侍と音楽

内川気分

文字の大きさ
上 下
1 / 1

侍と音楽

しおりを挟む
   侍と音楽
       
 枯葉を踏む音がよく聞こえる。音とは自分が意識して聞き取ろうと意識する音以外耳には入って来ないそうだ。
 この時代、ビルやアスファルトやコンクリートなどはない。地面は土だ。
 侍が歩いている。侍と言っても浪人でヒゲを生やして髪は総髪でまとめている。眼は大きく眉毛は濃い。外見からして強そうな剣客に見える。けれども、もう平和が長く続き刀の腕があっても運がよくないと食べて行くには大変なのである。
 誰かの足が見えた。倒れているのが分る。けれど何かが違う。侍は刀を意識しながら足の方に近づく。やはり人が倒れているのだけれど何かが違う。足は草履ではない。裸足でもない。ヒモがついていて布で足全部が覆われている履物を履いている。着物ではなく群青色の細い袴のような物を履いている。所謂スニーカーにジーンズにシャツだ。西の方では外国人と貿易をしていて外国人を見た人から聞くと眼の玉は青く髪は金色でとにかくでかいそうだ。でも、外国人ではない。髪も瞳も黒いのだ。でも足は長い。長い間旅を続けているけれどこういう人間に出会ったのは初めてだ。髭ははやしていないけれど耳から細い線が伸びている。十字架の首飾りだろうか? 見つかれば死罪である。
「あんた、侍か? 」と男は眼を開けて眼の玉を動かして侍の方を見て言った。
「うむ、そうだか? 大丈夫か」
「いや、もうおそらくダメだろう」
「どうした? 何があった? 」
「さあ、俺にも分らない。街を歩いていたら階段から突き落とされてそこから記憶がない」
 侍はもうすっかり刀を意識していない。腰をかがめて男のそばにしゃがんだ。侍は男を起こそうとした。
「いや、このままでいい」
 男は耳に入っているヒモを引っ張り抜いた。音が流れている。
「もう俺はダメだ。好きな物を持って行くがいい」
「それは何だ? 」
「これか? ウオークマンと言って音楽などが入っている」
「音楽? 」
「昔だって音楽ぐらいあるだろう? 尺八とか琴とか、歌を謡うだろう」
「歌? 俺は歌なんて歌わん」
「まあいい。別に歌へって言ってる訳じゃない。こっちは聴くだけだ。これを持って行け」と男はウオークマンを外して侍に手渡した。侍は長いイヤホンと小さい機械を手に持ってイヤホンを男がやっていたように耳の中におそるおそる入れた。侍はビクッとした。男は笑った。
「何だこれは? 」と侍はイヤホンを素早く抜いた。心臓がドキドキと激しく鳴っている。
「夏に太鼓を叩いて踊ったり鼓を叩いて踊るだろう。能ってああいうのがたくさんこの中に入ってるのさ」
 男はウオークマンの扱い方を教えると眼をつぶって動かなくなって死んだ。
 侍は男の為に穴を掘ってやりそこに埋めた。男からはウオークマンと靴下と靴とガムをもらった。男が履いていた足袋を履いた。所謂靴下である。そして靴を履いた。足全体を赤ちゃんの頃持たれたような心地良さがあった。靴底のせいで背が伸びて立ち上ると頭の天辺から糸が伸びて引っ張られているみたいに感じて背筋が伸びた。 
 夜になりいつものように野宿だ。火をたいて眺める。侍は退屈な事には慣れている。侍はイヤホンを耳にあててスタートボタンを押した。またドキッとするけれど男が言っていたようにボタンを押すと音色が変った。ジャズが流れた。侍は何か分らないけれど何かと決めようのない、良い心地になった。こんなにいろんな音を聞くのは初めてだ。パチパチと火が燃える音が聞こえた。
 
 雨が降り始める。村人に尋ねて小屋があったのでそこで雨宿りさせてもらう事にする。侍は片肘ついて横になり音楽を聴いている。雨の音も曲と曲の間の静かになった時に聞こえている。火をたいているので濡れていた服や身体が渇いた。暗い小屋の中が一瞬あかるくなった。雷だ。侍はボタンを押して頭の方だけ聞いて自分に会った曲を探した。すると女の声がした。

 ♪ お願いがあるの。バッグを持って走って彼に会いに行った。
 女性は音色に合わせて謡っている。よく意味は分からないけれど女の優しい声はいいと思った。女性の声を彼は探した。
 ♪ 風邪をひいた私のおでこにそっと彼は掌をつけた。なんて優しい手だろう。私は泣きそうなくらい彼を信じて頼った。
 侍は胡坐をかいて男が持っていたガムを噛んだ。男は決して飲み込んではいけないと言っていた。甘い汁が口にひろがった。甘くて美味しい。山ブドウより甘い。ぶどうの味がする。侍はガムを何度も何度も噛んだ。するとその味が薄くなって行った。音楽は優しい女の声でゆったりと音色が流れている。音楽はなんていいもんだ、と侍はガムを噛みながら思う。するとドンドンドンと激しく戸を叩く音がしてドキっとする。思わず刀を持った。自分は今まで隙なんて見せなかったけれど、油断した。別に命を狙われてなどいないけれど侍はいつ何時闘う覚悟をしているものだ。だから余計に殺気が沸いて怖い顔になっていると自分でも分かる。すると小屋の主だった。何かを言っているけれどよく分らない。
「何だ! 」と思わず怒鳴った。主は驚いた顔をしている。ああ、何だ。音楽だ、と侍は気づいて耳からイヤホンを外した。イヤホンから音楽が漏れている。
「すいません、あの、もう一人若いお侍さんが泊めて欲しいと言うのでよろしいですかな」
「ああ、そりゃかまわんが」
「じゃあ、お願いします。さ、お侍さんどうぞ」と主は後ろを見た。すると傘をかぶり蓑を来た若侍が入って来た。若侍は傘と蓑を外してから侍に名前を告げてあいさつした。侍は名前を告げた。若侍は震えながら草履を脱いでいて靴に気づいた。濡れていた靴下は脱いでいてもう乾いている。
「これは何です? 」と若侍は聞いた。
「靴だ」
「靴? 」
「履物だよ」と侍は言ったけれど若侍には理解出来なかった。
 若侍は恥ずかしそうに上った。その身体はきゃしゃで顔も子供っぽい。
「濡れてるんだろう。火のそばにあたれよ」
「かたじけない」
「何がかたじけないだ。まだガキのくせに」
「いや、拙者もう元服をすませた立派な大人でござる」
「大人か」
 若侍は震えながら火に手をかざしている。その姿を侍は見ている。
「見た感じいいとこの侍のようだけれど、何で一人旅なんてしている? 」と侍が聞いた。
若侍は背中に斜めに背負っていた風呂敷を開けた。その中から書状を出して侍に見せた。
「ほう、仇討か」
「はい」
 若侍は事情を説明する。侍は火を見ている。パチパチと小枝が燃えている。
「大丈夫か? 一人で」
「大丈夫と言いたい所ですけど分りません。ただ、親類縁者から援助してもらい見事仇討をしなければ我が家は断絶、やらなければならないのです」
「そうだろうけどな、逃げるって手もあるぜ、それとワザと相手を見つけないでずっと探し続ける旅もある」
「そういう事も考えたけれどやはりいずれにせよ心が痛いのです」
「そうだろうな。けれどお前は見た感じ弱いだろ、だから相手を見つけるのを遅らせてその間剣の修行をする方がいいんじゃないの? 」
 侍は胸毛を抜いた。若侍は侍の方を見た。侍は起き上がって小屋の外を見た。
 侍は窓の外、そこには灰色の雲と雨が降り続いている風景を見ている。
 若い女の子おかっぱ頭で黄色い傘を差して雨の中を歩いている。長い靴、つまり長靴を履いて少し俯きながら歩いているのが見えた。けれどそれは侍の頭の中で実際の眼の前は誰もいない。それにその女性は倒れていた男性に近いような恰好だと思う。やはり耳にはイヤホンがささっているのだ。どういう事だろうか? ひょっとしたら自分は輪廻転生してあの女性に生まれ変るのではないかと思った。未来と言うのはウオークマンみたいな不思議な物や靴や長靴、そして丈夫そうな傘があり、とても便利なのだろうと思った。後ろを振り向くと若侍がじっとウオークマンを見ている。若侍は侍を見た。
「何ですかこれ? 」
「音楽だ」
「音楽? 」
「そう、笛や太鼓や琴や三味線が流れている」と侍が言うと若侍は首を捻った。
「持ってみてもいいですか? 」
「ああ、聞いてみろよ。その小さいのを両方の耳の穴に入れるんだ。それでそのボタンを押すんだ」
 若侍は侍の言う通りにした。するとびっくりしてイヤホンを投げるように外した。侍は大笑いする。
「何ですか? これ」
「さあな、俺もよく分らんけれどもらったのだ」
 ウオークマンのイヤホンからは音楽が漏れている。その曲はハードロックだ。侍はイヤホンを耳に入れた。何を言っているのかさっぱり分らない。それと激しい音楽に驚いたけれど心臓が高鳴っているけれど何か身体を激しく動かしたくなるような気持になりスイッチをオフにはしないで聞いた。若侍がこっちを見ている。侍は若侍を見ながら両手を後ろでついて足を前に投げている。足の指は現代人に比べ以上に長くて手の指に近い。その指にはひげが長く生えている。侍は状態を前にやった。若侍は侍を見ている。侍は黙ってハードロックを聴いている。
 
 翌朝、雨は上がっていた。侍は外に出た。まだぬかるんでいて水たまりがところどころにあるけれど侍は靴なので平気だ。すると若侍も出て来た。
「どこへ行かれるのです? 」
「城下だよ」
「私もです」
 侍の後ろを若侍が歩いていて懐からおにぎりを出してムシャムシャと食べながら歩いている。侍が後ろを振り向くと申し訳なさそうな顔をした。
「おにぎりぐらいあの小屋でゆっくりと食べればいいのに」
「はあ、でも」
「なんだ? 」
「貴方について行きたくて」
「俺について来てどうする? 」
「実は城下に相手がいるのです」
「相手? ほう、じゃあ、もうやるんだ」
 若侍は頷いた。侍はきっとこの若侍はやられると思った。勝てる訳がない。それは送り出したこの若侍の家族も分っているのだろう。色白でひ弱な身体である。
 若侍は懐からもう一つおにぎりを出した。
「どうぞ」と若侍はもう一つのおにぎりを侍に渡した。
「いや、俺はいい」と侍は言い、懐からガムを出して噛んだ。
「何ですか? それ、薬ですか? 」
「まあそんなようなものだ」と侍はいい、グレープ味のガムを噛んでいる。
 若侍はおにぎりをしまった。侍はウオークマンを出して聴き始めた。
 城下に入った。街の土は雨で濡れているけれど賑やかに人が歩いている。
「あの、ご飯でも食べませんか? 奢りますよ」と若侍が声を掛けた。侍はイヤホンを外してもう一度聞いた。
「ああ、奢ってくれるんなら食べるぜ」
 食堂に入った。食堂ではかわいい娘が食事の注文をとり客にご飯を運んで忙しく相手をしている。看板娘なのだ。
「何にします? 」と娘は聞いた。
「お、俺は焼き魚とめしと汁と漬物だ」と侍が言った。
「私はうどん」
「はい、焼き魚とごはんとお汁と漬物とうどん」と娘は大きな声で厨房に言った。
 侍は横に座って机に肘を置いて運ばれたお茶を含んだ。若侍は湯呑を右手で持っている。
「で、何だ? 俺に助っ人でもして欲しいのか? 」と侍が言うと若侍はパッと侍の方を向いて頷いた。
「何で、昨日知り合ったばかりの他人の助っ人を俺がやるんだよ。しかもご飯一度奢ってくれただけで」
 若侍の顔が引きつり俯いた。娘がうどんを運んで来た。かまぼことねぎが乗っている。かつお節と昆布のいい香りがする。侍はうどんを持って来た娘にガムを一粒渡した。
「これなあに? 」と娘は掌でもらったガムを見ている。
「噛むんだよ。飲み込んじゃダメだぞ」
「へー、ありがとう」と娘は言い口に入れた噛んだ。娘はガムを噛みながら注文を聞いたり食事を運んでいる。
「うどん食べなよ。のびるぜ」
「はあ」と若侍は言い箸でうどんを食べ始めた。じーとその心弱い若侍を侍は見ている。身体を横に向けていて足を揃えて伸ばして少し浮かせる。靴を履いているのだ。
 娘がごはんと漬物の汁と焼き魚を持って来た。
「これ、甘いのね。ありがとう。変った草履ね」と娘がごはんと汁と焼き魚と漬物を侍の前に置いた。
「靴ってんだ。草履より便利だぞ」
「へー、どこで売ってるの? 」
「さあ、俺も拾ったんだ」
「いいなあ」
 娘はガムを噛みながら侍を見て笑った。侍も娘を見て笑った。箸を持って正面を向いてうどんを食べている若侍を見ながら焼き魚から食べ始めた。
 食事が終った。侍の皿の上には魚の長い骨だけがある。若侍もうどんを食べ終えた。少しうどんの汁が残っていて、侍はその丼を持った。
「汁くれよ」
「はあ、どうぞ」と若侍が言うと侍は丼の汁を全部飲んで丼を若侍の前に置いた。若侍はお茶を飲んでいる。
 小屋の中で降りしきる雨を見ていた時に頭に浮かんだ女性が見えた。女性は椅子に座り食事をしている。箸ではない。ホークを持っている。けれど当然、侍はそれがホークだとは分らない。そばかうどんをそれに巻きつけて食べている。それはパスタである。女性の前にいるのは男性だ。女性は笑っている。どういう事だろう? 異国の風景が見えているのだろうか? けれど黒髪と言い黒い瞳と言い異国とは思えない。女性はふっと横を向いた。

「おい、相手はどんな奴か一緒に見に行ってやろうか? 」と侍が言った。
「はい」と若侍はうれしそうに答えた。
 外に出た。まだ地面には水たまりがある。その水たまりを歩かないように町を歩く人々は歩いている。子供達がその周りにいて石を投げて跳ね返った泥水を避けて笑っている。侍は子供達を見て笑った。するとまた風景が変った。黄色い服を頭からかぶった子供達がいる。それはカッパである。背中には袋を背負っている。それはランドセルだ。子供達は赤や青の長靴を履いてアスファルトに出来た水たまりの水を長靴を履いてその水が跳ね返るのを楽しんでいる。女性が傘を差して子供達を見て笑っているけれど、バイクがそばを通った時、タイヤが他の水たまりの上を通って女性の方まで跳ねた。女性は長靴を履いていてバイクが跳ねた水は長靴についただけだった。

 相手は町道場にいると言う。道場のそばまで来ると若侍が侍の腕を引っ張った。前方から歩いて来ている二人がいる。
「あの侍です」と若侍は言った。侍が見たのはいかにもボンボンで生意気で嫌味な顔をした相手だ。その後ろにはもう一人いるけれどその男も見た感じ、普通で剣術の腕もたいしたことはないだろうけれど、若侍だと勝てそうもないと思ったけれどあのボンボンならなんとかなると思った。
「あの、アゴが出た方か? 」
「はい、後ろにいるのはアイツの親が差し向けている用心棒です」
 若侍は木に隠れて見ている。仇討のボンボンは道場の中に入って行った。
「アイツなら何とかやれば勝てるだろう」
「そうでしょうか? でも、相手は助っ人がいます」
「まあ、あの助っ人には勝てないだろう」
 若侍はうなだれた。道場の中を相手を警戒しながら見た。成程、強い奴もいるけれど俺より強い奴はいない。これなら、いける! と侍は思った。相手の住んでいる所もつけて分った。
「行こう」と侍は言った。若侍は後ろを歩いている。
「あの、その音楽貸してもらえませんか? 」
「あ? いいよ」と侍は懐からウオークマンを出して貸してやり、使い方を教えた。耳にイヤホンを入れて曲を選んでボタンを押すたびに若侍はビクッとする。けれど女性の優しい曲を選んで聞いている。
「おい」と人気のいない空き地へ来た。
「はい」と若侍は慌ててボタンを押してオフにしてイヤホンを外した。
「助太刀してやってもいいぞ」
「本当ですか? 」と若侍はうれしそうに大きな声で言った。
「まあ、いいけど、でも最後はあのアゴやろうは自分でやれよ。助っ人は俺がやってやる」
「はい」
「ちょっとお前、刀で掛って来いよ」
「え? 」
「お前の腕を見てやるよ」
「いいんですか? 」
「いいよ。お前の腕がどれくらいが想像がつくよ。真剣で来いよ」
 若侍はウオークマンをしまって刀を抜いて侍に掛って行ったけれど軽く侍にいなされた。侍はやっぱり、と思った。この程度かよ。
 若侍の奢りで旅館に泊った。風呂に入り、料理も食べて酒も飲んだ。時間を掛けてこの若侍を修行したところであのアゴとの距離はつまらない。だから、すぐにやると言った。若侍もそのつもりであるらしく、それでも緊張して酒を飲んだ。
 侍はウオークマンを聞いた。女性の声で優しい歌だった。何度も聞いた。
 ♪ 家に帰ったら電話が鳴った。彼からだった。デートの約束だった。うれしくて着替えないでそのままベッドに転がり枕を抱いた。 
 寝転んで聴いていると女性が浮かんだ。スピーカーから同じ音楽が流れ女性はベッドに座り壁に凭れて聴いている。枕を抱いている。頬を涙が伝っていて指で拭った。

 早く眼が覚めて朝食を食べると旅館を出た。途中まで着いて行ってやる相手には自分がいる事がばれないように離れて歩く。若侍は貸してやっているウオークマンを聴いている。相手の家まで来て使用人が出て来たので相手に仇討の事を告げてやり取りがあった。すると相手は使用人を通じて分ったと言った。若侍が侍の所に来て、いいだろう、と相手も仇討を受ける事を言った。若侍は約束の場所に行って侍はついて行く。場所で待った。若侍はウオークマンをずっと聴いている。侍は若侍のイヤホンを片方抜いて自分の耳に入れた。ハードロックだった。てっきり優しい歌声の女性ボーカルの音楽かと思っていた。
「激しいの聴くんだな」
「こっちの方がやる気が出ると思って」と言った若侍の眼付が変っている事に侍は気づいた。侍はガムを噛み若侍にもやった。
 相手が来た。アゴと助太刀ともう一人いる。相手は三人だ。侍はもう一人いてその男が自分より大きくてしかも槍を持っている事に気づいた。道場にはいなかった奴だ。ヤバイ、あいつは出来る! と侍は直感で思った。予定だとさっと付き人を斬ってアゴ野郎も軽く斬ってとどめは若侍にさせる予定であったけれど、槍が相当出来ると分った。まずい。侍は左腕の二の腕を直接触った。鍛えているけれど柔らかい皮膚。でもそのすべすべの肌は途中で途切れて溝がある。これは侍が若い頃斬り合いをやった時に斬られた傷である。事あるたびに意識する時もあれば無意識で触る事がよくある。あの頃は自分の強さを過信していた。やられたと思った。あの頃の危うさを思い出すとひやりとする。これから、自分はどうやって生きればいいのか? ずっと悩んで来た。旅を繰り返していつかどこかの藩で指南役にでも収まればいいと思いつつダラダラと生きて来たのだ。侍だからいつ斬られて死んでもいいけれど、やはり勝つもりで行くのが、闘う心だろう。
 女性が鏡の前にいる。女性は侍が癖で左の二の腕を触るように肩を触った。女性に傷でもあるのだろうか? 俺も肩は斬られた事はない。彼女は幸福だろうか? 幸福で会って欲しいと思う。充実した毎日を過ごして好きな人と家族を持てばいい。あの女性ならそういう事が出来るだろうと思う。
「あの」とさっきまで元気だった若侍が情けない顔で侍の方を向いた。
「なんだ! 」と侍は作戦を練り直しているんだぞ! と言う心でムッとして言った。
「音楽が聞こえなくなりました」と侍は言った。侍は倒れていた男性が充電だからいつか聞こえなくなるよ、と言っていた。この勝負に勝ったらまたあの音楽を聴こうと思っていたのに!

「おい、約束通り来てやったぞ、やはりそっちも助っ人を連れて来ていたか、お前だけなら俺一人で勝てるからな」とアゴは言った。若侍は仇討の書状を懐から見せた。閉っていたウオークマンのイヤホンが懐から一緒に出た。
「そんなのはどうでもいい。返り討ちにするんだから」とアゴは言った。若侍は震えながら刀を抜いて突っ込もうとする。侍が襟首を掴んだ。
「おい、槍で一突きにされるぞ、いいか、お前はアゴをやれ、なんとか持ちこたえろ。声を出せ、俺が戻って来るまで」
「はい」と若侍は震えた声で答えた。
 槍の男が槍の鞘を抜くととりゃーと言っていきなりかかって来た。こっちの体制が整はないのを狙っているのだ。侍は若侍の前に出た。すると付き人もやって来た。若侍狙いだ。アゴも刀を抜いている。このまま逃げるのが一番の得策だろう。生きるのなら。でも確実に若侍は死ぬ。関係ない。関係ない。自分が助太刀しなかったら確実に若侍は返り討ちに会うのだ。侍とは何なんだろう? いや、人とは何なんだろう。何で関係のない奴の助けをして自分が命を掛けなければならないのか? けれど人とはそういう優しい者ではないのか?
 ついて来た槍を抜いた刀で払った。へぼな槍使いの槍なら斬っているけれど交わしただけだ。
「居合か! 」と槍使いは言った。やはり相当出来る。うりゃーと来た付き人が若侍に迫っている。侍はパッと付き人の前に立ってそのまま付き人を斬った。付き人は倒れた。一緒に来ていたアゴは驚いて地面に尻持ちをついた。すると槍を感じた。振り向いた時、交わしたけれど自分のアゴをかすめた。髭も斬られて数本落ちた。肩とアゴから血が流れている。やはり槍使いに照準を合わせないとダメだ。アゴが立ち上がり狂ったように若侍に迫った。
「逃げろ! 走れ! 」と侍は言ったけれど、若侍は震えて動けない。槍を斬った。そして若侍に斬り掛ってくるアゴの腕を落とした。
「はやくとどめをさせ」と侍は大声で怒鳴った。その時、槍使いが槍を捨て刀で袈裟斬りに斬って来た。サッと交わしたけれど肩を斬られて相手の刀が斬り終わり下に行った時に侍は槍使いの首に刃をあてた。首から大量の血が飛び出て槍使いは倒れた。侍は左肩から出ている血を感じる。血がドクドクと流れている音が聞こえている。やっぱり俺はあの女性に生まれ変るんだ。彼女が触っていたのは前世の名残でこの傷だろう。侍は左肩を抑えた。
 俺は自分を許せるか?
 若侍は倒れているアゴを上から刀で突き刺した。
 
 ♪ 自分の夢のために私を捨てた貴方の音楽を聴いてみるの。許せる? 何度も何度も私達の生活を謡ったあの人の曲を私は聞く度に涙が溢れるの? 許せる? 私を捨てた彼? ううん、彼を信じなかった自分を私は許せるの? 彼にもう一度会ってもう一緒に話したい。

 ウオークマンに入っている侍が何度も聞いた曲が頭の中を流れる。あの女性がまた肩を触った。そうかこの傷か。やはり俺はあの女性に生まれ変るんだ。侍はうつ伏せにゆっくりと倒れている。
若侍が泣きながら上から見ている。自分を呼ぶ声が聞こえるけれど遠くなっている。侍は笑いたいけれどもう笑う力もない。ゆっくりと涙で溢れた瞼を閉じた。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...