コンフィズリィを削って a carillonist

梅室しば

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19話

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 音も温度も消えたような、極めて鈍い感度でしか世界を認識出来ない状態で歩き続け、着いた先は近代的な内装の洋室だった。壁紙もソファの色も白く、低いテーブルは、透きとおった天板が一点の曇りもなく磨き上げられている。同じように無色透明の灰皿が一つ、テーブルの中央に置かれていた。
 ソファの前で、肩を上から押されるようにして腰を下ろし、そこでようやく、目の前にいる人物の顔にピントが合った。
「柊牙……」
「大丈夫か」
 史岐は頷く。
 しかし、その後に言葉が続かない。
「ここは所謂、セーフティ・ハウスってとこでな」柊牙は立ち上がり、部屋の中を見回した。「俺が自由に使って良いって事になってる。何か、飲みものでも作るか?」
「いや、あまり、酔いたくはないな……」そう言いかけたが、史岐は、自分の手が異様な震え方をしている事に気がついた。
「悪い。やっぱり、何か貰えるか。冷たいのが良い」
「わかった」
 柊牙はキッチンの奥へ姿を消す。
 彼が飲みものを用意している間に、史岐は二度ほど、煙草を吸おうと試みたが、どちらも箱から取り出す事すら出来ず、諦めた。
 史岐は煙草とライタをテーブルに置き、組んだ両手に額をつける。目を閉じると、薄氷を擦り合わせるような耳鳴りが頭の中で反響した。
 程なくして、足音がこちらに近づいてきて、透明な液体と氷が入ったグラスが手元に置かれる。それと同時に、さっき出しておいた煙草とライタが視界から消えた。
 くぐもった、軽い音がして、顔の前に何かを近づけられ、ようやく視線を上げると、柊牙が箱から一本だけ取り出した煙草をこちらに差し出していた。
 史岐は黙ってそれを引き抜き、口に咥える。
 柊牙は続けて、ライタで火を点けようとしたが、それがなかなか上手くいかなかった。よく見ると、彼も、史岐ほどではないが、指先が小刻みに震えている。
 やがて、柊牙は「悪い」と言ってライタを置いた。
「お前の顔に火傷の痕でも残したら、一大事だからな……。ちょっと待ってくれるか」
 少しして、彼はまず自分の煙草に火を点ける。
 深々と煙を吸い込み、ゆっくりとそれを吐き出してから、史岐の煙草に火を点けた。テーブルの両端で向かい合った二つのグラスに入った飲みものは、誰からも手をつけられる事なく空調に温められ、角から溶け始めた氷が幾度か動いて小さな音を立てた。
 先に吸うのをやめたのは柊牙だった。
 灰皿に煙草を押しつけて火を消すと、グラスを取って中の液体を飲む。グラスの表面はすっかり結露していて、飲む度に滴がしたたり落ち、服に染みを作ったが、柊牙はそれに気づいてすらいないようだった。
 史岐が、ふっと息を漏らして笑うと、柊牙は驚いたようにグラスから口を離してこちらを見た。
「お前の方が参っているじゃないか」
「いや……」柊牙は強張った表情で首を振る。「近くで聞いていたのに、止められなかった責任が……」
「そんなものは、これで充分だ」史岐は煙草を手に持って、軽く掲げる。「おかげで、少し落ち着いたよ。正直……、さっきは頭に血が上って、何もまともに考えられなかったが」
 柊牙は、そうか、と言って、ようやくわずかに肩の力を抜いた。
 史岐は再び煙草を口に持っていき、煙を吸い込んで、倍以上の時間をかけてそれを吐き出す。
 同じ事を、もう一度くり返したが、やはり、どうしても訊かずにはいられない、という結論に達した。
「美蕗に何があった?」
「はっきりと、どこかを境にして始まった事じゃない」柊牙も予想していたのだろう。すぐにそう答えた。
「ただ、喫茶ウェスタの一件以降、お嬢を見ていると、時々、あれっと思うような場面が増えた。
 コートにつける飾り玉の数が足りていないと聞いた時、ちょうど良いものがある、と言って、蔵から古い数珠を取り出してくると、裁ち鋏で紐を切って主玉おもだまを差し出した。
 用事があって、二人で音楽室に行った時、ピアノの上に楽譜が広げてあったから、お嬢も弾くのかと訊いたら、すぐに座って弾き始めた。上手いもんだったよ。たぶん、一度も間違えなかったと思う。だけど、弾き終わって、良く楽譜を見たら、全然違う曲だった。俺は何も言わなかったけれど、お嬢は音楽室を出る直前で、何かに気づいたみたいに引き返して、楽譜をめくってさっき弾いた曲のページにしてから出て行った。
 贔屓にしているパティシエが、毎年、これくらいの時期に、カラメリゼを使ったケーキを送ってくれるんだが、お嬢はそれを皿に乗せて、一度は自室へ持っていったのに、すぐに皿を持ったまま戻ってきた。どうかしたのかと訊いたら、ケーキを食べようと思ったら、上にも皿が乗っている、しかも、とても薄くて脆い、硝子の皿で、つまんでよけようとしたけれど割ってしまった、危ないので、これは捨ててくれと、淡々と言った。
 初めは、一時的なものだろうと思ったよ。まだ十八にもならない子どもだし、こんなややこしい立場にいるなら尚更、不安定になる時期があってもおかしくないだろうってな。だけど、日に日にひどくなっていった」
銀箭ぎんせんの影響か?」
「その線でも、一応調べているが……」柊牙は言葉を濁す。
「それだけが原因というのは、ちょっと考えられない」史岐は腕組みをして言った。「あれくらいの怨みなら年がら年中買っているだろうし、本人も、複数の防衛策を講じているはずだ。あれは、もっと、何か……、内側から崩れている、自壊に近い。そんな印象を受ける」
「付き合いの長いお前の目にも、そう映るか」
 柊牙は苦笑する。
 そうして繕おうとすると、余計に彼の憔悴が際立った。
「柊牙」史岐はグラスをよけて、テーブルの上に身を乗り出す。「隠している事があるなら、全部話せ。あんな状態の美蕗を一人で抱え込んでおけると思うか?」
 柊牙は髪をかき上げ、しばらく目をつぶっていた。
 やがて、大きく息を吸い込んで目を開くと、抑えた声音で話し始めた。
「初めに、断っておきたい事がある。あの針に塗られた毒で、お前や佐倉川さんや、甘粕さんに危害が及ぶ事はない。俺に使われる事も、たぶんないだろう。あの毒で殺して良いのは槻本の一族だけと、厳しく使い道が決められているんだ。だから、美蕗のしでかした事は、本当に一大事だった。
 槻本家の核ともいえる『九番』と契約を交わすには、血の繋がった実の親を、二人とも、自らの手で殺している事が条件なんだ。代々『九番』を継いできた人間は、その条件を変えるのではなく、より苦痛の少ないやり方で完遂する方法を追い求めた」
「何を、馬鹿な……」最後まで黙って聞くつもりだったが、口を挟まずにはいられなかった。「家を継がせる度にそんな事をくり返していたら、いくら未知の毒だといったって、問題にならないはずがない」
「毎度、きっちり向かい合って事に臨んでいる訳じゃないだろうさ。早い段階で、産みの親と育ての親をすり替えて、赤の他人だと信じ込ませていたら? 彼らには、殺されるだけの理由があって、自分が手を下すのが正しい事なのだと、物心がつく前から擦り込むように聞かされて育っていたら? 殺す為に会う、その日まで、何の関わりもなかった者同士が起こした事件でも、百パーセントの確率で立件されると、お前、断言出来るか?」
「いや……、でも……」史岐は片手で顔を覆う。「やっぱり、無理だ。確かに槻本家は閉鎖的だが、外部との交流を一切断っている訳じゃない。美蕗は学校に通っていたし、僕みたいに、他所の家との交流もある。そもそも、近親婚でもしない限り、代替わりの数だけ外から新たな親族となる人間を迎え入れるんだ。家を守る為に、二人も殺さなければいけないのは、異常な事だと、気づかないまま育つのは不可能だ」
「だな」柊牙は自嘲するように笑った。
「俺もそう思うよ。実際の場面を見た訳でもねえしな……。ただ、『九番』の継承条件が親殺しである事は事実だし、槻本家が『九番』の力によって今の地位を築いた事も、お前もよく知っているだろうが、事実だ。
 たぶん、『九番』に適合する子どもは、槻本の一族か、それに近しい者の中からしか生まれないが、常に誰かが契約を交わしている訳じゃないんだろう。ひょっとしたら、『九番』に適合する子どもが生まれる事の方が稀で、実際に親殺しが行われた事例は数えるほどしかないのかもしれん」
「槻本の血を引いている必要はないんじゃないか?」
 史岐が言うと、柊牙は怪訝な顔つきで彼を見た。
「甘粕さんにも可能性があるから、あんな事を言ったんだろう?」
 重ねて訊くと、柊牙は、ああ、と言って肩を落とす。
 そして、しばらく黙った後、
「あれは、自分のスペアを作ろうとした訳じゃない」と言った。
「信じられんかもしれんがな、お嬢は、お前と佐倉川さんを守らせる最高の術者として、そういう子どもがいると良いと考えたんだ」
 史岐は絶句する。
 その間も、柊牙は続けた。
「本当だよ。こればっかりは、ここ数か月、お嬢を近くで見ていた俺の言い分を信じてもらうしかない。だけど、今日話した事の中で、一番確信を持って言える事だ。お嬢は、銀箭との因縁にけりを付ける為に、命を懸けて肉片を取ってきた佐倉川さんの姿を見て、真剣に、あの子を救いたいと考えた。その為に何が出来るか、何をすべきか。考えて、考え続けて……。そして、槻本美蕗として振る舞う為に供与されている分を超えてしまった」
 柊牙はグラスを傾けて、もう何も飲むものがない事に気づくと、手掴みで氷を一つ取って口に放り込んだ。
「お前が、佐倉川さん以外の相手にそういう気を起こす訳がない。お互い学生同士で、昨日会うまで話した事もなかったお前と甘粕さんの間に、すんなり子どもが生まれる訳がない。仮に、それを成し得たとして、その子が術者として使えるようになるまでの間はどうするつもりなんだ? 銀箭が待ってくれるはずもない。たかが二、三年の我慢で、どうにかなる話でもない。お嬢を含めた全員が、人間の躰で、年を取るんだ……」氷を噛み砕く音が虚ろに部屋に響く。「本当に、ついさっきまでは、俺だってお嬢もそんな事、当然、わかっているもんだと思っていたよ」
「美蕗の両親は、まだ生きている」史岐は呟く。
「ああ」柊牙も頷いた。「もう、廃人同然らしいがな。『九番』を継いだ子を遺して、夫婦揃って死ぬのは、この家じゃ最上の名誉だ。派手な葬式をやる為だけに動く班が、この家にはあるんだぜ。そこが何の動きも見せていないって事は、一応、まだ生きている事は確かなんだろう」柊牙は、史岐に目をやる。「葬式をやるってなったら、そっちの家にも、報せがいくだろうしな」
 黙り込んだ史岐を見て、柊牙は遠くを見るように、ソファの背にもたれかかって脚を組み、
「お前の考えている事、わかるよ」
と言った。
「お嬢の両親は生きている。だとすれば、『九番』はまだ、少なくとも完全な形では継承されていない。だが、今のお嬢は、紛れもない人外の力を持っていて、かつて自分が大切にしていたオルゴールの事を覚えていない。そして、自分以外の人間を救う為に、あらゆる方法を使おうと考え続けた結果、メモリを使い切るように思考の破綻を引き起こした」
 柊牙は一瞬、息を詰めた。
「今、お嬢の中にいるのは、誰だ?」
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