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四章 待ち焦がれた彗星

凶行

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 利玖が何かに足を取られたように転倒し、湖に向かって引きずられ始めた時、千堂は木陰から一歩踏み出して、湖の方へ近づいていた。
 利玖の心配をしたわけではない。
 彼女の体が水面に触れた瞬間、湖が爆発的な光を放ったからだ。

 ふう……っ、と太古の竜がため息をついたようなぬるい風が吹いた。

 その風が湖畔の木立を包み、枝葉の間に残った雪がぱたぱたと音を立てて飛び散った。まだ枝に残っている葉が湖の光を弾き、モザイク・アートのように揺れる。
 最も輝きが強いのは湖の中心部で、それは、生まれたばかりの星のような青みがかった強烈な白色だった。外縁に向かうにつれて、少しずつ輝度が下がっていく代わりに、まるで周囲に存在するすべての元素を固有の色に置き換えたみたいに、複雑な色彩を纏うようになる。
 その光球が、巨大な生きもの、或いは、群れを作った小魚のようにゆっくりと湖の中を泳いでいた。

 千堂は瞬きもせずに、その光に見入っていた。
 ほんの数メートル先で、利玖が手足をばたつかせてもがいている事など、意識の片隅にも引っかかっていなかった。

 しかし、しばらくすると光は急に弱くなり、不安定に明滅し始めた。
 千堂は思わず湖に入っていこうとする。だが、その途中ではっと気が付き、さっきまで自分のそばにあった木に目をやった。

 根元に結ばれたロープが激しくのたうっている。
 利玖が抵抗しているのだ。
 そのせいで、負けそうになっているのか……。

 そう悟るや、千堂はダウンジャケットの裾をまくり上げ、ベルトに挟んで隠していた手斧を取り出して、勢いよくロープめがけて振り下ろした。

 一度では断ち切る事が出来なかった。
 直角に刃が当たるように狙ったが、手元が暗い事と、ロープの振動のせいで逸れたようだ。しかし、裂け目が生じて、り合わされた繊維の束が一本ずつ千切れ始めた。
 敢えてとどめを刺すまでもないだろう。
 だが、手をこまねいている間に、万が一にもあの光が消えてしまったら、これまでの努力のすべてが水泡に帰す事になる。
 千堂は微塵も躊躇う事なく再び手斧を振りかぶった。
 その時、背後の藪が動き、振り向いた彼のからだに、必死な形相の冨田とみた柊牙しゅうががしがみつくようにぶつかってきた。
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