コンフィズリィを削って a carillonist

梅室しば

文字の大きさ
15 / 20

15話

しおりを挟む
 決して自分には知り得るはずのない記憶を見た。

 少女が紙に何かを描こうとして、長いこと悩んでいる。
 目の前にある池をじっと見つめた後、鉛筆を持ち、紙に近づけるが、先端が紙面に触れる直前で、それは糸が切れたように向きを変える。ずっとそのくり返しだった。紙にはまだ、線の一本も引かれていない。
 ため息が、彼女の胸から押し出される。
 手慰みにもぎ取られ、路傍でゆっくりと朽ちるのを待つ花のような後ろ姿だった。抗う力を失い、遣る瀬のない焦燥に包まれてもなお、一縷の美しさが宿っている。

 自分の顔が動くのがわかった。
 口の端を持ち上げる。
 わらったのだ。

 それは、厳密に言えば、寛奈自身の顔ではない。この日、この場所で、この光景を見ていた者の顔だ。

 疼くような期待で腹の奥が熱くなる。

 この娘は、きっと美味しくなるだろう。
 何も手を加えずに味わっても良いくらいの一級品だ。
 しかし、それでは勿体ない。

 可愛らしい兎をプレゼントしてあげよう、と思った。

 実際は、そんな言葉で表せるほど単純な思いではない。もっと複雑で、色々なものが沈殿し、濁った渦を生み出していたが、二十年と少し生きただけの凡庸な人間である寛奈には、この感情を欠片も理解する事が出来なかった。

 毛並みの綺麗な子兎が良いだろう。
 もちろん、人を怖がらない、元気の良いものを選ぶ。

 少女と──美蕗と、その子兎が、仲睦まじく遊んでいる所を想像する。
 それを壊した後の事も、想像する。
 波打ち際でぬるい潮水に全身を浸すような、昏い興奮がこみ上げた。彼は、そうして、幾人もの子どもの心に、一瞬の安らぎと、それを触媒にした深い傷を与えてきたのだ。

 自分の手から、子兎が放たれる。
 子兎はまっすぐに美蕗の元へ向かい、地べたに座っている彼女の腰の辺りに頭をすりつけた。
 美蕗は、驚いたような表情で振り向いたが、すぐに笑顔になる。細い指を伸ばし、くすぐるように子兎の喉を撫でた。
 子兎は、やがて、甘えるように美蕗のスカートにつかまって、膝に上ろうとした。
 しかし、そこには画板が乗せられたままだ。
 予備の紙がないのだろう。子兎が紙を踏んでしまう前に、美蕗は慌てた様子で画板を持ち上げ、脇へよけようとする。
 彼女はそこで、硬直した。

 美蕗の膝の上に乗った子兎は、何かの変化を感じ取ったように、上を向いて鼻をひくひくとさせている。

 美蕗は、前を向いたまま動かない。
 この位置からでは、まったく表情がわからない。

 それでも、画板を置き、ゆっくりとした手つきで子兎の背中を撫でている美蕗が、何を考えているのか、寛奈にはわかってしまった。

 彼には予想外の事だったようだ。
 美蕗が、服の中から取り出した、コンパクトのようなオルゴールの蓋を開き、その中に入っていた細く小さな銀色のもので子兎の首を刺した時、非常に大きな驚きの感情が伝わってきた。
 彼の眷属である兎は、普通の兎のように死ぬ事はない。だが、美蕗が何の躊躇いもなく、それを為そうとした事に、少なくない衝撃を覚えた。
 しかし、それもすぐに、魅力的な刺激へと転化する。
 何の気なしに口に含んだ林檎の中にたっぷりと蜜が詰まっていた時のような、少しの驚きと、それに続く果てしない期待、そして悦びに、躰が熱くなる。

 彼は、美蕗の前に姿を現した。
 子兎を指さして、それが自分の眷属である事、美蕗の行為の一部始終を見ていた事を伝える。

 鐘を叩くようなもの。
 これくらいの事で、壊れるとは思っていない。
 どんな音が返ってくるのか、確かめる為の手順だった。

──この異形は、本当に良く人間の子どもの心を見抜いている。

 事実、美蕗は、彼を見てもまったく驚かなかった。黒い瞳に怜悧な光を湛えて、無言でこちらを見つめている。眷属を餌として使うような心根を持っている事を、彼女もまた見抜いていたのだろう。
 最初、子兎を見て微笑んだのも、たぶん、作りもの。
 近くに飼い主がいて、自分はその人物に見られていると思ったのだ。しばらく、子兎を撫でながら周囲の気配を探り、誰もいない事を確かめた。
 まるっきり的外れではない。寛奈がやって来るまで、確かに、あの池のほとりに美蕗以外の人間はいなかった。

 考えをめぐらせる。
 どうしたら、この蜜をもっと甘く、複雑な香りに仕上げる事が出来るだろう?
 彼女が持っている針が、きっと、それを示すはずだ。

 それで何をしたのかと問うと、美蕗は、針を持っていない方の手の薬指を唇の下につけて、
『まったく苦しまずに死ねる、と聞いたのだけど、人で試す訳にいきませんから』
と答えた。

 彼女は、滔々と話を続ける。
 それを親から授かった事。
 いつか、それを使う日が来る事。
 だけど、その時までは、絶対に他の人に存在を知られてはならないと、きつく言いつけられている事。

 期待がさらに大きく膨らむ。
 この娘は、まじないか何かを生業にしている家の子どもなのだろう。穢れとも少し違う、業のようなものが、湖の底で永久に動かない骸のように、深く身の内に沈み込んでいる。
 少女が持っている針に手を伸ばす。
「だめよ」美蕗は、くすっと笑いながら身をよじった。「取っちゃだめ……」
 針をオルゴールに入れて、蓋を閉める。

 ああ、壊れている、と。
 彼と、寛奈の感情が、ひとつに重なった。

 しかし、彼は──ウタバチは、それこそが、自分が求めていた要素だと気づいた。
 真っ黒な腕がひゅるんと伸びて、オルゴールに触れる。
「きゃ」
 美蕗は、小さな声を上げてオルゴールを取り落とした。
 腕を通して、オルゴールに自分の力を注ぎ込む。それは、飴が焦げ付くようにオルゴールを覆い、がっちりと固めてしまった。
 自分が腕を引っ込めると、美蕗は手を伸ばし、オルゴールを拾い上げた。
 その時、蓋が開かない事に気づいたようだ。留め具を調べたり、こんこんと指で叩いたり、力任せに開けようとしたが、ごく短時間で諦めた。
「そう……。こうされるのが、一番困ると、お考えになったのね?」
 美蕗は再び笑い始めた。

 くすくすと、
 本当に可笑しそうに、片手で口元を隠し、
 それしか出来ない人形のように笑う。

 ウタバチは、もう笑っていない。

「惜しいわ。それでは、次善です。……ええ、確かに、この事態も十分迷惑です。どうしようかしら。針をなくしたと知られたら、次は、どんな罰を受けるの? また蔵に入るのかしら。前は、途中で食べものが傷んでしまって大変だったの。ええ、だから、次は初めからもらえないかもしれませんね。蔵の中に、何か、食べられるものがあるかしら?」
 美蕗はすうっと息を吸い込み、空を仰ぐ。
「でも、そんなの、今すぐに起こる事じゃありません。わたしがなぜ、こんな所まで来ているか、ご存じ? 絵を描く為です。それが出来なければ、帰れないの。外に出て、そこにあるモチーフで描く事に意味があるそうよ。全然理解出来ないわ」
 美蕗は、子兎を地面に下ろす。もはや自分の体を支える力すら失った子兎は、すぐに倒れそうになったので、美蕗は石を挟んで姿勢を保持させた。
「描き終わったらお呼びしますから、連れて帰ってくださる?」
 子兎の耳を綺麗に撫でつけながら、美蕗は言った。
「こんな所で、子兎が一匹だけ、怪我もないのに死んでいたら不自然だわ。どこかに運ばれて、検査にかけられてしまうかも。今は、わたし、それが一番困りますの」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、 軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。 言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。 ――そして初めて、夫は気づく。 自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。 一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、 「必要とされる存在」として歩き始めていた。 去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。 これは、失ってから愛に気づいた男と、 二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。 ――今さら、遅いのです。

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

処理中です...