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一章 謎を纏った喫茶店

出現した光

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 二人は車で坂を下り、柏名湖に架かる橋を渡って喫茶ウェスタの駐車場に車を停めた。
 千堂が、懐中電灯の光を絞って店の軒先に立っている。店の中は真っ暗で、すべての照明が落とされているようだ。
 CLOSEDクローズドの札が掛かったドアを開けて、千堂は史岐達を中へ導く。
 奥にあるボックス席で、暖色の小さな光が揺れていた。テーブルの上にキャンドルのようなものが置かれているらしい。昨日、二人が座った席よりも、やや店の中央に近い位置だった。
 飲みものが必要かどうかを訊かれて、二人ともホット・ココアを頼んだ。暗がりの中、千堂がそれらを銀のトレイに乗せて運んでくる。
「この席に、何かあるのですか?」利玖が訊いた。
「ええ」千堂は上を指さした。「天窓が一番よく見えます」
 二人は視線を上に向ける。確かに、この席に座って見上げると、ちょうど天窓に正対する角度だった。だが、今は白い布製のスクリーンがかけられており、窓の向こうの景色は見えない。
「少しお待ちくださいね……」千堂は厨房に戻ると、奥にあるドアを開けてさらに先へ進んだ。その辺りに、各種のスイッチや配電盤が集まった区画があるらしい。
 しばらく、何かの蓋を開けては閉じ、ボタンを押すような、無機質な物音だけが聞こえた。
 それを待つ間、ココアに口をつけながら、利玖は横目で史岐を見た。何食わぬ顔で、彼もココアを飲んでいる。
 わかったかも、とはどういう意味だろう。今夜の空模様で彗星が観測出来るはずがないと思っているのは、利玖も同じだ。
 ならば、これから自分達が見せられるものは何なのか、と考えていると、天窓付近でモータが回るような音がし始めた。
 スクリーンが徐々に巻き上げられていく。
 やがて、その下から、燐光のような青白い光がこぼれると、利玖は思わず、あっと声を上げた。
 天窓いっぱいに燦然さんぜんと輝く光の像が映っている。
 星の輝きをすくい取る絵筆で銀河の中心をかき混ぜた後、さっと、その先端で空をなぞったように、様々な色彩、輝度、不ぞろいな光の粒が入り混じっている。一瞬で瞳の奥に焼きつくようなはげしい光だった。
 額縁を思わせる長方形の天窓の左下に、一際はっきりと輪郭が浮かび上がった光の球がある。それは、右上に向かって、飲みものに入れられた角砂糖のように拡散し、幻想的な光の帯をたなびかせて夜空に横たわっていた。
「え、なんで……」利玖は思わず腰を浮かせていた。「だって、今は曇っていて……」
 それすら言い終わらないうちに席を立つ。ボックス席の間を駆け抜け、最短距離で入り口まで走った。
 ドアベルを鳴らして外へ出る。
 車道との境界に引かれた白線の手前で立ち止まって、天窓の開口部から推測した方角の夜空を見上げた。
 木の枝や街灯には遮られているわけではない。しかし、いくら目を凝らしても、星は一つも見えなかった。
 利玖は店内に戻り、もう一度天窓の下に立つ。
 硝子越しに見上げると、未だくっきりと、焼きつくように空に浮かんでいる彗星がそこにあった。自分の目が暗さに慣れた為か、その輝きは、スクリーンを上げられた直後よりも増しているように感じられる。
 無意識に、腕を組み、きわめてわずかな量のため息を断続的に漏らしていた。
 どういう事だろう……。
 考えながら、ゆっくりと歩き、また外へ出る。
 今見ているものの絡繰からくりが、利玖にはさっぱり見当がつかない。だが、史岐はまだ駐車帯にいる時、つまり、実物を目にする前から「わかったかも」と口走っていた。
 情報工学分野の技術が使われているという事だろうか?
 外に出ると、利玖は立ち止まって、ほ、と発音する時の形に口を開け、胸に溜まっていた比重の大きい空気を外に逃がした。
 星空にヴェールをかけている濁ったもやを、しばらく黙って見上げていたが、やがて、その場から店内に向かって、心持ち声を張り上げて史岐の名を呼んだ。
「彗星に変化はありますか? ここからは何も見えません」
「ちゃんと見えるよ」と史岐の声がした。まったく驚いている様子もない。
 再び、ため息。
 その後、利玖が店の軒先で彗星の仕掛けについて考えを巡らせていたのは、時間にすればわずか五分にも満たない間の短い出来事だったが、コートを着ずに出てきてしまった事による全身を押し包むような冬の山の寒さが、中で史岐に種明かしをしてもらおう、と決意させた。
 組んでいた腕をほどき、深呼吸をして踵を返す。
 しかし、彼女の足が入り口のステップを踏む前に、泥のようにざらついた粘性のある冷たさが片方の足首にすがりついた。
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