煙みたいに残る Smoldering

梅室しば

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四章 史岐を縛るもの

最終話

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 カートンを自分の部屋に運び、しばらくぼんやりと眺めた後、外包装を剥いで一箱取り出し、史岐の部屋に向かった。
 体育館で稽古が行われているこの時間帯、宿舎は照明が消されて、窓際以外はひどく暗い。
 部屋の前に立ち、外から声を掛けてみたが、返ってきたのは寝言とも呻き声ともつかない不明瞭な声だった。
 そっと部屋に入り、物音を立てないように枕元に座って煙草の箱を開けた。
 史岐がいつも使っているライターが机の上にあったので、それを拝借しようとしたが、細く巻かれた白い紙のどちらの端に着火するのが正しいのかわからず、早速、利玖は途方に暮れた。
 箱をひっくり返して裏面を見てみたが、もちろん説明書きなどされていない。
 間違えたからといっていきなり爆発したりはしないだろう、と着火点の左右は問わない事にしたが、今度は、ライターを見て固まった。
 史岐のライターは、細かい溝が掘られた円盤状のやすりを内部の発火石と擦り合わせて火花を発生させるフリント式だったが、それは、利玖が初めて手に取る物だった。 
 史岐を起こして訊くのも気が引けて、悩んだ末に、利玖は、いったん部屋を出た。
 廊下を戻り、玄関から宿舎の外に出て、申し訳なく思いながら体育館にいる汐子に声をかけ、バーベキューで使う予定だったガスマッチの保管場所を教えてもらった。それを持って再び史岐の部屋に戻ると、こちらはレバーを引くだけで、簡単に口の先に小さく火が点いた。
 備え付けの灰皿に煙草を一本乗せて、ガスマッチで火をつけてから枕元に置くと、やがて、史岐が喉に何かがつかえているような息を漏らして、利玖を見た。
「……具合は、いかがですか」
 史岐は顔をしかめ、首を振る。
 それから煙草の箱を指さして「一本ちょうだい」と言った。
 煙草を咥えると、史岐は机に目をやって、それから利玖を見て何か言いかけた。おそらく、ライターがどこにあるか訊ねようとしたのだろうが、利玖が手にしているガスマッチを見るや、彼は、こらえ切れずに笑いを漏らした。
「利玖ちゃん、それ……、炭とかに火つけるやつでしょ」笑いながら、自分の声が響いて苦しんでいるように、頭を押さえている。「ああ、びっくりした。どこから持ってきたの?」
「剣道部の備品です」利玖は憮然として言い返しながら、ライターを史岐に差し出した。「使い方がよくわからないまま触って小火ぼやでも起こしたら大変でしょう」
「うん、そうだね……。その通りだ」
 史岐は、利玖の手からライターを受け取ろうとして、ふいに動きを止めた。
 そして、戸惑っている利玖の指をすくい上げると、しっかりライターを握らせて親指をやすりに導いた。
「そこから、鑢を下に押し込むみたいに回してみて」
 煙草を咥えた唇をライターに近づけて、史岐がささやく。
 利玖は驚いて、後ろに下がろうとしたが、うまく足に力が入らなかった。
「あの……、わたし、使い方が……」
「だから教えてる」そう言うと、史岐は指の位置を変えて、利玖の手ごとライターを握り込んだ。「こっちの方がやりやすい?」
 ひんやりと肌が吸いつくような彼の手ざわりが、その瞬間、体の芯にまで届いたような気がした。
 心臓が息苦しいほどに高鳴っている。
 史岐が静かにこちらを見つめている。それを、抗いようもなく意識してしまう。
 何度も瞬きをし、それから頭をひとつ振って、ようやく気を鎮めると、利玖は目の前のライターに意識を向けた。鑢は重かったが、発火石の摩擦で火花を発生させる事を意識しながら思い切って一気に擦ると、ぽつっとノズルに火が現れた。
「上出来」
 史岐は微笑み、ライターに煙草を近づけた。
 煙草の先に、波長の長い赤色の光が灯ると、史岐は時間をかけて煙を吸い、それから煙草を手に持ち替えて、ふっと煙を吐いた。
「ここにいる奴が好きな味なんだ」
 そう言って、煙草を持っていない方の手で自分の喉を指さした。
 今年の五月には、利玖の体の中にいた、目には見えない異質な生きものが、今は再び彼と一つになってそこにいる。
「そうやって『五十六番』を喜ばせていれば、家の繁栄にもいっそう寄与してくれるかもしれないと思いついた大昔の誰かさんが、馴染みのくすに頼んで作らせたのが始まりだと言われている。でも、その時には数日間一本も吸わずにいたって、宿主の体には大して影響がなかった」
「今の史岐さんとは、ずいぶん様子が違うように思えますが」
「これは、後になってから作られた、依存性を付け足した物だからね」
「え……、わざわざ、不便な物に作り替えたのですか?」
 史岐は、自嘲するように唇を歪めた。
「うん。何代か前、まだ煙草に依存性がなかった頃、当時の宿主がうっかり長いこと吸い忘れた時期があって、その間に『五十六番』が逃げ出して大騒ぎになったって……。そういうのを防ぐ為なんじゃないかって、言われているけどね」
「でも、今も昔も、煙草はある程度の年齢になっていなければ吸う事が出来ません。そんな物に頼るのは不確実です」
 史岐は間を置き、ぽつりと言った。
「だからこそ……、じゃないかな」
 灰皿を引き寄せ、煙草を叩いて灰を落とす。
「将来の事を考え始めるのって、そのぐらいの歳だから。自分がやりたい事は何なのか。向いている仕事は何なのか。本当は、どういう場所で、どんな風に生きたいのか」
 史岐が言外にほのめかしている、彼を縛る物の存在に気づいた瞬間、利玖は、かっと頭に血が上るのを感じた。
「依存性は、体に『五十六番』がいようがいまいが、関係なく残るのですか」
 史岐が顔を上げた。
 ぎゅっと唇を結んで怒りをこらえている利玖を見ると、彼は、なぜか頬をゆるめた。
「こんな物に頼らなくても済む方法を知っている人はいると思うよ。日に一度飲むだけでいい錠剤のような物が、もしかしたら、もう作られているかもしれないね。だけど、先代も、その前も、きっとそれを知りながらこの理不尽を受け継いできた。
 次の代に『五十六番』を渡してしまったら、自分は、ただの人間と変わらない。かつて特別な存在だったと思わせてくれるのは、この煙草だけなんだ。理不尽だけが、実感を伴って、自分達は選ばれた者だったのだという意識で繋いでくれる」
 史岐は、穏やかに瞬きをした。
「唯一の救いは、フィルタを通して吸わない限り、煙自体に害はない事。そばにいる人達を巻き込まずに済む」
「そんな事を気にしているんじゃありません」
 史岐の呼吸に合わせて、煙草の先の赤い光がゆっくりと点滅をくり返した。
「君に、そんな顔をされると」
 しばらくして、史岐はそうつぶやいたが、また黙り込んでしまった。
 続きが気になって、利玖は彼の顔を覗き込む。
「何ですか?」
「いや」史岐は微妙に視線を逸らした。「言ったら、絶対怒ると思うから」
「すでにこれ以上ないというくらい怒っています」
「うん……、でも、よりによって梓葉を呼んでもらった後だからな……」
「あの」
 我慢の限界にきた利玖の声が、はっきりと怒気を帯びた。
「どうか、はっきりとおっしゃってください。梓葉さんが何か関係あるのですか?」
 史岐は、煙を吸っているふりをしてなおも黙っていたが、いつまでも咥え煙草のままでいられるわけもなく、やがて煙がしみる目をぎゅっと細めて、咳き込むと、諦めたように口を開いた。
「そんな風に、自分の事みたいに怒ってもらえると」
 言い直した時には、少し表現が変わっていた。
「君のこと、抱きしめたくなる」
「構いませんよ、そんなの」
「ほら、そう言うでしょ……、えっ」
 利玖は、乱暴に目元を拭ってため息をつくと立ち上がった。
「起きられるようになったら、どうぞいらして下さい。午前いっぱいは待ちますから」
 それだけ言って、あとは振り返らずに広縁まで行き、後ろ手に障子を閉めた。


 部屋のカーテンは引かれていない。
 曇った窓がら越しに、雨とも霧ともつかない混濁した大気に包まれた森が見える。
 正方形の机を挟んで向かい合った椅子の片方に、利玖はすっぽりと体を埋めるように座った。

 縞狩高原に来てから、空はずっとぐずついている。
 一秒として同じ場所にとどまろうとしない流れの速い雲が高原を覆い、雨が降り始めたと思っても、屋根を打つ音に重みが出る前にかき消えてしまう。
 まるで、それが、世界に干渉する力を持たないまま生まれてきてしまった存在だったのだと教えるように。

(縞狩の主は……)
 もう、人間には興味をくしたか。
 それとも、自分をおそうやまう存在が現れるのを、今でも待ち続けているのだろうか。
 自分達が潟杜に帰った後も──いつか、途方もなく長い年月が過ぎ、人の訪れが絶えて、縞狩が本当に忘れ去られた土地になった後も、今日と変わらない姿のまま森を彷徨さまよっているのだろうか。
 史岐が差し出した、たった一本の煙草をよすがにして……。

 煙の匂いが少しだけ濃くなった。
 利玖はまだ、目をつむって、雨音に耳を澄まそうとしている。
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