医者の性分かね」
「黙れ。ただの在庫処分よ。……親切な『おばさん』の施しだなんて思わないで」
「おばさんじゃないんだろ」
レイコの目が、また細くなった。
ジンは即座に視線を逸らした。長生きするコツだ。余計な正義感を持たないこと。
「ほら。礼を言え。毒入りじゃなさそうだ」
ジンがボトルをノアへ差し出す。
ノアは無言で受け取った。
だが、次の瞬間。
ゴシ、ゴシ、ゴシ。
ノアはボトルの表面を、自分の黒い服で拭いた。
念入りに。
遠慮という概念を、どこかに捨ててきた手つきで。
「……可愛くないガキ」
「……子供は香水とアルコールの臭いが嫌いだからな」
レイコの額の青筋が、もう一本増えた。
ジンは慌ててノアの頭を鷲掴みにし、強引に背を向けさせた。
これ以上、この白い女と黒いガキを同じ場所に置くと、何かが爆ぜる気がした。
爆ぜるなら、俺のタバコ一本分くらいで済む爆ぜ方がいい。
「行くぞ、ノア。帰る」
ジンが歩き出すと、ノアは一拍遅れてついてくる。
片方の手はテディベアの首を掴み、もう片方の手は拭き清められたサプリメントのボトルを握りしめていた。
角を曲がる直前、ジンは振り返らずに言った。
「忠告は受け取った。……ありがとな」
「礼なんていらない。あなたが死ぬと、診察料が取りっぱぐれるもの」
「優良顧客でいてやるさ」
二人の姿が消えて、路地に白い人影だけが残る。
*
診療所に戻ったレイコは鉄扉の前で立ち尽くし、震える指でメンソールに火を点けた。
煙が白衣の周りで渦を巻き、雨上がりの冷気に溶ける。
診療所の揺れ。
ジンに対する子供とは思えない異常な独占欲。
無機質な瞳。
レイコは煙を吐き、喉の奥で小さく呟いた。
「……ただの地震じゃないわよ、あれは」
白い煙が、路地の闇に引き裂かれて消えた。
「……あなたたち――どっちが回収されるのかしら」
雨上がりの空は、鉛色に重く淀んでいた。
嵐の気配が、湿った風に乗って近づいている。
鏑木ジンは歩きながら紫煙を空へ逃がした。
湿気で指先が鈍い。
こういう日は、泥水コーヒーの方がまだキレがある。
(……さっさと帰って薬を飲む。あとは寝る。それでいい)
背後には、黒い影がぴたりと張り付いてくる。
ノアだ。
ジンの古着の黒Tシャツは相変わらず大きすぎて、袖が手を隠している。
黒いレギンスと厚底の運動靴。
抱えたテディベアは、少し歪んでいた。首の辺りが、妙に。
ジンが路地を曲がろうとした、その時。
「ちょっと待ちなさいよ、ジン!」
呼び止める声にジンは足を止め、露骨にため息をついてから、ゆっくりと振り返った。
九条レイコが追いかけてきていた。
白衣の裾を片手で押さえ、ハイヒールで水たまりを避けながら近づいてくる。
さっきの騒動で乱れた黒髪を指で直し、何事もなかったみたいに顎を上げた。
白は清潔の色のはずだが、この女が纏うと、タバコの灰みたいに汚れて見えるから不思議だ。
「……まだ何かあるのか。追加料金なら払わんぞ」
「払う気があるなら、今すぐ払ってよ。湿気でレジが壊れそうなんだから」
いつもの気怠い掛け合い。大人同士だけが知ってるテンポ。
ジンはそれを「面倒」と呼ぶが、面倒のくせに慣れすぎていて、手放すタイミングが分からない。
レイコはジンの襟元のボタンを直すふりをして、胸元へ顔を寄せる。
距離感がバグっているのも、いつものことだ。
「……ねえ。最近『企業』の連中とやり合った?」
レイコの声は低く、真剣だった。
だが、その指先はジンの鎖骨あたりを意味ありげに這っている。
「心当たりがありすぎて分からん」
「笑えないわね。最近、特区の外から妙な連中が入ってきてるのよ。『回収班』。スーツで、目が死んでて、仕事だけは丁寧。あなたみたいなのを片づけるのが得意な連中」
「俺はゴミじゃない」
「この街にいる時点で、似たようなもんでしょ」
レイコが薄く笑う。メンソールの匂いが混ざった息が、ジンの喉を撫でた。
ジンは顔をしかめる。嫌悪ではない。慣れた毒が、肺に馴染むのが腹立たしいだけだ。
(……回収班、ね。厄介な肩書きだ。回収される筋合いはねぇが、面倒の匂いしかしねぇ)
関わりたくはないが、向こうから来るなら仕方がない。
「忠告はありがたいが、その手はどけろ。シャツがシワになる」
ジンがレイコの手を払おうとした、その時だった。
グイッ。
下を見ると、ノアが動いていた。
レイコとジンの間に無理やり割って入るように、その小さな体をねじ込んでくる。
ジンのトレンチコートの裾を、小さな指が掴む。力が強い。布が引きつる。
テディベアの首も、ぎゅっと握り直される。
耳をいじる代わりに、首だ。信号が赤に変わったのが分かる。
ノアは、レイコを見上げた。
レイコが二歩後ろに下がる。
(……なんだ? こいつもレイコが嫌いか?)
子供は正直だ。厚化粧の匂いか、あるいは医者特有の消毒臭さが気に入らないのかもしれない。
ガキにとって、白衣の人間は敵でしかないのだろう。
ジンがそう思った矢先、ノアが小さく口を開いた。
出会ってから初めて聞く、他人に向けた明確な言葉だった。
その声は鈴のように澄んでいたが、中身は劇薬だった。
「……おばさん、パパに、さわらないで」
時が止まった。
路地の雨だれさえも、凍りついたように思えた。
ピキッ。
レイコの笑顔に、亀裂が入る音が聞こえた気がした。
額に青筋が一本、きっちり浮かんだ。完璧な手術痕みたいに。
「……お、お姉さんよ~?」
レイコの声が裏返った。
無理やり口角を持ち上げようとしているが、目が笑っていない。
ジンは、噴き出しそうになるのを必死で堪えた。
腹筋が痙攣する。
(……おいノア。それは事実でも言っちゃいけない言葉だ。人が死ぬ。いや、俺が死ぬ)
レイコの視線がジンに刺さる。「あなた、何か言うことあるでしょ」という圧が、雨上がりの湿気より重い。
「……ガキは、正直なだけだ」
ジンは咳払いで誤魔化した。
「……その正直、矯正しなさいよ」
レイコは一歩、ノアに近づきかけて止まった。
ノアの黒い袖が、いっそう強くコートを引く。
まるで「ここから先は地雷原」と示す標識みたいに、全身で拒絶している。
数秒の沈黙。殺伐としているのに、どこか滑稽だ。
大人の女が、幼女の一言で目尻を引きつらせている。
ジンはこの街で何人も殴り倒してきたが、この瞬間のレイコの顔が一番危険に見えた。
「……はぁ。いいわ」
レイコは舌打ちを飲み込み、白衣のポケットに手を突っ込んだ。
ジンは反射で身構えた。
メスでも出てくるのかと思ったからだ。
出てきたのは、小さなプラスチックのボトルだった。
レイコはそれを、雑に放った。
空中を弧を描いて飛んできたボトルを、ジンが片手で受け止める。
受け止め損ねたら、たぶん次はメスだった。
「……それ、あげるわよ。その子、栄養失調でしょ。ビタミン剤。飲ませなさい」
ジンはボトルを見た。
子供用のサプリメントだ。ラムネ味と書いてある。
「口と性格は悪いが、世話焼きだな。医者の性分かね」
「黙れ。ただの在庫処分よ。……親切な『おばさん』の施しだなんて思わないで」
「おばさんじゃないんだろ」
レイコの目が、また細くなった。
ジンは即座に視線を逸らした。長生きするコツだ。余計な正義感を持たないこと。
「ほら。礼を言え。毒入りじゃなさそうだ」
ジンがボトルをノアへ差し出す。
ノアは無言で受け取った。
だが、次の瞬間。
ゴシ、ゴシ、ゴシ。
ノアはボトルの表面を、自分の黒い服で拭いた。
念入りに。
遠慮という概念を、どこかに捨ててきた手つきで。
「……可愛くないガキ」
「……子供は香水とアルコールの臭いが嫌いだからな」
レイコの額の青筋が、もう一本増えた。
ジンは慌ててノアの頭を鷲掴みにし、強引に背を向けさせた。
これ以上、この白い女と黒いガキを同じ場所に置くと、何かが爆ぜる気がした。
爆ぜるなら、俺のタバコ一本分くらいで済む爆ぜ方がいい。
「行くぞ、ノア。帰る」
ジンが歩き出すと、ノアは一拍遅れてついてくる。
片方の手はテディベアの首を掴み、もう片方の手は拭き清められたサプリメントのボトルを握りしめていた。
角を曲がる直前、ジンは振り返らずに言った。
「忠告は受け取った。……ありがとな」
「礼なんていらない。あなたが死ぬと、診察料が取りっぱぐれるもの」
「優良顧客でいてやるさ」
二人の姿が消えて、路地に白い人影だけが残る。
*
診療所に戻ったレイコは鉄扉の前で立ち尽くし、震える指でメンソールに火を点けた。
煙が白衣の周りで渦を巻き、雨上がりの冷気に溶ける。
診療所の揺れ。
ジンに対する子供とは思えない異常な独占欲。
無機質な瞳。
レイコは煙を吐き、喉の奥で小さく呟いた。
「……ただの地震じゃないわよ、あれは」
白い煙が、路地の闇に引き裂かれて消えた。
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