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最終話
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この四日間にやって来たすべての客人が帰ったのを見届けると、藍以子は早速、台所の窓辺に風鈴をかけた。鉄製で、芯の通った綺麗な音が鳴る。見た目も慎ましくて、藍以子のお気に入りだった。
ウィークエンド・シトロンを作る時、彼女はいつも、この風鈴をかける。
食器棚から出した檸檬をシンクで洗っていると、誰かが台所に入ってきた。否、客人が残らず去った今、やって来る人間は一人しかいないのだ。
振り返り、食卓の椅子に兄が座っているのを確かめて、藍以子は微笑んだ。
普段は離れから出てこない兄が、藍以子がウィークエンド・シトロンを作る時には、必ず母屋の台所に来てくれる。特に何かするという訳でもないけれど、風鈴の音によって引き立てられる静けさの中で、兄と二人でいるだけで、彼女は完全に満たされた。
「兄さん、見て」藍以子は、檸檬と一緒に食器棚から出した洋酒の瓶を兄の前に置いた。「ちょっと奮発して、いつもと違うのを買ってみたの。こんなにたくさん、お菓子だけじゃ使い切れないかもしれないけれど、普通に飲んでも良いんだし、本の鑑定結果次第ではお金がもらえるんだから、良いよね」
兄は何も言わない。
いつもそうなのだ。
彼女はシンクに戻って、下ごしらえを再開する。
檸檬が新鮮なうちに作り始めたかったのに、なんだかんだと客が増えて時間を取られてしまった。萎びてしまったらどうしようかと不安だったけれど、幸い、ほとんど傷んでいない。
心置きなくウィークエンド・シトロンに向き合えるようになった今、彼女の心は、どんな行進曲よりも軽やかに弾んでいた。
「洋酒を変えるのって初めてだから、どんな味になるか楽しみだわ」彼女は手を動かしながら言う。
「君が作ってくれる、そのケーキが、現実の世界では一番好きだ」
この日の兄はいつになく饒舌だった。
藍以子が聞いた事のない話を、次から次へと披露してくれた。
「佐倉川家の長子……、警戒していたけれど、思っていたほどじゃなかったな。彼ぐらい頭の切れる人間でも、許嫁が伏せっているというのは、やはり、応えるのかね」
藍以子は相槌など打たない。
黙々と作業を進めながら、ただ、彼の声に耳を澄ませる。
「妹の方にもヒントを与えてみたけれど、大差なかったな。柘榴と似ている花を見て、ペルセポネーの話をしたけれど、それ以上の意味を読み取ろうともしなかった」
利玖の名前が出たので、気が変わった。
藍以子は手を拭いて、杏平の隣に腰かける。
「わたし、知らないわ」彼女は首をかしげた。「教えてくれる?」
「そもそも、あれが本当に儒艮だったのか、という事を、誰も疑わなかった。〈壺〉は海と繋がっていない。そこに棲めるとしたら、儒艮じゃない。海牛だ。外見にも違いがある。見たら、わかるんだよ。それなのに、うちに現れるのは儒艮だ」
「あ、わたし……」藍以子はいきなり指を鳴らした。「わかったわ。柘榴って、確か、人の肉の味がするんでしょう? 昔話で読んだ事がある」
兄の話を聞きながら、頭の片隅では、どうしても、自分は利玖とは違うのだ、という所を見せてやりたくて、必死に考えていたのだ。
兄は、こちらを見つめて微笑んだ。
その視線を感じるだけで、熱い手のひらで頬を包み込まれるような幸せが、苦しいほどの鼓動とともに体を満たすのを彼女は感じた。
「儒艮を食べるだなんてとんでもない、という考えは、近代に入ってからのものだよ。絶滅しそうだとわかって、慌てたんだ。昔は狩猟の対象だった。鹿や猪なんかと同じだね。そういう時代に、他に口に入るものがなくて、やむを得ず殺して食べたというのが、そんなに後ろめたい事だろうか?」
「言われてみれば、変ね」藍以子は頷く。
「本当は、人魚だったんじゃないかな。体の半分か、あるいは全部が人間だった。そのままの姿で〈壺〉に来られたら厄介だから、どこかの時点で、ジュゴンという動物を見間違えたのが人魚の発祥だと……、まあ、そういう説があるってだけなんだけど……、都合が良いから、教えたんじゃないかな。〈壺〉に来る時には、その姿で来るように頼んだんだ」
「もし、その通りだったとして、わたしと兄さんの暮らしに何か影響がある?」
「まったくない」
藍以子は、にっこりと笑って立ち上がった。
「それなら良いの」
ウィークエンド・シトロンを作る時、彼女はいつも、この風鈴をかける。
食器棚から出した檸檬をシンクで洗っていると、誰かが台所に入ってきた。否、客人が残らず去った今、やって来る人間は一人しかいないのだ。
振り返り、食卓の椅子に兄が座っているのを確かめて、藍以子は微笑んだ。
普段は離れから出てこない兄が、藍以子がウィークエンド・シトロンを作る時には、必ず母屋の台所に来てくれる。特に何かするという訳でもないけれど、風鈴の音によって引き立てられる静けさの中で、兄と二人でいるだけで、彼女は完全に満たされた。
「兄さん、見て」藍以子は、檸檬と一緒に食器棚から出した洋酒の瓶を兄の前に置いた。「ちょっと奮発して、いつもと違うのを買ってみたの。こんなにたくさん、お菓子だけじゃ使い切れないかもしれないけれど、普通に飲んでも良いんだし、本の鑑定結果次第ではお金がもらえるんだから、良いよね」
兄は何も言わない。
いつもそうなのだ。
彼女はシンクに戻って、下ごしらえを再開する。
檸檬が新鮮なうちに作り始めたかったのに、なんだかんだと客が増えて時間を取られてしまった。萎びてしまったらどうしようかと不安だったけれど、幸い、ほとんど傷んでいない。
心置きなくウィークエンド・シトロンに向き合えるようになった今、彼女の心は、どんな行進曲よりも軽やかに弾んでいた。
「洋酒を変えるのって初めてだから、どんな味になるか楽しみだわ」彼女は手を動かしながら言う。
「君が作ってくれる、そのケーキが、現実の世界では一番好きだ」
この日の兄はいつになく饒舌だった。
藍以子が聞いた事のない話を、次から次へと披露してくれた。
「佐倉川家の長子……、警戒していたけれど、思っていたほどじゃなかったな。彼ぐらい頭の切れる人間でも、許嫁が伏せっているというのは、やはり、応えるのかね」
藍以子は相槌など打たない。
黙々と作業を進めながら、ただ、彼の声に耳を澄ませる。
「妹の方にもヒントを与えてみたけれど、大差なかったな。柘榴と似ている花を見て、ペルセポネーの話をしたけれど、それ以上の意味を読み取ろうともしなかった」
利玖の名前が出たので、気が変わった。
藍以子は手を拭いて、杏平の隣に腰かける。
「わたし、知らないわ」彼女は首をかしげた。「教えてくれる?」
「そもそも、あれが本当に儒艮だったのか、という事を、誰も疑わなかった。〈壺〉は海と繋がっていない。そこに棲めるとしたら、儒艮じゃない。海牛だ。外見にも違いがある。見たら、わかるんだよ。それなのに、うちに現れるのは儒艮だ」
「あ、わたし……」藍以子はいきなり指を鳴らした。「わかったわ。柘榴って、確か、人の肉の味がするんでしょう? 昔話で読んだ事がある」
兄の話を聞きながら、頭の片隅では、どうしても、自分は利玖とは違うのだ、という所を見せてやりたくて、必死に考えていたのだ。
兄は、こちらを見つめて微笑んだ。
その視線を感じるだけで、熱い手のひらで頬を包み込まれるような幸せが、苦しいほどの鼓動とともに体を満たすのを彼女は感じた。
「儒艮を食べるだなんてとんでもない、という考えは、近代に入ってからのものだよ。絶滅しそうだとわかって、慌てたんだ。昔は狩猟の対象だった。鹿や猪なんかと同じだね。そういう時代に、他に口に入るものがなくて、やむを得ず殺して食べたというのが、そんなに後ろめたい事だろうか?」
「言われてみれば、変ね」藍以子は頷く。
「本当は、人魚だったんじゃないかな。体の半分か、あるいは全部が人間だった。そのままの姿で〈壺〉に来られたら厄介だから、どこかの時点で、ジュゴンという動物を見間違えたのが人魚の発祥だと……、まあ、そういう説があるってだけなんだけど……、都合が良いから、教えたんじゃないかな。〈壺〉に来る時には、その姿で来るように頼んだんだ」
「もし、その通りだったとして、わたしと兄さんの暮らしに何か影響がある?」
「まったくない」
藍以子は、にっこりと笑って立ち上がった。
「それなら良いの」
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