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第3章 離れてはいけないし、離れたくない
#35
しおりを挟む「そういうわけですみません、皆さん。私なんかの事情のために」
営業を終えた優子さんの店に行くと、優子さんはもちろん、珍しくニケさんと達月くんもいて結果的にいつものメンバーが全員集合していた。最近は、全員が集まるタイミングが多いから私も嬉しい。そんな場所に、今日は佳苗も合流した。緊張しているのか、肩の位置が上がっている佳苗を見るのは新鮮だ。
「とんでもない。佳苗さんも大切なここの常連さんですから」
「そうそう。みんなですごいアップルパイ作っちゃおうよ。晴樹さんの怪我が完治しちゃうぐらい美味しいやつ」
意気込む私がそう言うと、佳苗は体の力が抜けたのか肩の位置が元の位置に戻っていた。
「そんなの作れちゃったら逆に怖いって。シンプルに美味しいやつでね」
「日菜ちゃんが冗談を言う時はテンションが上がってる時、だったよね? 優子」
「そうそう。何ならここにいるみんな、テンション上がってるよ。ニケさんも、達月くんもね」
不意に優子さんから話を振られた達月くんは、相変わらず表情はなく、じっと優子さんの目を見つめて目を大きくしている。
「僕はいつも通りでしょ。何も変わらないよ」
「ふふ、私たちしか知らないキミの仕草があるんだよ。ね、ニケさん」
「うん。最近の達月はその仕草をよくするから僕たちも嬉しいよ」
「いや、本人がいちばん分からないから」
不思議そうに首を傾げる達月くんを見ていると私も微笑ましく思える。たまらず私の表情筋も緩んで自然と笑顔になる。
「ははは、まぁ何事も楽しむのが一番大切だからね。そろそろ始めようか」
「はい、よろしくお願いします」
「あ、佳苗さん」
「は、はい。何ですか?」
優子さんがニケさんと同じようにニヤニヤと笑いながら佳苗を見つめる。それから佳苗の顔の前で人差し指を交差させて、バツの字を作った。
「今から敬語禁止ね。私もニケさんも使わないから」
「そうそう。佳苗ももうここの大切な常連だからね」
佳苗を見つめながらそう言うと、佳苗は眉毛をひそめて腕を組んだ。長年、一緒にいて分かる。これは佳苗が嬉しそうにしている時だと。
「日菜はそれが言いたいだけでしょ。まだウチの店のスタッフだし。まぁでも敬語禁止はオッケー。ありがとう、じゃあ遠慮なく」
「うん、そうこなくちゃ」
「達月、人っていいものだろ」
「さぁ、どうだろうね」
達月くんとニケさんの意味深な会話が聞こえた気がしたけれど、それは聞こえていないことだと自分に言い聞かせて優子さんと佳苗と一緒にキッチンの方へ向かった。
✳︎
「うそ……。美味すぎ……」
「やばいね、これ……。ほんとに私たちが作ったの?」
口に入れた瞬間に訪れた幸福感に悶絶しながら私と佳苗は手元にあるアップルパイの一欠片を見つめる。佳苗も言ったけれど、本当にこれを私たちが作ったのだろうか。予め用意されていた優子さんとニケさんが作ったアップルパイではないだろうか。そう思えるほどの完成度があるアップルパイが大きな皿の上にバランスよく切り取られている。
「すっごい美味しいでしょ? ニケさんが厳選した地域の、とっても美味しいリンゴとね、当店自慢のマル秘蜂蜜ソースと、焼き上げる時に加えたひと手間がポイント。私たちも久々に作ったね、ニケさん」
目を合わせて笑い合う優子さんとニケさんは、まるで新婚のような雰囲気を醸し出している。それを見ていると、自然と私の顔も緩む。
「そうだね。焼き加減もちょうどいい感じで良かったね。これはスイーツ好きにはたまらないと思うよ。ホントにケガ治っちゃうかも」
「確かに。これは美味い。あぁ、違う。これも美味いだな」
「達月ぃー。嬉しいこと言ってくれるじゃんかぁ」
にへへとニケさんは特徴的な笑い声をあげてニケさんの方を見た。でも、確かにこのアップルパイを食べていると、怪我の治りがすごく早そうだし、そもそも丈夫な体になりそうな気もする。
「うん。甘いものは頭の回転が良くなる気がするから作業する前とかにこれがあってくれたら、すごい助かるかも」
「あはは。褒め方がやっぱり小説家って感じ」
「そんなつもりで言ってない」
「でもほんとに美味しい。優子さん、ニケさん。ほんとにありがとう。今日、ここでこのアップルパイを作れてよかったです。晴樹さんも絶対、喜んでくれると思います」
佳苗の自然な笑顔も久しぶりに見た。佳苗が誰かを想って、こんな素敵な笑顔になるなんて。失礼を承知で思うけれど、佳苗も成長しているんだと実感する。そして、私よりもずっと素敵な女の顔をしている。
「あ、なぜか敬語復活してる。そんなに固くならなくていいんだよ。僕らも楽しい時間を過ごすことが出来たしこんなに美味しいのを作ることが出来たんだし。何よりキミたちの楽しそうな顔が見ることが出来てよかったよ」
「……ふふ」
「どうしたの? 優子さん」
「ううん。ニケさんがあの人に似てきたなって思っただけ」
「あぁ……、今なら師匠の気持ちが少し分かる気がするよ。けど優子、僕と師匠は似てない」
「ふふ、相変わらず素直じゃないね」
やっぱり新婚のような、はたまたバカップルのような2人は感慨深そうな表情をして笑い合っている。
「師匠ってこの前ニケさんが話してくれたあの師匠?」
私がそう聞くと、ニケさんはゆっくりと首を縦に振った。そして、くしゃっと顔に皺を作って笑った。その目が滲んでいるように見えて、私はニケさんの目を二度見した。
「そうそう。普段はダル絡みばかりしてきたあの師匠だよ」
「師匠って呼び方、なんか斬新だね。その人、どんな人だったの?」
佳苗はニケさんの目元に気付いていないのか、私に続いて質問を続けていく。このままだとニケさん、泣いてしまうのではないか。私は、勝手にドキドキしている。
「あ、知りたい? 長くなるよ」
落ち着きを取り戻したのか、手元にあるアップルパイをつまみながらニケさんは佳苗に笑いかけた。
「うん。いいよ。このアップルパイを堪能しながら美味しいコーヒー飲みながらその話、聞きたい」
「美味しいコーヒーも頼んでるあたり、佳苗らしいよ」
「佳苗さん、いつもコーヒー頼んでくれるもんね」
そう言って笑いながら優子さんはキッチンの方へと歩いていく。
「ここのコーヒーは私の人生の中で3本の指に入る美味しさだから」
「僕はポジティブだから、その指の中でも一番最初の指にここのコーヒーを挙げてくれるって思ってるよ」
「さぁ、ニケさん、それはどうだろうね」
佳苗とニケさんのやりとりを見ていると、何だろう。あぁ、「人」っていいな。繋がりっていいな、そう思えてくる。自然と私も笑顔になる。こんな気持ちは、以前の私には絶対になかった。
「ニケさん、佳苗はこんな感じの子なんだ」
「いいね、仲良くなれそうだ」
「日菜、こんな感じはちょっと複雑な気持ちだよ、私」
いつものように顔をしかめて私を見つめる佳苗に、あははと笑って佳苗の肩に優しく両手を添えた。
「もちろん褒め言葉だよ」
「調子いいんだから」
「佳苗ちゃん、そういえば晴樹くんには次いつ会うの?」
「明日の午前中には病室に行く予定だよ」
「そっか。じゃあ保冷剤多めに渡しとくね。お家に着いたら冷蔵庫で保管してあげて。このアップルパイ、冷たくなった方がデザート感出て美味しいから」
「分かった。優子さん、色々とありがとう」
「優子さん、その食べ方、僕らが食べきる前に教えてほしかったかも」
「うん、達月くん、私も今そう思った」
えへへと照れたように笑う優子さんは顔を赤くして私たちの分のカップを取り出している。優子さんは、こういう仕草ひとつでもドキッとしてしまう。本人は自覚が無いのかもしれないけれど、凄まじい魅力だ。そして私は、すでにその魅力の虜になっている。
「あはは、ごめんごめん。次作った時はそうやって食べようか。日菜ちゃん、料理って楽しいでしょ?」
「うん、めちゃくちゃ楽しい! どんどん優子さんたちのレパートリー教えてほしい!」
「こんなに目を輝かせる日菜を見たのいつぶりだろうね。少なくともスポーツショップでは絶対に見せない笑顔だな」
「佳苗、うるさいよ」
「あ、今の言い方、昔のニケさんに似てたかも」
「人」との繋がりの大切さ。私はこの歳にして、ようやくそのことをこの人たちから学んでいる。ありがとう、佳苗。優子さん。ニケさん。そして、達月くん。私は心の中でみんなに感謝をしながら、この絶品のアップルパイに合うコーヒーをみんなと一緒に淹れた。私の好きなこの時間を、私は思う存分楽しみながら過ごした。
✳︎
私と佳苗以外には男性客しかいない大衆居酒屋。久しぶりにがっつりお酒を飲みながら、たこわさや軟骨の唐揚げでも食べようよと言った佳苗の提案に乗った私は、まずは挨拶代わりにビールで乾杯してそれを流し込んだ。喉越しの良さを感じるようになってきた辺り、私も少しずつ歳を重ねているんだと実感する。
「どうだった? 晴樹さん」
「泣いてた」
「え?」
みんなでアップルパイを作った日から1週間近く経ち、それを差し入れた佳苗からは、まだその後の話を聞けていなかった。酒を飲まないと出来ない話があるのかもしれないと、身構えていたところに佳苗から先制パンチを食らったように私は動揺した。
「美味すぎて泣けてきたって言ってた。びっくりしたよ。本当に涙流しててさ。初めての経験だって。美味しいもの食べて泣くって」
嬉しそうに話す佳苗を見て、私の心も少し落ち着いた。
「まぁ確かになかなか無さそうだけど。それだけ喜んでくれたんだ。良かったじゃん」
「うん。けど、今度は私だけで作ったアップルパイを食べたいって言われてさ。それは無理かもねって言ったらちょっと寂しそうな顔してた」
「そこは頑張ってあげなよ。晴樹さんもリハビリ頑張ってるんだから」
晴樹さんと佳苗の仲は順調そうで良かった。てっきり、良からぬ方向に話を進められてしまうのではと思っていた私は、かなり見当違いの心配をしていたようだった。
「まぁ気が向いたらね。頻繁に作ってあげてたら飽きちゃうかもしれないからさ。けど、ありがとう。日菜。あんなに嬉しそうにする晴樹さん見たの、なんか久しぶりだった」
「ううん。私は何もしてないよ。佳苗の気持ちが晴樹さんに届いてそうで私も自分のことのように嬉しいよ」
今日はお互い酒も箸も進む。気づかないうちに軟骨の唐揚げを食べ終え、ビールジョッキを1杯飲み終えた私は、追加のビールとキムチを店員さんに頼んだ。「今日はペース早いじゃん」と、佳苗に茶化された。
「そっちはどうなの?」
「え? 何が?」
私が目を見開くと、佳苗はため息を吐いてからその流れで手元のたこわさを口に入れた。
「達月くんだよ。好きじゃないの?」
あまりにもストレートな質問を聞き、私の脳内に実際に野球のボールが激突したぐらいの衝撃を受けた。
「い、いやいや! 私は今、それどころじゃないぐらい毎日忙しいから! それに達月くんだって今、仕事が大変そうだと思うし邪魔しちゃったら申し訳ない」
「ふーん。日菜は後悔とかしないの?」
「後悔?」
「あの時にああやってすれば良かったのにとか、あの時にああ言えば良かったのにとか。モヤモヤしたりしてないのかなって思って」
「それは確かに達月くんと一緒にいたら落ち着くし、もっと一緒にいたいなって思うことはあるけどさ」
「あるんじゃん」
私の手元に再びビールが届く。酔いで恥じらいを隠すように勢いよくビールを飲むと、ジョッキの半分ぐらいが私の体の中に入っていった。喉がすっきりしている私は、いつもより声が出しやすかった。
「達月くんとの今の関係を壊したくないって気持ちが強いんだよね」
「出た。そういうこと言う人。踏み込んだこと言って断られた時のこと、怖がってるんだ?」
佳苗も酔っているのか、頬がさっきよりも赤くなっている。そういうのに気がつくぐらいは私の頭もまだしっかりとした思考が伴っている。というよりまともに会話が出来ている辺り、まだまだ飲んでも大丈夫そうだ。
「まぁそれもあるけどさ。私はこの心地良い関係がちょうどいいなって思ったりするところもあるんだよね。お互いが少しだけ自分たちの生活の一部になってて。でも必要以上には近づかない。必要な時だけ時間を共有する。それでいいの」
私が今思っていることを素直に吐き出すように言うと、佳苗は何も言わずに両手を組んで私の目を見つめている。
「そうなんだ。じゃあこれは私の独り言だと思って聞いて」
「ん? うん。分かった」
「この前の達月くん、ニケさんと話してた時の日菜をガン見してた。彼の手が完全に止まってたぐらいじーって見てたよ。日菜は気づいてなかったと思うけどね」
それが何だと言うのだろう。佳苗は私に何を伝えたいのだろう。さっきまでの冷静な判断が何故か出来なくなっている。
「う、うん。今そう聞くまで全然分からなかった。でも、それが何?」
「日菜はいつまでも鈍感だからね、そういうところ。多分、優子さんもニケさんも達月くんがどう思ってるか知ってると思うけど」
人が何を考えているのかなんて分かるはずがない。ましてや感情が表に出にくい達月くんだ。佳苗が達月くんの何かに勘づいているのかは分からないけれど、期待をしすぎることは良くない気がして、普段通りの達月くんを想像する。
「た、達月くんもさ、何も言わないけど、私とは今の関係が好きな気がするんだよね。私と似てるところも結構多いし」
「自分と似てる人なんてそうそういないんだよ。日菜、本当に今のままでいいの?」
いくら酒を飲んでも酔いが回らない。佳苗の真剣な表情から私も目を離すことが出来ない。そして、こんなに真剣に私と達月くんのことを考えてくれていることに嬉しくて体全体が熱くなる。
「……」
「何?」
「佳苗も晴樹さんに似てきたのかなって思えた。前はこんなにアツイことを言ってくれる人じゃなかったよなーって思って」
佳苗の真面目な眼差しと声は、酒が入っていても私の達月くんのことを真剣に考えてくれているんだと、ひしひしと伝わってきた。
「私は親友として思ったことを言っただけ。全然独り言じゃなかったけどね」
「あはは。確かに。普通に会話してたもんね」
「まぁ私がこれ以上言うのも違う気がするからこれ以上は何も言わない。あとは日菜がどう動くか。まぁ動かないっていう選択肢もあるのかもしれないけど」
佳苗の真剣な声を聞いた私は、以前とは違う気持ちが心の中にできたことを自分で感じた。そしてその気持ちを、近いうちに達月くん本人にも伝えたいと思うようになった。
「ありがとう。私なりに考えてみるよ。私、やっぱり佳苗が好きだな」
「私も日菜が好きだよ」
ここだけ聞いていると、出来立てホヤホヤのバカップルみたいな会話だ。けれど、それくらい単純に私は佳苗のことが好きだ。うん、大好きだ。
「じゃあ私たちがくっついちゃう?」
冗談混じりで私が2杯目のビールを飲み干してからそう言うと、佳苗はへへへと満更でもなさそうに笑った。
「あ、でも最近は晴樹さんも好きだからなぁ」
「あはは。浮気者だ」
「潔いでしょ? 誰かさんと違って」
「佳苗うるさい」
私は3杯目のビールを、佳苗は梅酒のロックを店員に頼んでから全く同じタイミングでたこわさに箸を伸ばした。それが当たりそうになった瞬間、お互いが手を止めて目が合った。それと同時に全く同じタイミングでくしゃっと笑顔になった。店内では私の好きなバンドの新曲であるバラードが、大きめの音量で流れていた。
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