煙みたいに残る Smoldering

梅室しば

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三章 人面の鹿神

匠達の推察

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 匠がどこからともなく取り出した三つ目の湯呑みに茶を注ぎ終える頃、部屋の扉が、外からごく控えめに叩かれた。
「どうぞ」
 匠が応じると、おそるおそる扉を開けて、史岐が入ってきた。
 張りつめた面持ちをしていた史岐は、座布団に正座していられるほど体調の良くなった利玖を見て、ほっと眉を開いた。
「汐子さん、ちゃんと帰れた?」匠が部屋の中に史岐を招き入れながら訊いた。
「はい。……といっても、僕が送っていけるのは女子棟の入り口までですけど」
「当たり前だね」
 史岐が席に着くと、匠は彼に湯呑みを渡しながら、
「何だと思う?」
と訊ねた。
「土地神でしょう」史岐も、間を置かずにそう答える。「獣の体に、ヒトの一部。この辺りではよく見かける部類です。汐子さんが縞狩高原に来てから積極的に干渉するようになったのも、それで筋が通る」
「撥ねられたのを恨んでいるのでしょうか?」
 利玖が訊ねると、史岐は「いや……」と首をひねった。
「たぶん、違うな。僕には、どちらかというと執着しているように見える」史岐は茶をひと口飲み、熱さに面食らったように首をすくめた。「並の土地神なら、自分の手の届く所にいる人間ひとりたたり殺すぐらい造作もない。それをせずに、ただ気配をちらつかせて脅かすだけで、直接危害を加えてくる気配がないっていうのは──」
「畏敬と恐怖を取り違えているね」匠が史岐の言葉を引き取った。
「長く忘れられていたんだろう。自分の姿を見る事の出来る人間が現れた、それだけでも至福の思いだろうに、汐子さんは土地神に対して、恐れと罪悪感を抱いている。それはかつて、彼が真に神として崇められていた頃に向けられた感情に近いんだろう。信仰とは似て非なるものだけど、縞狩高原がリゾートとして開発されたのは昭和中期だと聞くから、その頃から人との関わりが絶たれていたのだとすれば、分別を失くしていてもおかしくない」
「殺しはしない。けど……」史岐の顔が曇った。「このまま黙って潟杜かたもりに帰すとも思えませんね」
「部員の車で帰るように言ってくれた?」
 急病人が出た場合に備えて、宴会が始まる前に、汐子が運転免許を持っている部員の中から数人を指名して、酒を飲まないように言いつけてあった。
「言いましたよ。でも……」
 史岐は、信じてもらえない事を承知の上で汐子にも土地神の話をしたが、彼女は「潟杜に帰った方がまだ危険は少ない」と聞かされて、逆に、
『わたしが潟杜に帰って、残った部員達に危険が及ばないという保証はありますか?』
と訊き返され、返答に詰まってしまった。そんな保証が史岐に出来るはずがない。
 答えあぐねている間に、
『遥もいますし、単独行動はしませんから』
と言って、汐子は部屋に戻ってしまったのだという。
「帰すなら、部長さんも一緒じゃないと」話を聞き終えた利玖は、慌てて発言した。「下見には彼も同行していますし、昼間の一件もあります。汐子さん共々、目をつけられている可能性が高いのでは?」
「それを知ったら、なおさら汐子さんは首を縦に振らないだろうね。部長とマネージャーが揃っていなくなったら、合宿を続ける事自体が難しくなる」
「なら、せめて何か起きないように、わたし達で見張るというのはどうでしょうか」
「無理だ」
 匠は、机に肘をついて身を乗り出しながら「あのね、利玖」と低い声で言った。
「今、僕らが話しているのは、何の確証もない推論なんだよ。だけど、よく知りもしない男連中に夜通し部屋の前に居座られたら、女子部員が気分を害するのは明白だ」
「だから、女子棟はわたしが見張れば……」
「駄目」
 匠と史岐が同時に言った。
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