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一章 或る少女の見解
『九番』の少女
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谷底で大きな生き物が立てる寝息のように響いていた葉擦れの音が、一瞬、静まったかと思うと、渦巻くような風を連れて一気に山間を駆け上ってきた。
開け放たれた硝子戸が、風をもろに受けて苦しそうに軋む。庭の木々が四方八方に枝を振り回され、今にも引き千切られそうにしなった。
そのうちに、どこかで巻き上げられたのが飛んで来たのだろう、干からびた枝葉が畳に落ちるのが見えたので、熊野史岐は立ち上がって歩いて行くと、それを手で摘んで縁側から外へ放り捨てた。そして、そのまま、足の痺れが取れるまで立って庭を眺めていた。
大学では使い所のない正座などするから足が痺れるのだが、こと県内においては、自分の生家と比べ物にならない影響力を持っている槻本家の屋敷に呼び出されて、胡坐をかいて待っている訳にもいかない。おまけに、自分を呼びつけたとある人物の、いつもの気まぐれな注文で、史岐は今日、慣れない和装だった。
疎遠になっていた両親から連絡があったのは、九月に入り、大学の夏季休業も残り半分を過ぎた頃だった。
槻本家の一人娘が退屈を持て余して、幼い頃から親交のあった史岐を話相手に所望しているという。相手が相手だけに、知らされた時点で、断る選択肢などあってないような物だった。
今年は春から立て続けに厄介事に見舞われていて、先月、縞狩高原で行われた剣道部の合宿から帰ってきて以降、史岐は友人達のように遊び耽るでもなく、自分のアパートを拠点として穏やかに続く日常の有難みを噛みしめながら過ごしていた。だから、今日の会合も全くもって気乗りしなかったのだが、親の面目を思って渋々足を運んだのである。
廊下の奥で、客殿と屋敷を隔てる引き戸が開く音が聞こえたので、史岐は慌てて座布団に座り直した。
二人分の足音が近づいてきて、客間の入り口で止まると、障子がすっと引かれて一人の少女が入ってきた。
長袖のセーラー服も、膝丈のスカートから伸びる脚を包むタイツも、髪に結んだ飾りのないリボンも、何もかもが黒い。
形のよい顔と、両手の先、そして胸元のスカーフだけが白かった。
面差しには年相応のあどけなさが残されているが、赤みがかった黒い瞳には、見る者を蕩けさせるような引力が宿っている。
「久しいわね、史岐」
少女はそう言うと、見もせずに後ろに向かって手を振って、背後に控えていた人物を下がらせた。
障子を引いた時、喪服のような黒い着物がちらっと見えたが、あとの特徴はわからない。槻本家には、そういう黒子のような存在が何人もいて、決して表立って姿を見せる事はなく各々の仕事を進めており、聞き及んだ話では、その中に、まだ二十歳にもならない当主の少女──槻本美蕗の両親さえ含まれるのだという。
ここは、そういう歪みを内包する場所だった。
美蕗は、柔らかな雪を踏むような足取りで史岐の前にやって来た。
セーラー服の上にふわりと羽織っている袷の裾が、室内の暗がりから、わずかに日向へはみ出している。まだかすかに吹いている風で木漏れ日が揺らぐと、淡い色の糸で刺繍を施した薄紅色の生地が、まるで呼吸をしているように複雑な輝きを放った。
「その袴、前に会った時にも着ていなかったかしら?」
史岐が黙っていると、美蕗はわざとらしくため息をついた。
「残念だわ。きっと素敵な格好で喜ばせてくれるに違いないと楽しみにしていたのに」話しながら、美蕗は袷の襟を胸元で引き合わせる。「それとも、代わりに、とびっきりの楽しい話を用意してきてくれたのかしら?」
「……話した所で、あなたを喜ばせられるような物は、何も」
美蕗は、ゆっくりと脇息にもたれかかると、嬲るような眼差しで史岐を見た。
「表現を変えるわね。『九番』の美蕗が退屈を忘れさせてほしいと言っているのよ。何か、話す事はあって?」
史岐は観念して、姿勢を正した。
「五月に、佐倉川の跡取りと顔を合わせる機会がありました」
美蕗は唇に手を当てて「佐倉川……」と史岐の言葉をくり返し、それから、ああ、と頷いた。
「岩河弥村の古い血筋ね。それがどうしたの?」
史岐は、五月に起きた『五十六番』にまつわる一連の出来事を美蕗に語って聞かせた。
どうせ、黙っていても、いつかは美蕗の耳に入る事である。それならば余計な尾鰭がつく前に、自分から明かしておいた方がまだましだ、と思えた。
美蕗が興味を持ちそうな部分をそれとなく誇張して話したおかげか、話を聞き終えると、美蕗は満足げに微笑んだ。
「まっすぐな子ね」
だが、次に出た言葉は史岐を驚かせた。
「何かを諦めているのかしら?」
「え……?」
史岐は眉をひそめる。
「そう、かな……。むしろ貪欲な方だと思うけど」
自分で言っておきながら、どこか引っかかる物があった。
利玖の、あの生き方、ものの考え方は、果たして貪欲さなのだろうか? 本当は、もっと違う理由で生み出された、まったく性質の異なる物なのではないか……。
「そう? 何だって等価交換じゃない。お金を諦めて服を買う。自由になる時間を諦めて幾ばくかの駄賃を恵んでもらう。それと同じだわ。どこかで、大きな物を諦めているから、それだけまっすぐでいられるのよ」
「明日死ぬとわかっている人間には恐れる物が何もない、と?」
冗談のつもりだったが、美蕗は笑みを深くした。
「史岐にしては良い喩えね。でも、言葉選びが低俗すぎて興が醒めてしまったわ。あなた、もう少し本を読んだらどうかしら?」
開け放たれた硝子戸が、風をもろに受けて苦しそうに軋む。庭の木々が四方八方に枝を振り回され、今にも引き千切られそうにしなった。
そのうちに、どこかで巻き上げられたのが飛んで来たのだろう、干からびた枝葉が畳に落ちるのが見えたので、熊野史岐は立ち上がって歩いて行くと、それを手で摘んで縁側から外へ放り捨てた。そして、そのまま、足の痺れが取れるまで立って庭を眺めていた。
大学では使い所のない正座などするから足が痺れるのだが、こと県内においては、自分の生家と比べ物にならない影響力を持っている槻本家の屋敷に呼び出されて、胡坐をかいて待っている訳にもいかない。おまけに、自分を呼びつけたとある人物の、いつもの気まぐれな注文で、史岐は今日、慣れない和装だった。
疎遠になっていた両親から連絡があったのは、九月に入り、大学の夏季休業も残り半分を過ぎた頃だった。
槻本家の一人娘が退屈を持て余して、幼い頃から親交のあった史岐を話相手に所望しているという。相手が相手だけに、知らされた時点で、断る選択肢などあってないような物だった。
今年は春から立て続けに厄介事に見舞われていて、先月、縞狩高原で行われた剣道部の合宿から帰ってきて以降、史岐は友人達のように遊び耽るでもなく、自分のアパートを拠点として穏やかに続く日常の有難みを噛みしめながら過ごしていた。だから、今日の会合も全くもって気乗りしなかったのだが、親の面目を思って渋々足を運んだのである。
廊下の奥で、客殿と屋敷を隔てる引き戸が開く音が聞こえたので、史岐は慌てて座布団に座り直した。
二人分の足音が近づいてきて、客間の入り口で止まると、障子がすっと引かれて一人の少女が入ってきた。
長袖のセーラー服も、膝丈のスカートから伸びる脚を包むタイツも、髪に結んだ飾りのないリボンも、何もかもが黒い。
形のよい顔と、両手の先、そして胸元のスカーフだけが白かった。
面差しには年相応のあどけなさが残されているが、赤みがかった黒い瞳には、見る者を蕩けさせるような引力が宿っている。
「久しいわね、史岐」
少女はそう言うと、見もせずに後ろに向かって手を振って、背後に控えていた人物を下がらせた。
障子を引いた時、喪服のような黒い着物がちらっと見えたが、あとの特徴はわからない。槻本家には、そういう黒子のような存在が何人もいて、決して表立って姿を見せる事はなく各々の仕事を進めており、聞き及んだ話では、その中に、まだ二十歳にもならない当主の少女──槻本美蕗の両親さえ含まれるのだという。
ここは、そういう歪みを内包する場所だった。
美蕗は、柔らかな雪を踏むような足取りで史岐の前にやって来た。
セーラー服の上にふわりと羽織っている袷の裾が、室内の暗がりから、わずかに日向へはみ出している。まだかすかに吹いている風で木漏れ日が揺らぐと、淡い色の糸で刺繍を施した薄紅色の生地が、まるで呼吸をしているように複雑な輝きを放った。
「その袴、前に会った時にも着ていなかったかしら?」
史岐が黙っていると、美蕗はわざとらしくため息をついた。
「残念だわ。きっと素敵な格好で喜ばせてくれるに違いないと楽しみにしていたのに」話しながら、美蕗は袷の襟を胸元で引き合わせる。「それとも、代わりに、とびっきりの楽しい話を用意してきてくれたのかしら?」
「……話した所で、あなたを喜ばせられるような物は、何も」
美蕗は、ゆっくりと脇息にもたれかかると、嬲るような眼差しで史岐を見た。
「表現を変えるわね。『九番』の美蕗が退屈を忘れさせてほしいと言っているのよ。何か、話す事はあって?」
史岐は観念して、姿勢を正した。
「五月に、佐倉川の跡取りと顔を合わせる機会がありました」
美蕗は唇に手を当てて「佐倉川……」と史岐の言葉をくり返し、それから、ああ、と頷いた。
「岩河弥村の古い血筋ね。それがどうしたの?」
史岐は、五月に起きた『五十六番』にまつわる一連の出来事を美蕗に語って聞かせた。
どうせ、黙っていても、いつかは美蕗の耳に入る事である。それならば余計な尾鰭がつく前に、自分から明かしておいた方がまだましだ、と思えた。
美蕗が興味を持ちそうな部分をそれとなく誇張して話したおかげか、話を聞き終えると、美蕗は満足げに微笑んだ。
「まっすぐな子ね」
だが、次に出た言葉は史岐を驚かせた。
「何かを諦めているのかしら?」
「え……?」
史岐は眉をひそめる。
「そう、かな……。むしろ貪欲な方だと思うけど」
自分で言っておきながら、どこか引っかかる物があった。
利玖の、あの生き方、ものの考え方は、果たして貪欲さなのだろうか? 本当は、もっと違う理由で生み出された、まったく性質の異なる物なのではないか……。
「そう? 何だって等価交換じゃない。お金を諦めて服を買う。自由になる時間を諦めて幾ばくかの駄賃を恵んでもらう。それと同じだわ。どこかで、大きな物を諦めているから、それだけまっすぐでいられるのよ」
「明日死ぬとわかっている人間には恐れる物が何もない、と?」
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