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二章 古本を蒐集する妖

何もいない訳がない

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 縁側を離れ、柊牙の部屋に向かいながら、自分もキャリーケースを開けてくだんの学術書を出してくるべきだろうか、と悩んだ。
 一泊するのだから、どこかで二人きりになって渡せる機会があるだろうと楽観的に考えていたが、いざ招き入れてもらうと、利玖は主催者側の人間として休む間もなくきびきびと働き、自分はなまじ大学でもつき合いのある柊牙と一緒に来てしまった事で、彼と一括りにされて客人扱いされている。もてなす側ともてなされる側の間には、それなりに硬い仕切りがあって、容易に飛び越えるのは難しい事のように思われた。
 佐倉川家の人間はまだ誰も風呂を使っていないはずだから、年越し蕎麦を食べた後、風呂や就寝の順番が上手く噛み合ってくれたら、利玖と二人だけになる瞬間があるかもしれないが、そんな奇跡的な確率に成否を賭けるわけにもいかない。
 そもそも、大判の本が入った贈呈用の紙袋などという代物を居間に持ち込んだら、利玖よりも先に柊牙が気づいて、あの手この手で、喋りたくない心情を聞き出そうとしてくるに決まっている。
──大人しく、頼まれた物だけを取ってくるか。
 そう思いながら角を曲がって、短い廊下に出た。
 奥にある突き当たりまで五メートルほどの長さで、行き詰まった所の壁には濃い色の木枠で額装された絵葉書が一枚掛かっている。右に曲がると、柊牙と自分にそれぞれ一部屋ずつ貸し与えられた客間がある。
 初めのうちは絵葉書を見ながら歩いていたが、史岐は途中で何気なく、その視線を床面の方へずらした。

 擦り切れた着物の裾から出た骨と皮だけの裸足が、きぃ、と床を踏んで、客間のある右側の通路の方へ消えていくのが見えた。

 思わず立ち止まった。
 一瞬、別海が寝間着姿で通りがかったのかと思ったが、その影は幻灯のようにほの暗く霞んだ印象だけを残して完全に気配を消してしまった。
 どこか錆び付いているような、酸っぱい臭いが辺りに漂っている。
 佐倉川邸に来てからは、水場でさえ、こんな胸のわるくなるような臭いは嗅いだ事がなかった。──たぶん、人間が発するものではない。
 手のひらで顔をぬぐうようにして、さり気なく鼻を押さえながら、史岐は再び廊下を進み始めた。
(何もいない訳がない、か……)
 突き当たりの二歩ほど手前で立ち止まる。その位置からだと、影が向かった通路の先はほとんど見通せない。
 例の、つごもりさんとかいう妖だろうか。
 否、おそらく違う。利玖から聞いた蔵の位置は敷地の反対側で、彼に渡す本はそちらに集められている。
 それに、つごもりさんは屋敷の中には入ってきた事がない、と真波が話していた。家というのは、妖や魍魎もうりょうの類にとって、人間が思っている以上に強固な仕切りで、家の中に入ってこないという習性を持つ妖は、よほどの事がない限り、そのことわりをねじ曲げたりはしない。
 史岐は顎をさすりながら、右手の暗がりを透かし見た。
 影は、柊牙と史岐の部屋がある方へ向かっていた。この先は行き止まりで、外に通じる出入口もない。向こうが壁をすり抜けでもして都合良く外へ出てくれていれば良いものの、そうでなければ鉢合わせになってしまうだろう。
 思案した末に、史岐は、ふっと息をついて踵を返した。
 あの影からは、ただひたすらに、押し殺したような静けさだけが伝わってきた。ヒトを喰って生きている妖は、ああいう気配を持たない。
 それでも、野生の獣と同じで、うっかり出くわして驚かせた拍子に身を守ろうとする本能で襲いかかってくる事はある。この家で、自分が揉め事の原因を作りたくはなかった。
 幸い、柊牙は、この手の変事には慣れている。今見たものをありのまま話すだけで、詩集を取って来られなかった事情も汲んでくれるだろう。
 立ち尽くしている間に冷えた体をさすりながら、史岐は、ぽつぽつと居間に戻る道程みちのりを歩いて行った。
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