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三章 半日余りの船旅
寝袋の理由
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程なくして徒歩乗船も開始され、エスカレーターの前に置かれていたベルトパーテーションが係員の手によって外されると、そちらに向かって、列になって並んでいた乗客達がぞろぞろと動き始めた。彼らの後ろについて、利玖達もエスカレーターに乗って一つ上のフロアに進んだ。その階からは、停泊している船に向かってボーディング・ブリッジが伸びている。
案内板の矢印に従って歩いて行くと、そのまま、フェリー内に設けられたロビーに出た。床や椅子の背に、ひと昔前のトレンディ・ドラマに出てくるような紫色が使われていて、レトロな印象を受ける。
歩いている時は気にならないが、平らな所で足元に注意を向けてみると、ぐにゃんとした奇妙な揺れを感じて、本当に海の上にいるのだ、と思い知らされた。
柊牙達とは、十九時に食堂で落ち合う約束をして別れた。
扉の前で待っていたが、史岐はなかなか現れず、車両甲板からここまで来るのに時間がかかっているのかもしれないと考え、先に部屋に入る事にした。
ドアノブの上についたスリットにカードキーを差し入れて扉を開けると、のどかな陽射しにふわっと体を包まれるような、優しい色使いのツインルームが現れた。
ランプシェード越しの柔らかい灯りが、木目調の壁紙を照らし上げている。絨毯や、椅子の背に張られた布地の色は品の良い真紅だった。ロビーの内装と比べると派手さが抑えられ、船の中とは思えないほど清潔感がある。
部屋の中央にはベッドが二つ、サイドテーブルを挟んで並んでいる。ぴんと張られたシーツには一片の汚れもなく、ベッドメイクの仕上げとして空気を注入する工程があるのではないかと思うほど膨らんでいた。
陸側に窓がついていた。薄いレースのカーテンが引かれて、昼前の街並みが透けて見える。部屋に備え付けの専用のテラスがあり、鍵は大きく、頑丈だったが、出入りは自由に出来るようだった。
しばらく窓の外を眺めてから、ソファの端に荷物を下ろし、出入り口の手前にあるユニット・バスを覗き込んでいると、突然、部屋の扉がノックされた。
おそるおそるドアスコープに顔を近づけると、部屋の前に立っている史岐の姿が見えた。
半ば呆れながら、利玖は扉を開ける。
「カードキー、もう失くしたんですか?」
史岐は無言で左手を掲げる。
指の間に、部屋番号の書かれたカードキーが挟まっていた。
「なんだ、あるじゃないですか」
「だからって勝手に入るのはどうなのかな、と」
「ノックされる方が身構えます」
「うーん……」史岐は首をひねりながら部屋に入ってきた。「それもそうか」
タオルや石鹸は部屋に用意されているので、着替えと貴重品だけを持ち込めば良い、と聞かされていたので、史岐も利玖も、荷物はリュックサック一つで済んだ。
しかし、史岐の背中にはそれとは別に、車中では見かけなかった荷物が一つ増えている。上下をぎゅっと絞った布袋のような物で、何が詰まっているのか、はち切れそうなほど膨らんで、形はほとんど円柱状だった。
「それ、何ですか?」
問うと、史岐はちらっと背中に目をやって、
「寝袋」
と答えた。
「寝袋?」思わず、利玖は史岐の言葉をくり返す。「どうしてまた、そんな物を」
「あの車、キャンプの道具が積んであるからね」
「答えになっていませんよ」
利玖の言葉を無視して、史岐はソファに座り込んだ。
そのまま黙りを決め込んで追求を逃れるつもりだったのかもしれないが、彼のようなお人好しが、いつまでもそんな薄情を貫き通せる訳もなく、いくらもしないうちに、気まずそうに紐をずらして寝袋を体の前に持ってきた。
「僕らぐらいの歳の男女が二人きりで同じ部屋に泊まるっていうのは、やっぱり、まずいでしょ」
「まずくない年齢ってあるんですか?」
「…………」
「仮に寝袋を使ったとしても、ご覧の通り、仕切りのない部屋ですから、あまり意味がないと思いますが」
史岐は天井を仰いだ。
わずかに開いた唇から、言葉の代わりにため息が漏れる。
利玖は、化粧台の椅子をソファの前に移動させて、史岐と向かい合った。
「気を遣っていただいた事には感謝します。しかし、史岐さんの入った寝袋が足元に転がっていたのでは、こちらもおちおち安心して眠っていられません」
「……本っ当に、あいつは……」
ありったけの憎しみを込めて、史岐は呟いたが、美蕗への恨み言はそれきり、あとは続かなかった。
港に着く前に買っていた缶コーヒーを荷物の中から掘り出して飲み始める頃には、史岐の顔からはあらかた毒気が抜けていた。
「まあ、利玖ちゃんが気にしないなら、いいか」
「これから二十時間近く、ずっと海上にいるという特殊な環境ですから、不測の事態に備えて安全を確保する為にも、見知った相手と行動を共にするというのは理に適っていると思います」
「賛成」
「では、ベッドで寝てくれますね?」
史岐は苦笑する。
「安全の為です」
だめ押しで利玖が付け加えて、ようやく、史岐は肩から寝袋の紐を下ろした。
案内板の矢印に従って歩いて行くと、そのまま、フェリー内に設けられたロビーに出た。床や椅子の背に、ひと昔前のトレンディ・ドラマに出てくるような紫色が使われていて、レトロな印象を受ける。
歩いている時は気にならないが、平らな所で足元に注意を向けてみると、ぐにゃんとした奇妙な揺れを感じて、本当に海の上にいるのだ、と思い知らされた。
柊牙達とは、十九時に食堂で落ち合う約束をして別れた。
扉の前で待っていたが、史岐はなかなか現れず、車両甲板からここまで来るのに時間がかかっているのかもしれないと考え、先に部屋に入る事にした。
ドアノブの上についたスリットにカードキーを差し入れて扉を開けると、のどかな陽射しにふわっと体を包まれるような、優しい色使いのツインルームが現れた。
ランプシェード越しの柔らかい灯りが、木目調の壁紙を照らし上げている。絨毯や、椅子の背に張られた布地の色は品の良い真紅だった。ロビーの内装と比べると派手さが抑えられ、船の中とは思えないほど清潔感がある。
部屋の中央にはベッドが二つ、サイドテーブルを挟んで並んでいる。ぴんと張られたシーツには一片の汚れもなく、ベッドメイクの仕上げとして空気を注入する工程があるのではないかと思うほど膨らんでいた。
陸側に窓がついていた。薄いレースのカーテンが引かれて、昼前の街並みが透けて見える。部屋に備え付けの専用のテラスがあり、鍵は大きく、頑丈だったが、出入りは自由に出来るようだった。
しばらく窓の外を眺めてから、ソファの端に荷物を下ろし、出入り口の手前にあるユニット・バスを覗き込んでいると、突然、部屋の扉がノックされた。
おそるおそるドアスコープに顔を近づけると、部屋の前に立っている史岐の姿が見えた。
半ば呆れながら、利玖は扉を開ける。
「カードキー、もう失くしたんですか?」
史岐は無言で左手を掲げる。
指の間に、部屋番号の書かれたカードキーが挟まっていた。
「なんだ、あるじゃないですか」
「だからって勝手に入るのはどうなのかな、と」
「ノックされる方が身構えます」
「うーん……」史岐は首をひねりながら部屋に入ってきた。「それもそうか」
タオルや石鹸は部屋に用意されているので、着替えと貴重品だけを持ち込めば良い、と聞かされていたので、史岐も利玖も、荷物はリュックサック一つで済んだ。
しかし、史岐の背中にはそれとは別に、車中では見かけなかった荷物が一つ増えている。上下をぎゅっと絞った布袋のような物で、何が詰まっているのか、はち切れそうなほど膨らんで、形はほとんど円柱状だった。
「それ、何ですか?」
問うと、史岐はちらっと背中に目をやって、
「寝袋」
と答えた。
「寝袋?」思わず、利玖は史岐の言葉をくり返す。「どうしてまた、そんな物を」
「あの車、キャンプの道具が積んであるからね」
「答えになっていませんよ」
利玖の言葉を無視して、史岐はソファに座り込んだ。
そのまま黙りを決め込んで追求を逃れるつもりだったのかもしれないが、彼のようなお人好しが、いつまでもそんな薄情を貫き通せる訳もなく、いくらもしないうちに、気まずそうに紐をずらして寝袋を体の前に持ってきた。
「僕らぐらいの歳の男女が二人きりで同じ部屋に泊まるっていうのは、やっぱり、まずいでしょ」
「まずくない年齢ってあるんですか?」
「…………」
「仮に寝袋を使ったとしても、ご覧の通り、仕切りのない部屋ですから、あまり意味がないと思いますが」
史岐は天井を仰いだ。
わずかに開いた唇から、言葉の代わりにため息が漏れる。
利玖は、化粧台の椅子をソファの前に移動させて、史岐と向かい合った。
「気を遣っていただいた事には感謝します。しかし、史岐さんの入った寝袋が足元に転がっていたのでは、こちらもおちおち安心して眠っていられません」
「……本っ当に、あいつは……」
ありったけの憎しみを込めて、史岐は呟いたが、美蕗への恨み言はそれきり、あとは続かなかった。
港に着く前に買っていた缶コーヒーを荷物の中から掘り出して飲み始める頃には、史岐の顔からはあらかた毒気が抜けていた。
「まあ、利玖ちゃんが気にしないなら、いいか」
「これから二十時間近く、ずっと海上にいるという特殊な環境ですから、不測の事態に備えて安全を確保する為にも、見知った相手と行動を共にするというのは理に適っていると思います」
「賛成」
「では、ベッドで寝てくれますね?」
史岐は苦笑する。
「安全の為です」
だめ押しで利玖が付け加えて、ようやく、史岐は肩から寝袋の紐を下ろした。
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