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2話
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「という訳で、今日ここにいる次第なんだけど」 半地下の喫茶店で起きた一部始終を話し終えて、寛奈は息をつく。「どう思う?」
「ザッハトルテはウィーン発祥のお菓子。もちろんウィンナ・コーヒーも。故郷が同じだから、お揃いって言いたかったんじゃない?」
「え、そうなの?」驚いた拍子に目を開けそうになったが、すんでの所で堪える。まだアイ・メイクをしてもらっている途中なのだ。「じゃなくて、まずいでしょ、一日、二人きりは」
「大丈夫。このアイシャドウは下地とツー・イン・ワンになっていて、保湿成分も入ってる。今塗っても夕方までよれないし、アイシャドウの色も綺麗に見せてくれる」
「そんなに良いものを使ってくれなくて、いいよう……」
「駄目。うちに来てもらったからには、なおざりなメイクのまま送り出したりなんて、絶対にしないから」
美蕗とザッハトルテを食べてからちょうど一週間。寛奈は同級生の菅生緋美のアパートでメイクの手ほどきを受けている。
手ほどきを受ける、という表現は適切ではないかもしれない。いくつかの色を選び、いくつかの質問に答えはしたものの、あとはじっと椅子に座っているだけで、何もかも緋美がやってくれているからだ。
今日は土曜日で、大学の講義もない。昼食を一緒に食べるので、十時半に史岐が車で迎えに来てくれる事になっている。
しかし、待ち合わせ場所は寛奈の自宅ではなく、緋美のアパート前に変えてもらった。何しろ寛奈が借りているアパートは笑ってしまうくらい、ぼろい。その上、軽自動車同士がすれ違うのもぎりぎりなほど狭い路地の突き当たりにある。車で来て、同じ道を戻るだけでも一苦労なのだ。そんな所まで史岐に来てもらうのは申し訳ない。
かといって、大学を待ち合わせ場所にしたら、週が明けた月曜日には名前も知らない女子生徒達の恨み辛みが鼠算式でどこまで増えているかわかったものではない。交際相手がいる史岐の自宅に赴くという選択肢は、初めからない。
そういった諸々の事情を加味した結果、比較的広い道路に面しており、駐車場も空いている緋美のアパートを待ち合わせ場所に使わせてもらう事にした。
史岐が来るのを一人で待っていたら緊張が練りに練られて何も喉を通らなくなりそうだからお喋りをして気を紛らわせたい、という思惑も少しはあったが、こんな事になるとは想定外である。めまぐるしく顔の表面を触られて、史岐の事を考える暇がない。結果オーライとはこういう事か、と感服していると、
「よし」と言って緋美が立ち上がる気配がした。「どうかな。ちょっと、鏡で見てみて」
寛奈は目を開ける。ドレッサの正面に座っているので、そうするだけで自分の顔を正面から見る事が出来た。
「わ!」思わず感嘆の声を上げる。「すごい、これ、ファンデーションも塗ったんだよね? こんなに自然な白さが出せるんだ。自分でやると、なんか濃くなっちゃうんだよなあ」
「寛奈は元々色が白いし、肌の透明感が高いからね。前からずっと、ラベンダーの下地を使ってみたいと思ってたんだ。うん、ちょうど春になる所だし、上手く合わせられたんじゃないかな」
「ラベンダーが入ってるの?」
「色がね」
「あぁ……」寛奈は曖昧に笑いながら辺りを見回して、淡いパープルの小瓶を見つける。
「これ、限定品? わたしでも買えるかな」
「買えると思うよ。たぶん、寛奈が思ってるよりもたくさんのブランドから出てる」緋美はドレッサに手をかけて、鏡越しに寛奈に向かって微笑みかけた。「気に入ったなら、今度一緒に見に行こうか。寛奈の財布とも相談して、使いやすいのを選んであげる」
寛奈は「わあい」と両手を上げて喜びを伝えようとしたが、ふと、ある事に気が付いて肩をすぼめた。
「ごめんね。こんなに色々とやってくれると思わなかったから、わたし、適当な服で来ちゃった。メイクを考えるの、大変だったでしょ?」
「そんな事ない」緋美は首を振る。「寛奈は、素材が良いもの。もちろん、トータル・コーディネートだって喜んで引き受けるけどね。だけど、今日は一緒に食事もするんでしょう? それなら、服も靴も、体に馴染んだものの方が良いよ」
そう言ってから、緋美はクローゼットを見て「まあ、でも」と付け加える。
「口出しをしても良いなら、そうだね、コートだけでも変えさせてもらえると……」
「あ、それくらいなら大丈夫」寛奈は笑って、ぺこんと頭を下げる。「よろしくお願いします」
「よし。任せとき」
緋美は熱帯雨林のように衣類がぎゅうぎゅうにもつれ合っているクローゼットに入っていった。しばらく待ったが、出てこない。
ダンスサークルに所属している緋美のクローゼットは衣装置き場も兼ねている。選定には時間がかかるのだろう。
コートを見立ててもらう事になって、一旦は浮かび上がった気分が、空気の抜けた風船のように徐々にしぼんで降下していき、寛奈はドレッサに肘をついてもう一度、ごめんね、と呟いた。
「どうしたの?」緋美がクローゼットの中から顔を出す。「なんか、ブルーじゃない?」
「ここまで手を貸してもらったのに、わたし、今、後ろめたさでいっぱい」
「相手に、彼女がいるから?」
「うん」
「奪っちまいな、そんなもん」
「奪える訳なかろぉ!」
「今日、一緒に来たりして」
「わ、ちょっと急に、怖い事言わないでくれる?」寛奈はびくっとしたが、すぐに思い直して、はあ、とため息をつく。
「でも、それが一番良いよね。誤解される事もないし」
緋美が、ちらっと横目でこちらを見た。
「本当に、本気じゃないの?」
「違います」
寛奈はきっぱりと答えた。
熊野史岐って人の事が好きなんでしょう、と美蕗は言ったが、彼女が根本的な所で勘違いをしている可能性がある。
確かに、寛奈は初めてLilyのライブを見た時からずっと──それが史岐がボーカルを務めるバンドの名前だ──彼らのファンだし、それを隠している訳でもない。史岐の事も、すごく格好良いと思っている。だけど、それはチョコレートが好きとか、ユトリロの絵が好きとか、そういう「好き」であって、恋愛感情には到底なり得ないのだ。
学部も学年も違うから、普段は姿を見かける事もないし、自分から彼の目に触れようと行動した事もない。
「だから気乗りしないんだ」と話を聞き終えた緋美は言った。「相手の素性がよくわからないから」
「いやいや。まず第一は、交際相手がいるのにわたしと二人きりにさせるのが申し訳ないって事だからね」と前置きをして、
「でも、そうだね、半分くらいは、緋美の言う通りかも」と頷く。「だって、ステージで歌っている所しか見た事がないのに、今日いきなり二人でごはんを食べるんだよ。何を話したら良いの?」
緋美は肩をすくめ、
「今からでも断ったら」
と軽く言う。
「えぇ……」
寛奈が唇を尖らせて抵抗感をあらわにしていると、外から切れの良いエンジン音が響いてきた。
二人は顔を見合わせて、窓際に駆け寄る。カーテンの隙間から外を覗き見ると、ツーシータのスポーツカーが駐車場に入ってくる所だった。車体の色は、モスグリーン。
「ひゃあ」と寛奈は飛び上がった。「熊野先輩だ。どうしよう」
「喜んでるじゃん」
「え? そうかな」
「寛奈、聞いて」急に両肩を掴まれて、寛奈は至近距離で緋美と見つめ合った。「あんたが熊野史岐と丸一日、二人きりで過ごすっていうから、わたしなりに調べたの」
「何言ってるの?」
「前の彼女と別れた事は、確実。今、別の彼女がいる事も、ごく限られた人間しか知らないみたいだけど、ほぼ確実。あと、これは裏が取れなかったんだけど、不穏な噂もいくつか」
寛奈は笑みを消して、じっと友人を見つめた。
緋美は本来、こんな風に他人のプライバシィを探るような事はしない。むしろ、意識して距離を取っているように見える。その理由を饒舌に語る事もないけれど、寛奈は、きっとノイズになるから知りたくないのだろう、と思っている。
史岐がバンド活動に向ける熱と同じくらい、否、もっと熱いものを、緋美はダンスに注いでいる。
学業に勤しむ傍ら、アルバイトを掛け持ちして衣装代やレッスンの費用を稼ぎ、食事の管理やトレーニングも欠かさない。去年の学園祭でダンスサークルのメンバとしてステージに上がった時には、素人の寛奈が見ても頭一つ抜けたパフォーマンスを披露していた。
話した事もない上級生の裏の顔を調べる為に時間を割くのは、彼女にとっては大変な苦痛だっただろう。そう思うと、鼻の奥がつんと痛いような気さえした。何をそんなに真面目くさって、と茶化す事なんて、とても──。
「あと、軽く尾行もしたんだけど」
「軽く尾行って何?」思わず突っ込んでしまった。「緋美、地味に凡庸に印象に残らないように、なんて、一番苦手でしょ」
「そういうドレスコードだと思えばいける」
「はえぇ」
「総論。多少、経済力があり過ぎるけれど、女を道具扱いするような奴じゃない。むかっ腹立つような噂のほとんどは、一年以上前のものだね。うん、今は、紳士的と言って良いと思う」
「一年前はろくでなしだったかも、って事か……」
「一年あれば、どうにだって変わるよ。大学生なんかは、特にね」
どこかで一度経験してきたような事を言うなあと思いながら、寛奈は玄関に向かい、靴を履いた。緋美に背中を向けて、選んでもらったコートに袖を通す。
「うん、いいね」襟や袖の折り目を微調整して、緋美は微笑んだ。「嫌な思いをしたら、すぐに帰ってくるんだよ。わたしの部屋が燃えている事にして良いから」
「駄目だよ、住所がばれてるんだから、本当に一一九番されちゃうよ」
最後に、大切なオルゴールが入ったバッグを持ち、寛奈は玄関の脇に立てられた姿見に全身を映す。
緋美が腕によりを掛けて選んでくれただけの事はある。メイクとコートを変えただけなのに、今まで見てきたどんな自分の姿よりもいけている、と思えた。
「おしゃれってすごいんだねえ」
と言って、寛奈がその場でスピンをすると、緋美は両腕をまっすぐ前に振ってグッド・サインを出した。
「ザッハトルテはウィーン発祥のお菓子。もちろんウィンナ・コーヒーも。故郷が同じだから、お揃いって言いたかったんじゃない?」
「え、そうなの?」驚いた拍子に目を開けそうになったが、すんでの所で堪える。まだアイ・メイクをしてもらっている途中なのだ。「じゃなくて、まずいでしょ、一日、二人きりは」
「大丈夫。このアイシャドウは下地とツー・イン・ワンになっていて、保湿成分も入ってる。今塗っても夕方までよれないし、アイシャドウの色も綺麗に見せてくれる」
「そんなに良いものを使ってくれなくて、いいよう……」
「駄目。うちに来てもらったからには、なおざりなメイクのまま送り出したりなんて、絶対にしないから」
美蕗とザッハトルテを食べてからちょうど一週間。寛奈は同級生の菅生緋美のアパートでメイクの手ほどきを受けている。
手ほどきを受ける、という表現は適切ではないかもしれない。いくつかの色を選び、いくつかの質問に答えはしたものの、あとはじっと椅子に座っているだけで、何もかも緋美がやってくれているからだ。
今日は土曜日で、大学の講義もない。昼食を一緒に食べるので、十時半に史岐が車で迎えに来てくれる事になっている。
しかし、待ち合わせ場所は寛奈の自宅ではなく、緋美のアパート前に変えてもらった。何しろ寛奈が借りているアパートは笑ってしまうくらい、ぼろい。その上、軽自動車同士がすれ違うのもぎりぎりなほど狭い路地の突き当たりにある。車で来て、同じ道を戻るだけでも一苦労なのだ。そんな所まで史岐に来てもらうのは申し訳ない。
かといって、大学を待ち合わせ場所にしたら、週が明けた月曜日には名前も知らない女子生徒達の恨み辛みが鼠算式でどこまで増えているかわかったものではない。交際相手がいる史岐の自宅に赴くという選択肢は、初めからない。
そういった諸々の事情を加味した結果、比較的広い道路に面しており、駐車場も空いている緋美のアパートを待ち合わせ場所に使わせてもらう事にした。
史岐が来るのを一人で待っていたら緊張が練りに練られて何も喉を通らなくなりそうだからお喋りをして気を紛らわせたい、という思惑も少しはあったが、こんな事になるとは想定外である。めまぐるしく顔の表面を触られて、史岐の事を考える暇がない。結果オーライとはこういう事か、と感服していると、
「よし」と言って緋美が立ち上がる気配がした。「どうかな。ちょっと、鏡で見てみて」
寛奈は目を開ける。ドレッサの正面に座っているので、そうするだけで自分の顔を正面から見る事が出来た。
「わ!」思わず感嘆の声を上げる。「すごい、これ、ファンデーションも塗ったんだよね? こんなに自然な白さが出せるんだ。自分でやると、なんか濃くなっちゃうんだよなあ」
「寛奈は元々色が白いし、肌の透明感が高いからね。前からずっと、ラベンダーの下地を使ってみたいと思ってたんだ。うん、ちょうど春になる所だし、上手く合わせられたんじゃないかな」
「ラベンダーが入ってるの?」
「色がね」
「あぁ……」寛奈は曖昧に笑いながら辺りを見回して、淡いパープルの小瓶を見つける。
「これ、限定品? わたしでも買えるかな」
「買えると思うよ。たぶん、寛奈が思ってるよりもたくさんのブランドから出てる」緋美はドレッサに手をかけて、鏡越しに寛奈に向かって微笑みかけた。「気に入ったなら、今度一緒に見に行こうか。寛奈の財布とも相談して、使いやすいのを選んであげる」
寛奈は「わあい」と両手を上げて喜びを伝えようとしたが、ふと、ある事に気が付いて肩をすぼめた。
「ごめんね。こんなに色々とやってくれると思わなかったから、わたし、適当な服で来ちゃった。メイクを考えるの、大変だったでしょ?」
「そんな事ない」緋美は首を振る。「寛奈は、素材が良いもの。もちろん、トータル・コーディネートだって喜んで引き受けるけどね。だけど、今日は一緒に食事もするんでしょう? それなら、服も靴も、体に馴染んだものの方が良いよ」
そう言ってから、緋美はクローゼットを見て「まあ、でも」と付け加える。
「口出しをしても良いなら、そうだね、コートだけでも変えさせてもらえると……」
「あ、それくらいなら大丈夫」寛奈は笑って、ぺこんと頭を下げる。「よろしくお願いします」
「よし。任せとき」
緋美は熱帯雨林のように衣類がぎゅうぎゅうにもつれ合っているクローゼットに入っていった。しばらく待ったが、出てこない。
ダンスサークルに所属している緋美のクローゼットは衣装置き場も兼ねている。選定には時間がかかるのだろう。
コートを見立ててもらう事になって、一旦は浮かび上がった気分が、空気の抜けた風船のように徐々にしぼんで降下していき、寛奈はドレッサに肘をついてもう一度、ごめんね、と呟いた。
「どうしたの?」緋美がクローゼットの中から顔を出す。「なんか、ブルーじゃない?」
「ここまで手を貸してもらったのに、わたし、今、後ろめたさでいっぱい」
「相手に、彼女がいるから?」
「うん」
「奪っちまいな、そんなもん」
「奪える訳なかろぉ!」
「今日、一緒に来たりして」
「わ、ちょっと急に、怖い事言わないでくれる?」寛奈はびくっとしたが、すぐに思い直して、はあ、とため息をつく。
「でも、それが一番良いよね。誤解される事もないし」
緋美が、ちらっと横目でこちらを見た。
「本当に、本気じゃないの?」
「違います」
寛奈はきっぱりと答えた。
熊野史岐って人の事が好きなんでしょう、と美蕗は言ったが、彼女が根本的な所で勘違いをしている可能性がある。
確かに、寛奈は初めてLilyのライブを見た時からずっと──それが史岐がボーカルを務めるバンドの名前だ──彼らのファンだし、それを隠している訳でもない。史岐の事も、すごく格好良いと思っている。だけど、それはチョコレートが好きとか、ユトリロの絵が好きとか、そういう「好き」であって、恋愛感情には到底なり得ないのだ。
学部も学年も違うから、普段は姿を見かける事もないし、自分から彼の目に触れようと行動した事もない。
「だから気乗りしないんだ」と話を聞き終えた緋美は言った。「相手の素性がよくわからないから」
「いやいや。まず第一は、交際相手がいるのにわたしと二人きりにさせるのが申し訳ないって事だからね」と前置きをして、
「でも、そうだね、半分くらいは、緋美の言う通りかも」と頷く。「だって、ステージで歌っている所しか見た事がないのに、今日いきなり二人でごはんを食べるんだよ。何を話したら良いの?」
緋美は肩をすくめ、
「今からでも断ったら」
と軽く言う。
「えぇ……」
寛奈が唇を尖らせて抵抗感をあらわにしていると、外から切れの良いエンジン音が響いてきた。
二人は顔を見合わせて、窓際に駆け寄る。カーテンの隙間から外を覗き見ると、ツーシータのスポーツカーが駐車場に入ってくる所だった。車体の色は、モスグリーン。
「ひゃあ」と寛奈は飛び上がった。「熊野先輩だ。どうしよう」
「喜んでるじゃん」
「え? そうかな」
「寛奈、聞いて」急に両肩を掴まれて、寛奈は至近距離で緋美と見つめ合った。「あんたが熊野史岐と丸一日、二人きりで過ごすっていうから、わたしなりに調べたの」
「何言ってるの?」
「前の彼女と別れた事は、確実。今、別の彼女がいる事も、ごく限られた人間しか知らないみたいだけど、ほぼ確実。あと、これは裏が取れなかったんだけど、不穏な噂もいくつか」
寛奈は笑みを消して、じっと友人を見つめた。
緋美は本来、こんな風に他人のプライバシィを探るような事はしない。むしろ、意識して距離を取っているように見える。その理由を饒舌に語る事もないけれど、寛奈は、きっとノイズになるから知りたくないのだろう、と思っている。
史岐がバンド活動に向ける熱と同じくらい、否、もっと熱いものを、緋美はダンスに注いでいる。
学業に勤しむ傍ら、アルバイトを掛け持ちして衣装代やレッスンの費用を稼ぎ、食事の管理やトレーニングも欠かさない。去年の学園祭でダンスサークルのメンバとしてステージに上がった時には、素人の寛奈が見ても頭一つ抜けたパフォーマンスを披露していた。
話した事もない上級生の裏の顔を調べる為に時間を割くのは、彼女にとっては大変な苦痛だっただろう。そう思うと、鼻の奥がつんと痛いような気さえした。何をそんなに真面目くさって、と茶化す事なんて、とても──。
「あと、軽く尾行もしたんだけど」
「軽く尾行って何?」思わず突っ込んでしまった。「緋美、地味に凡庸に印象に残らないように、なんて、一番苦手でしょ」
「そういうドレスコードだと思えばいける」
「はえぇ」
「総論。多少、経済力があり過ぎるけれど、女を道具扱いするような奴じゃない。むかっ腹立つような噂のほとんどは、一年以上前のものだね。うん、今は、紳士的と言って良いと思う」
「一年前はろくでなしだったかも、って事か……」
「一年あれば、どうにだって変わるよ。大学生なんかは、特にね」
どこかで一度経験してきたような事を言うなあと思いながら、寛奈は玄関に向かい、靴を履いた。緋美に背中を向けて、選んでもらったコートに袖を通す。
「うん、いいね」襟や袖の折り目を微調整して、緋美は微笑んだ。「嫌な思いをしたら、すぐに帰ってくるんだよ。わたしの部屋が燃えている事にして良いから」
「駄目だよ、住所がばれてるんだから、本当に一一九番されちゃうよ」
最後に、大切なオルゴールが入ったバッグを持ち、寛奈は玄関の脇に立てられた姿見に全身を映す。
緋美が腕によりを掛けて選んでくれただけの事はある。メイクとコートを変えただけなのに、今まで見てきたどんな自分の姿よりもいけている、と思えた。
「おしゃれってすごいんだねえ」
と言って、寛奈がその場でスピンをすると、緋美は両腕をまっすぐ前に振ってグッド・サインを出した。
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