天蚕糸の月 Good luck.

梅室しば

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二章 学園祭初日

葡萄畑とラジオのノイズ

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 剣道部の面々は、西門のすぐそばに屋台を構え、肉の脂身と野菜の水分が鉄板の上で弾けるジュワジュワという音と、ソースの焦げるたまらなく香ばしい匂いによって客寄せに一役買っていた。日比谷遥が休む事なく手を動かしながら、本場仕込みの関西弁で客を呼び込んでいる。
 買い物をしない客が行っても仕方がないので、史岐は向かいにある理学部棟に体を寄せて待ち、利玖が一人で屋台に向かった。
 利玖は、鉄板を挟んで遥と話をしていたが、途中でぱっと二人揃ってこちらを振り向いた。たぶん、自分と一緒に来ている事を利玖が伝えたのだろう。
 片手を上げて挨拶をすると、日比谷遥は顔いっぱいに笑みを浮かべて手招きをしたが、迂闊に近づいたが最後、鉄板に引かれた油よりも熱くたぎる彼女の商魂に圧し負けるのが目に見えて、史岐はその場で両手を合わせて(申し訳ない)のジェスチャをして勘弁してもらった。
 遥は不満げに口を尖らせて首を横に倒したが、すぐに鉄板の上に意識を戻して、両手に持った起こし金でざっくざっくと具材をかき混ぜ始めた。

 屋台から出た煙がふわふわと散らばりながら、建物の間から見える色の薄い空に昇っていくのを眺めていた史岐の視界に、ふと白いものがよぎった。
 史岐が、そちらに目を向けると、見慣れない和装をした少女が西門をくぐって来る所だった。狩衣かりぎぬに似ているが、動きの邪魔にならないように袴をばっさりと膝の上まで切りつめている。
 透きとおる白銀の髪が、夜明けの光を抱いた朝雲のように淡く輝いている。瞳の色は薄く、耳には小さな金の飾りを着けている。顔立ちにはどこか幼さがあったが、それでも、息を止めて見入ってしまうほど美しかった。
 しかし、その美しさは、ただ胸を高揚させる類の物ではなかった。まるでこの世ならざる淵の碧水を覗き込んでいるように、自ずと吸い寄せられてしまうのに、ある所で、はっ……と、自分が決して触れてはならない物に魅入られている、と気づかされるような恐ろしさをはらんでいた。
 学生が仮装をしているのだろうか、などとは考えもしなかった。
 あれは、自分と同列に扱っていい存在ではない。
 少女は、帯に刀を差していた。わずかに反りのついた鞘が、それ自体が生きものであるかのように不気味な光沢を放っている。いつでも抜刀できるように、少女が片手をつかに添えている事が、それが安物の模造刀ではない事を示していた。
 刀を見つめていた史岐の瞳に、突然、けるような痛みが走った。
 心の中で舌打ちをしながら、史岐は地面へ目を逸らした。どうしてこんな所にあるのか知らないが、あの刀は相当に業の深い代物であるらしい。

 壁に頭をあずけ、閉じた瞼の裏を見つめて痛みが去るのを待ちながら、史岐は、
(まだ、『やり方』を覚えているだろうか)
と考えた。
 向こうに気づかれていないのは幸いだ。怪異と関わるのが当たり前の立場に生まれながら、一般人としての暮らしを望む者は、余計な面倒を背負い込まないように幼いうちから手ほどきを受ける。その中でも「見ない」というのは、単純でありながら、非常に効き目のある手法だった。見えていなければ、大抵の事は知らぬ存ぜぬを決め込める。
 しかし、頼んでもいないのに視界に入ってくるものを意識して選り分け、見る、見ないを切り替えるというのは難しい技術で、鍛錬を積めば誰でも出来るようになるわけではない。その為、人と妖の間に立って商いをする者達の間では、そういう「見てはならない」物をはじく特殊ながらを用いて作られた眼鏡がロングセラー商品であるという。
 史岐も、小さな頃から色々なものが見えたけれど、それなりに器用だったから、道具に頼らずに身を守る方法を覚える事が出来た。これといった正攻法があるわけではないが、自分にとって使いやすい何らかの具象と結びつけて、感覚の鋭さや閾値といったあやふやなものを、まずは即物的に把握する事がこつであるとされる。

『おじさまは何をおっしゃっているの?』

 記憶をたどり始めた途端、梓葉の声が聞こえたのでびっくりした。
 もちろん、現実で声をかけられたわけではない。小学校の授業で詩や小説に触れるようになって、覚えたばかりの上品な喋り方を試したくて仕方がない頃のあどけない声だった。
 宝石のような薄緑色の葡萄の粒が、頭上の枝がたわむほど実っていた。
 その畑に自分達を連れてきた男が、どの親戚筋の人間だったのかはわからない。ただ、草が好き放題に伸びた畑に似つかわしくない、真っ白な襟付きシャツを着た爽やかな風貌の男であったように思う。
 梓葉は「おじさま」と呼んでいたが、あの頃の彼女は血縁関係のあるなしに関わらず、敬意を払ってしかるべきと判断した年上の男性であれば皆そんな風に呼んでいたから、あまり参考にならない。
 ただ、畑はたいら家のものだった。彼女の家は、広い土地にいくつもの畑を持っていて、毎年、葡萄が実をつける頃になると、史岐も収穫を手伝いがてら、あちこちでみずみずしい粒を口にふくませてもらった覚えがある。
 畑に着いた時、葡萄棚の下では数人の大人が作業をしていて、史岐達を見るとぺこんと頭を下げたが、近づいてこようとはしなかった。
『誰もいなくなるまで目を離さないように』
 男は口元に指を当てて、いたずらっぽい話し方で言った。
『見たくないのなら、ただ感覚を鈍くすれば良い、と思うかもしれないけどね。人間というのはそんなに単純には出来ていないのだよ。一方を鈍くすれば、他方がそれを補おうとして、結果、普段拾わない物を拾う事もある。
 慎重につまみを回して、ちょうど良い塩梅を探すんだ。そのやり方がわかれば、あとは簡単』
 男は、旧型のポータブルラジオを自分と梓葉に貸し与えた。
『あれは見て良い、あれは良くないと教えてくれる存在が、いつまでもそばにいるわけではないのだからね。そもそも、その分別を他人にゆだねる事自体、僕はどうかと思うよ』
 だからと言って、本当に年端のいかない子どもを葡萄畑に放り出していく奴があるか、と今になっては思うが、その時分には大人のする事は何でも正しく思えるもので、二人ともたいした文句も口にせずに置き去りにされた。
 畑は、道路から一メートルほど掘り下げた地面に作られていて、巨人がつたを編んで作ったような葡萄棚が蓋をしている。つむじが焦げそうな強い陽射しも、その下にいると多少ましだった。
 最初は、梓葉も畑の隅からコンテナを持ってきて、ひっくり返した平らな面にハンカチを敷いて座っていたが、そこに葡萄棚からぼろりと虫が転げ落ちてきたのだからたまらない。彼女は悲鳴を上げ、腕を振り回し、泣きそうになるのをぎりぎりの所で我慢している自分に、
『目を離しちゃだめだって言ってたよ』
とてんで気の利かない発言をする幼馴染みを、覚えたての『おだまり!』で一喝して農具小屋に逃げ込んだ。
 かくして、早々に史岐は畑に一人残された。
 どうも物の例えではなく、本当に一人であったらしいとわかったのは後になってからの事である。

 のどかな時間が流れる昼下がりの畑を、ラジオを触りながら長いこと見ていた。
 風が吹いて葡萄の葉がざわざわと鳴ると、枝の間から光がこぼれて、くっついたり離れたりしながら草原の上ですいすいと踊る。その中に足を投げ出して座っていると、熱帯魚の水槽の底で漂っているような心地がした。
 ラジオからは次から次へと知らない音楽が流れてきて面白い。しかし、機械の調子が良くないのか、つまみを固定して枝のくぼみに乗せておいても、いつの間にか雑音が膨れ上がって元の放送を飲み込んでしまう。最初は律儀に周波数を合わせていた史岐も、じきに諦めて、機械が流したいものを流させてやるに任せた。
 注意深く聴いていると、雑音の中にも、波が寄せて返すような周期があったり、くぐもった人の話し声と区別のつかないものが延々と流れてくる時間があったりして、ただ耳障りなだけの代物でもない。
 そういう時、畑を見ると、なんだか最初よりも人が増えているような気がしたが、数えようとしてもそもそも初めに何人いたのかが思い出せない。あちこちに目をやっているうちに、今度はさっきまでいた誰かが姿を消しているような気がする。
 日が暮れ始めるまでの数時間の間に、そんな事が何度もあった。

 それでも、夕方になって男が迎えに来るまでは、史岐はその奇妙な体験を、うたた寝をして夢を見たのだろうと思っていた。
 しかし、後ろ向きに畑に乗り入れた車から降りてきた男の体が、螺鈿らでんのように複雑な色彩の光に包まれているのを見ると、あっと声を上げて立ちすくんだ。
『どうしたの?』
 エンジン音を聞きつけて農具小屋から出てきた梓葉も、そのまばゆい光をくっつけていた。
 何が起きているのかわからず、困り果てて男を見上げると、彼は微笑んで、
『元通りになるように調節してごらん』
と言った。
『見えているものの波の形をつかむ事。自分の体に流れている波の形を変える事。大事なのはこの二つ』
 史岐は、言われるがままにラジオを取り出すと、電源を入れずに、右に左に、少しずつつまみを回していった。
 畑を徘徊していた人間──少なくとも、見た目はそうだった──の数が不自然に変動して見えた光景が、映画のフィルムを繰るように、ある部分では圧縮され、ある部分では間延びして脳裏によみがえる。
 酔ったような感覚がこみ上げて、何度か目を回しかけたが、やがて、梓葉達がまとっている光は少しずつ薄らぎ、見えなくなった。
『いいね。……その感覚を忘れないように』
『さっきから、おじさまは何をおっしゃっているの?』
 先述の梓葉の言葉はこの時に発せられたものである。
 泥が乾いて白っぽく粉をふいている助手席のシートを手で払いながら、梓葉はふくれっ面になった。
『わたし、誰もいない畑にこんなに長いこと放り出されたのは初めてです』


 蜃気楼のように幻想的な夏の出来事は、深く甘く、かすかに酸っぱい葡萄の香りを呼び覚ましたのを最後に、記憶の底にある暗がりに溶け込んで見えなくなった。
 史岐は瞬きをし、ピントが定まったのを確かめてから、少女が立っていた場所に目を向ける。
 そこにいるのは、常世の国から現れたような佇まいの存在ではなく、見栄えのしないコートに黒のデニムというごく平凡な出で立ちの少女だった。顔立ちは変わらず美しいままだが、髪は黒いし、刀も差していない。
 史岐は、詰めていた息をほーっ……と吐きながら、理学部棟の壁に寄りかかった。
 まだ、あまり化けるのが上手くないのだろう。あれでは多少感覚の鋭い人間には「見えて」しまう。
 それなりのよわいの妖であれば、騒ぎになっても巧みに煙に巻くだろうが、人間ごときに見破られた事に逆上して一悶着起こさないかどうかは妖の度量次第であるから、史岐には祈る事しか出来ない。

 少なくとも、学園祭の間はこのままでいた方が良さそうだ。
 身近な人間に危険が及ぶという確信がある時以外は、こちらからは干渉しないし、余裕があるなら、こうして意識的に相手を遠ざける策を講じておく。それは、史岐が常日頃から心がけている事でもあったし、先日、別海医師からさとされた内容にも通じる事だった。

 学生に化けた少女は、しばらくすると図書館の方へ歩み去り、入れ替わりに利玖が戻ってきた。焼きそばの入ったビニルの容器を持ち、頬がちょっとかじかんで赤くなっている。
「十枚もビラをもらってくれました」
 昼食が手に入った事よりも、そちらの方がはるかに嬉しそうだった。
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